犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

死刑廃止論

2007-03-23 18:27:44 | 時間・生死・人生
「死」という漢字は恐ろしい。見ていると、何となく引き込まれるような感じがある。人間は、生きていれば必ず死ぬ。この自分も死ぬ。「死」という漢字を見ることは、死を見ようとすることである。それには、自分の存在を足元から崩されるような恐ろしさがある。

この「死」という漢字に「刑」という字をくっ付けたらどうなるか。一気に自分の足元は安定する。もちろん死刑存置論と死刑廃止論の激しい対立、その厳しさや死刑の残酷さなどといった問題は一気に噴出する。しかし、「死」という漢字を見つめた時に起きるような、吸い込まれる感じは生じない。死刑囚を除けば、死刑はどこまでも他人事である。

死刑の賛成反対で熱くなっているとき、人間は自分がいずれ死ぬべき存在であることを忘れている。目の前の死刑の議論に夢中になることによって、人間は死を忘れることができる。この奇妙な逆転現象が、ハイデガーの指摘するニヒリズムの変形である。不完全なニヒリズムの表れである。

被告人を死刑にせずに終身刑にしても、いつかは寿命で死ぬ。死刑判決を言い渡した裁判官も、死刑執行を許可した法務大臣も、死刑を執行した拘置所の職員も、いずれは死ぬ。それを見ている自分も必ず死ぬ。しかし、死刑存置論と死刑廃止論で熱く議論している間は、人間はこのような恐るべき事実を忘れていることができる。

人権論に基づく死刑廃止論の説得力が欠ける原因は、そもそもの最初の殺人事件から生じている死を無視していることによる。人権論を主張するならば、最初の死を無視する構造は必然的である。不完全なニヒリズムは、死の直視によるニヒリズムを避けるための方便だからである。変形ニヒリズムの人権論が、犯罪被害者遺族の苦しみや悲しみを扱い切れない理由はここにある。

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