犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (23)

2014-02-24 21:34:20 | 時間・生死・人生

 私が調子に乗って屁理屈の演説をしているとき、依頼人の存在はどこかに飛んでいる。正確に言えば、依頼人の存在を利用し、代理人という肩書きを最大限に使いながら、献身的な姿勢をほのめかしているということである。「正義」という観念は、改めて怖いものだと思う。正義が正義として主張されるのであれば、それは無条件に絶対的正義であり、その内容については既に主張が終わってしまっている。内省の契機を経ることがない。

 「3ヶ月前には3ヶ月後のことはわかりませんから、3ヶ月で結論が出るか出ないかという結論がわかっていたら話が変ですから、お宅の質問にどう答えたら納得して頂けるのか、こちらのほうが教えてほしいんですが」と、私は溜め息を交えた声を出す。担当者の非常識ぶりにうんざりしている自分を装っているうちに、本当に担当者の非常識ぶりにうんざりしてくるのが不思議である。言葉は世界を作り、存在しないものを存在させる。

 ベラベラと屁理屈を述べて相手を困らせ、疲れさせるのはいい気分である。葛藤を経ていない安い言葉である分、論理は明快であり、迷いがない。ここで自分の言葉に責任を持つということは、自分が責任を問われないように注意することであり、相手に責任を負わせることである。相手から言葉尻を捉えられたり、揚げ足を取られることは、言葉を大事にしていないことの証拠だとして非難される。この思考停止から抜け出すことは難しい。

 私は、「債務者の味方」といった正義を標榜し、悪と闘い、暴走する罠には落ちたくない。ある正義は、逆から見れば不正義であり、相互に正義が暴走しているだけである。債権回収会社の担当者も、忠実に社会人の義務を果たしているに過ぎない。ここの表向きの論理によって見えなくなる部分、すなわち社会の裏側や汚い部分を知らないまま、世間知らずの学生の延長で「社会を変えたい」と熱くならないよう戒めるのみである。

(フィクションです。続きます。)

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