「自分は何もできなかったという無力感に襲われる」と語る人に対して、「そんなにご自分を責めないで下さい」と励ます者は、残酷である。そのような励ましをする者は、自らが無力感に浸ることの救いを知らず、他者から無力感を見せ付けられることの不快感のみを知っている。
「先立った人のことを恨んでしまう」と語る人に対して、「そんなことをすれば亡くなった人が悲しみますよ」と慰める者は、鈍感である。そのような慰めをする者は、先立たなければならなかった者が、自分自身の人生を恨んでいたことへの想像力がない。この恨みとは、当然のことながら、後に残した者に悲しみを生じさせたことに対しての恨みである。
「亡くなったことが現実だとは思えない」と語る人に対して、「徐々に受け入れられる時が来るでしょう」と励ます人は、浅薄である。そのような励ましをする者は、亡くなったことが紛れもない現実であるからこそ現実だとは思えないのであり、これは時間の経過によって変わるものではあり得ないことを見落としている。「現実だとは思えない」と語る者は、平穏無事に日常生活を送っている他の誰よりも、現実が現実であることを知り抜いている。
「なぜ死んでしまったのかわからない」と語る人に対して、「人はいつか必ず死ぬんです」と言って慰める者は、馬鹿である。そのような慰めをする者は、人は必ず死ぬからこそその死が悲しいのであり、現に人は必ず死ぬと知っている者が人の死を悲しんでいるという目の前の現実を見抜くだけの力がない。
「いつも亡くなった人のことを考えている」と語る人に対して、「過去ではなく未来を見て歩いて下さい」と元気づける者は、脳天気である。人が物事を考えるということは、考えたいことを考え、考えたくないことを考えないということである。残された者が亡くなった人のことを考えているならば、それは考えていないことよりも幸福である。この幸福を不幸であると断じる者は、幸福な他者を不幸に陥れていることに気付いていない。
「誰とも会いたくない」と語る人に対して、「気晴らしに○○に参加してみたらいかがですか」と勧める者は、迷惑である。誰とも会いたくない時に誰かと会ったところで、心ここにあらずの状態で早く一人になりたいと思うことがわかっているからこそ、人は「誰とも会いたくない」と語る。
「自分だけが楽しい思いをしては亡くなった人に申し訳ない」と語る人に対して、「あなた自身の人生を楽しんでいいんですよ」と教える者は、無知である。人は、「何をやってもつまらない」と感じているからこそ、楽しい思いをしているように自らを騙しながら生きざるを得ないのであって、言葉をそのまま受け取っては台無しである。
「二度とこのような思いをする人がいなくなってほしい」と語る人に対して、「一緒に頑張りましょう」と熱くなる者は、偽善者である。この言葉の奥底には、「自分だけがこんな目に遭うのは解せない」「世界中の人を同じ目に遭わせてやりたい」「幸福な人を見るとぶち壊したくなる」という激情が渦巻いており、人はそれを全身の力で絶えず抑え続けるからこそ、正当にもこのような言葉を絞り出すことができる。これを政治的な目標のように捉えてしまっては、一体この世のどこに救いがあるというのか。
「先立った人のことを恨んでしまう」と語る人に対して、「そんなことをすれば亡くなった人が悲しみますよ」と慰める者は、鈍感である。そのような慰めをする者は、先立たなければならなかった者が、自分自身の人生を恨んでいたことへの想像力がない。この恨みとは、当然のことながら、後に残した者に悲しみを生じさせたことに対しての恨みである。
「亡くなったことが現実だとは思えない」と語る人に対して、「徐々に受け入れられる時が来るでしょう」と励ます人は、浅薄である。そのような励ましをする者は、亡くなったことが紛れもない現実であるからこそ現実だとは思えないのであり、これは時間の経過によって変わるものではあり得ないことを見落としている。「現実だとは思えない」と語る者は、平穏無事に日常生活を送っている他の誰よりも、現実が現実であることを知り抜いている。
