犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

個人的な問題と社会的な問題

2007-03-18 16:20:01 | 時間・生死・人生
近代法治国家における刑法は、精密な条文と裁判システムを構築した。これによって人間が手に入れたものは大きかったが、同時に失ったものも大きい。哲学的な視点から見てみれば、むしろ失ったものの大きさが目立ってくる。

愛する家族を犯罪によって失うという経験は、極めて個人的なものである。このような個人の人生に関する大問題の前には、社会的な問題は姿を消す。愛する家族の死という最大の問題の前には、裁判の公正などといった問題は些細なものであり、誰にでもあてはまる天下国家の些事にすぎない。しかしながら、近代刑法の精密な条文と裁判制度は、個人的な問題を強制的に社会的な問題に引っ張り込む。

刑事裁判において、被害者遺族が被告人に対して直接質問をしたり、求刑をすることができる旨の法改正が進んでいる。ここでは、法改正の賛成派と反対派という政治的な対立が生じており、被害者遺族は賛成派という位置づけがなされている。しかし、被害者遺族は好きでこのような政治的な主張をしているわけではない。本来は個人的な問題であるものを、無理やり社会問題の文脈に入れられているだけである。

被害者遺族は、「被告人に対して直接質問したい」と主張している。しかし、それには続きがある。「被告人に対して直接質問したい。でも、本当のところは、そのような細かい法律の話ではなくて、とにかく娘に帰ってきてほしい」。「被告人に対して直接質問したい。でも、もし息子を返してくれるのならば、そのような話はどちらでもいい」。被害者遺族の裁判に対する要求には、常にこのような続きがある。その続きのほうが本質的であるが、法律の社会的な文脈の中では強制的に欠落させられている。

近代刑法の精密な条文と裁判制度は、「娘を返せ」「息子を返せ」という人間の叫びは非現実的であるとして相手にしない。しかし、哲学はこのような叫びこそを現実的なものであるとして受け止める。これが、人間が生きるという現実そのものだからである。赤の他人が被害に遭っていた時には「死者が帰ってくるわけがない」と言って笑っていた人間も、自分の身内が被害を受けた時には、やはり「娘を返せ」「息子を返せ」という言葉が心の底から湧いて来ざるを得ない。

被害者遺族は、「被告人に対して直接質問したい」と主張するとき、それは「本当のところは質問の可否など非本質的な話にすぎない」という断腸の紆余曲折を経ている。愛する家族を犯罪によって失うという個人的な問題について、無理に法律的な問題に変換しているだけの話である。ここで、被告人側から「公正な裁判を害する」「被告人の更生を害する」という反論の持ち出しを許すことは、近代裁判制度の自己矛盾の極みである。被害者遺族にとっては、公正な裁判を害するか否か、被告人の更生を害するか否かが問題なのではなく、そもそもそのような話に付き合わされていること自体が問題だからである。

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