犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

心身二元論

2007-03-21 18:36:28 | 時間・生死・人生
現在の刑事裁判おける事実認定と法解釈の枠組は、主観・客観の二元論である。これは、デカルト(Rene Descartes、1596-1650)の心身二元論のカテゴリーに留まっている。まずは客観的構成要件として人間の外形的な行動を捉え、その後に故意・過失といった人間の内心を主観的構成要件として捉える。そして、この重なり合いの範囲において犯罪を成立させる。同じように人を死なせたとしても、殺意があれば殺人罪として重く処罰されるが、殺意がなければ傷害致死罪として軽く処罰される(刑法38条2項)。

デカルトの心身二元論のカテゴリーは、犯罪者の客観面と主観面を順番に見てゆくものである。ここで、デカルト以来の近代社会科学における人間の捉え方に対して、ハイデガーは20世紀に入って重大な疑問を投げつけた。この「犯罪者の客観面と主観面」を外から見ている「主観」はいったい誰なのか。

デカルト以来の近代社会科学によれば、人間とは認識主観である。そして、「犯罪者の客観面と主観面」を見ている主観は、裁判官に他ならないとされるだろう。しかし、そこで仮定されている裁判官の主観には、「メタ認知」としての特権的な地位が与えられてしまっている。その裁判官という地位は、人間ではなく肩書きであり、恣意的な主観ではなく理性的な客観であるという建前である。そこで近代刑事裁判は、どの裁判官が判決を下しても同じ結果になるように苦心し、法律の客観性を守ることに四苦八苦してきた。

しかしながら、ハイデガーによれば、そのような「メタ認知」としての特権的な地位など、この世のどこにも存在しない。裁判官は人間である。人間であれば、誰しも同じようにこの世に生まれて、生きて、仕事をして、最後には死ぬだけである。存在者である人間は、このような「世界内存在」としてしか存在し得ない。この点で、裁判官と被告人には何の差異もない。被告人の主観と客観は裁判官にとっての主観であるのと同じように、裁判官の主観と客観は被告人にとっての主観である。世界制作的であり、世界内存在である人間は、自分の周囲のものとの関わり合っていなければ存在していることができない。20世紀最大の哲学者であるハイデガーは、このようなごく当たり前の事実の指摘によって、17世紀以来のデカルトの心身二元論のカテゴリーに衝撃を与えた。

刑法学による犯罪被害者の見落としも、この17世紀のレベルに留まっている心身二元論の影響が大きい。裁判官の「メタ認知」としての特権的な地位からは、犯罪者の故意・過失といった内心を追及することには熱心だが、犯罪被害者の悲しみは眼中になくなる。また、裁判官の「メタ認知」としての特権的な地位は、1人の人間ではないため、犯罪被害者の悲しみに人間として共感することも禁じられる。

犯罪被害者による近代刑法のカテゴリーへの違和感は、20世紀から17世紀への違和感である。「21世紀は人権の時代だ」という標語だけでは仕方がない。

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