「なぜ死んでしまったのかわからない」と語る人に対して、「人はいつか必ず死ぬんです」と言って慰める者は、馬鹿である。そのような慰めをする者は、人は必ず死ぬからこそその死が悲しいのであり、現に人は必ず死ぬと知っている者が人の死を悲しんでいるという目の前の現実を見抜くだけの力がない。
「いつも亡くなった人のことを考えている」と語る人に対して、「過去ではなく未来を見て歩いて下さい」と元気づける者は、脳天気である。人が物事を考えるということは、考えたいことを考え、考えたくないことを考えないということである。残された者が亡くなった人のことを考えているならば、それは考えていないことよりも幸福である。この幸福を不幸であると断じる者は、幸福な他者を不幸に陥れていることに気付いていない。
「誰とも会いたくない」と語る人に対して、「気晴らしに○○に参加してみたらいかがですか」と勧める者は、迷惑である。誰とも会いたくない時に誰かと会ったところで、心ここにあらずの状態で早く一人になりたいと思うことがわかっているからこそ、人は「誰とも会いたくない」と語る。
「自分だけが楽しい思いをしては亡くなった人に申し訳ない」と語る人に対して、「あなた自身の人生を楽しんでいいんですよ」と教える者は、無知である。人は、「何をやってもつまらない」と感じているからこそ、楽しい思いをしているように自らを騙しながら生きざるを得ないのであって、言葉をそのまま受け取っては台無しである。
「二度とこのような思いをする人がいなくなってほしい」と語る人に対して、「一緒に頑張りましょう」と熱くなる者は、偽善者である。この言葉の奥底には、「自分だけがこんな目に遭うのは解せない」「世界中の人を同じ目に遭わせてやりたい」「幸福な人を見るとぶち壊したくなる」という激情が渦巻いており、人はそれを全身の力で絶えず抑え続けるからこそ、正当にもこのような言葉を絞り出すことができる。これを政治的な目標のように捉えてしまっては、一体この世のどこに救いがあるというのか。
「二度とこのような思いをする人がいなくなってほしい」と願って、本当にいなくなってしまったら、それは最初の願いが実現したとは到底いえないでしょうね。
例えば、信号機のない横断歩道で、幼い命が交通事故で失われた。この事故を教訓にしようという運動が盛り上がり、市民の力が行政を動かし、信号機が付いた。それ以来事故は一度も起こらず、誰もが安心して渡れるようになり、尊い命の犠牲が報われた。めでたしめでたし。
・・・とんでもない絶望です。
私の奥底に眠っている醜い気持ちが同じ境遇の人にもあるのかと思ったらなんか安心しました。
だって、私はいまだに「二度とこのような思いをする人がいなくなってほしい」なんて言葉にできないですからね。ずっと、人類の滅亡を望んでいたのだから・・・
そういう人たちは愛する者の死までも超越したものすごい人間なのかと思って自己嫌悪に陥っていました。
安易な解釈に納得できない者は絶句し、鵜呑みにする者は多弁になるならば、絶句する者はますます沈黙し、世間のマニュアルはますます能弁になるのでしょう。この強力な方向性という目に見えない何物かが、「世間」と呼ばれている目に見えないものの正体ではないかと思います。
最近思うことですが・・・
我が子を喪っていても、「子供の分まで楽しまなくちゃ」「私が泣いていては天国の子供が悲しむ」というようなことを、世間の対面的にではなく、自ら言って、辛いなりに支えにしている方もおられるようです。ほんとうに色々なんだなぁと感じます。
本気でそう思う人は居ないと思っていたのですが、そうでもないのかなと、気がついてきました。
少なくとも、そいう人には世間のマニュアル的な慰めが効果を発揮するので(メディアは殆どその方向ですから)、世間はますます勘違いをするでしょうね。
そうは思えない人まで、なんとかその方向にもっていこうとしますね。
似た経験をしていても、それだけではうかつに口を開けないです。
口に出す前に、その人がどのような考え方の人なのかを思ってしまい、ついつい引っ込めてしまいます。
私事のコメントですみません。