犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の裁判所書記官の日記 (17)

2011-08-13 23:56:53 | 国家・政治・刑罰
(16)から続きます。

 午前中の事件の被害者である4歳の子と、午後の事件の被害者である7歳の子とでは、どちらの人生が幸せであったのか。いずれも短い人生であったとしても、どちらの人生に意味があったのか。そして、どちらの死がより悲しいのか。また、どちらの命が重いと言えるのか。
 2つの事件を比較していると、どうしてもこのような問いに捕らわれる。そして、自問自答している限りは双方の答えが正解であり、問題の立て方が下手なのだと気付く。また、仮にこのような問いが2人以上の人間によって論じられるならば、A説とB説が対立し、問いが問おうとしていたものからは離れるのが通常のことだと気付く。

 午後の裁判で陳述した母親は、今でも毎日後悔の念ばかりであると語った。そして、息子には厳しいことを言わないで、もっと優しくしてあげれば良かったのだと述べた。私は、彼女の言葉が1つ1つ当たり前であり、ことごとく正しいことに驚いた。これは、限界まで研ぎ澄まされた論理によって、正しい選択肢を選び取っているという論理的な正しさであり、証明を要する種類のものではない。
 自分の子供を厳しく育てることは、将来大人になったときに社会に迷惑をかけないためであり、かつ本人が苦労しないためである。厳しいしつけには明確な目的がある。ところが、現実に起きたのは、大人になる前の死である。どんなに母親が「現実を受け入れていない」と言っても、社会常識は「現実を受け入れろ」と迫る。社会人になる前に、7歳で命を落としたという事実を前提とするならば、将来の長い人生を慮って行った家庭教育は無意味である。それならば、1分1秒でも怒る時間が短く、優しくする時間が長かった方が、その短い人生には意味があったことになる。彼女が述べた論理の筋は明らかである。

 これに対し、午前中の裁判で陳述した母親は、息子を厳しくしつけなければならないと考えていた旨を語った。そして、息子に対して虐待したことはなく、しつけのつもりであったと述べた。もちろん、保護責任者遺棄致死罪を裁く法廷の場においては、弁護戦術として、被告人にはこれ以上のことは言えない。他方で、息子には将来どんな大人になってほしかったのか、母親から家庭教育の目的に関する具体的な言葉が語られることもあり得ない。私は、この男の子は、母親に二度殺されたのだと思った。
 人生はやり直しがきかず、時間は戻らず、起きてしまった出来事は取り返しがつかない。通常、我が子を亡くした母親は、その現実を知り抜いている。従って、午後の事件の母親は、息子の死を受け入れなかった。ゆえに、「今後の人生で二度と心から笑えることはないだろう」と語った。ここには損得勘定の働く余地はなく、論理的な絞りがかかっている。これに対して、午前中の事件の母親は、今後の人生で間違いなく心から笑う日が来る。罪を償って出所すれば、暗い過去を引きずる義務もない。

 午前中の事件の母親は、厳しいしつけをすることが母親の愛情であったと語った。その上で、息子に対して「許してほしい」と懇願し、激しく涙を流した。やはり、刑事弁護における弁護人の腕は重要だと改めて思う。そのように筋書きを書けば、それ以外の言葉は事実に反するものとなり、被告人は無理に嘘をつく必要もなくなる。そして、被告人の検察官に対する否認の言葉は力のこもったものとなり、いかに論理の筋が曲がっていると指摘されても、検察官の問いの方が的外れとなる。
 母親の弁護人は、母親の更生への意欲は高く、罪刑の均衡を大幅に失した重罰は憲法31条に違反するのだと主張した。さらに、母親は主犯格でなく、我が子を失った悲しみの上にさらに国家が重い刑罰を科することは、憲法36条が禁じる残虐な刑罰に該当する危険性も高いと述べた。厳罰を要求すべき被害者遺族の地位と、寛大な刑を求める殺人犯の地位とが一致している特権的な身分にある者だけが、この手の理屈の恩恵を受けることができる。そして、被告人としてではない母親としての罰は、国から与えられるものではなく、懲役何年なら償えるという形で線を引くことができない。


(18)へ続きます。

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