私は、依頼人とその妻のことを弱者だとして同情し、心のどこかで見くびっていたのかも知れない。法律事務所という場所で、嘘を嘘で塗り固める理屈に囲まれてばかりいるうちに、人が運命を受け止めたときに生ずる洞察力への謙虚さを失っていたのだろうと思う。私は、依頼人の妻の声を耳にし、ふと我に返った。言葉は必ず人間に嘘をつかせるという意味を悟ることと、私が普段の仕事の中で切り回している嘘とは全く違う。
この仕事のゴールは決まっている。すなわち依頼人の死である。また、依頼人が亡くなるまでの間、私は事故や事件で死なないことになっている。そして、依頼人があまり長く生きられると、業務が迅速に流れない。所定の作業が進捗しないことは、経済社会のルールからは最も非難に値することである。そして私は、事務所に債権回収会社からの催促の電話が続くことを嫌がっている。依頼人の妻には、この辺りは全てお見通しである。
私は依頼人を前にして一緒に覚悟を決め、人が自らの人生を1分1秒生きることの意味に立ち戻り、この金銭的な些事の一切を私が引き受けると約束したはずであった。自分で責任を負っておいて、その責任を負うことが責任逃れであるとの理屈を用いることは、生死を考えずに生死を論じるという根本的な矛盾に対する妥協である。私は面倒な思考に頭がパンクしそうになっているが、その実体は案外単純なことなのだろうと思う。
私は、法律家としての責任よりも、人間としての責任を負うことを瞬間的に選択した。私は電話口で、「奥様の体調がご心配だったので、はい、こちらは特に問題ありませんので、どうかご無理をなさらない下さい」などと語っていた。ひとたび世の中に出れば、個人の思想を肩書きに優先させることは許されない。しかし私は、この依頼人に親身になって仕事をしないことが、人間のなすべき仕事であるとはどうしても思えなかった。
(フィクションです。続きます。)