犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

存在と時間

2007-03-22 19:07:51 | 時間・生死・人生
20世紀最大の名著と言われるのが、ハイデガーの『存在と時間』である。ハイデガーによれば、存在者たる人間を存在させるための条件が時間である。我々人間は、今まさにここで流れている時間の中でしか存在できない。時間の中で生まれ、時間と共に生き、そして時間の中で死んでゆくしかない。人間のすべての行動は、すべて時間の流れの中にある。

人間が時間的な存在であることを、ハイデガーは「時間性」と呼んだ。人間は、この「今」にしか存在できない。過去に存在することも、未来に存在することもできない。人間が存在するということは、「今現在」に存在しているしかない。過去は過ぎ去った「今」であり、未来はまだ来ぬ「今」である。2007年から見れば、2000年は過去であり、2010年は未来である。しかし、我々は2000年当時には2000のことを「今」と言っていたし、2010年には2010年のことを「今」と言っているだろう。

この人間にとって逃れられない「今」の存在形式が、人間の生死と深く関わっている。犯罪被害者遺族の悲しみも、この視点を離れては本質を見失ってしまう。愛する人はあの時には存在したのに、今は存在しなくなってしまった。時間は戻らない。あの時の「今」は、今の「今」ではない。この哲学的な身も蓋もない現実の恐ろしさは、人間存在に伴う宿命である。我々人間が時間的な存在であること、そうでしかあり得ないこと、犯罪被害者遺族の喪失感は、ハイデガーの洞察によってピタリと言い表されている。

このような犯罪被害者遺族の微妙な喪失感に対して、裁判制度のカテゴリーは無神経に土足で踏み込んでくる。法律学のカテゴリーでは、時間は数直線の上を淡々と流れるのみである。犯罪は未遂から既遂となり、示談交渉は歩み寄りから成立に向かい、裁判は冒頭陳述から論告求刑、判決に向かう。そこでは迅速な裁判が求められるが、戦術的な引き延ばしの方策も用いられる。そこでは、哲学的な「今」の緊張感が完全に抜け落ちている。犯罪被害者遺族が何を悲しんでいるのか、その問題の所在すら理解できない。

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