犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の裁判所書記官の日記 (21)

2011-08-22 23:51:59 | 国家・政治・刑罰
(20)から続きます。

 刑事裁判の法廷で被告人に求められることは、真摯な反省および謝罪の念、そして更生と社会復帰への決意を示すことである。これは、哲学的に突き詰めれば、「人はいかに生きるべきか」という問いにつながる。しかしながら、哲学的な問いの本来の順番としては、「生きているとはどういうことか」という疑問のほうが先に来る。そして、この本来の問いは、被害者の側から示されることが圧倒的に多い。
 罪を犯した被告人に対し、「人はいかに生きるべきか」という問いを投げ掛けるならば、答えは非常に簡単である。今後は二度と罪を犯さず、真面目に働き、社会に迷惑をかけずに立ち直る、という絶対的な正解があるからである。刑罰の謙抑性を具体化すべき刑事裁判の法廷の中では、この単純な正解の力が非常に強い。従って、裁判官も最初からその正解を求め、検察官もその正解を見越して重めに求刑をし、弁護人もその正解を引き出すよう弁論を周到に用意することになる。

 これに対し、被害者側からの「生きているとはどういうことか」という問いは、刑事裁判の法廷では本来的に扱うことができない。死者においては「なぜ死ななければならなかったのか」という問いが自然に立ち、遺された者においては「なぜ自分にはこのような人生が与えられたのか」という問いが自然に立つ。これは、「人はいかに生きるべきか」という形に変形できる問いよりも前に来る。
 刑事裁判で扱えない疑問は、法制度を維持しようとする圧倒的な力により、法廷内でも扱える形で解釈される。「息子は私の宝物であった」という紛れもない真実や、「せめてもう一度だけでも会いたい」という絶望的な希望は、法廷内で語られるや否や、被告人に対する厳罰感情・被害感情を示す言葉以外のものではなくなる。こうなると、この問いは「人はいかに生きるべきか」という形に押し込まれ、被害者に対しては、1日も早い立ち直りや回復という正解が押し付けられることになる。

 今日の午前中の裁判の母親は、悲劇のヒロインであった。事件の遠因には離婚した前夫の無責任さがあり、母親には被害者の側面もあることも確かだった。また、現代社会が構造的に抱える貧困の問題も深く関わっていた。母親が法廷で流した涙は、自分自身の境遇に酔っていた側面は多分にあるものの、単なる演技であるとは思われなかった。弁護人の質問に対して、一問一答でスムーズに受け答えが進んでいく様子は、刑事裁判の制度が予定している姿であった。
 これに対し、午後の裁判の母親は、上手く言葉が出て来ないことが多く、考え込む時間が非常に長かった。母親が言葉に詰まると、検察官は質問を変え、さらには「あなたが言いたいのはこういうことですね」と強引に結論付けて先に進んだ。弁護人は露骨に腕時計と法廷内の時計を見比べて、尋問の時間がオーバーすることを戒めた。結局、尋問は最後のほうは駆け足となり、何とか時間内に終わった。供述調書は、午前中の事件と比べると、「・・・・・」ばかりが目立った。

 裁判所の法廷で証言をするということは、国家権力の発動に直接的な影響を与えることである。よって、尋問前には格式に則った宣誓を求められる。その上で、虚偽の証言に対する偽証罪の警告も裁判官から与えられる。このようなルールを前提とすれば、自ら望んで法廷に来たのに、言葉が出ずに黙り込むような証人は、法廷で陳述する者として適格ではない。そして、時間で区切られた法廷では、このような沈黙にいつまでも付き合っている暇はない。
 午前中の母親の被告人質問の際には、検察官も弁護人も、母親の供述を一言一句聞き漏らすまいとしていた。それは、次の質問につなげる過程であり、あるいは前の供述との矛盾点を暴き出す正念場であり、物的証拠との整合性を確認する真剣勝負であった。他方、午後の母親の証人尋問の際には、検察官も弁護人も、母親の証言の一言一句を聞こうとはしていなかった。沈黙が続いたときには、イライラした表情が隠せない様子であった。私は、組織人である自分が、不可避的にこの環境に流されつつあることに気付いていた。


(22)へ続きます。

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