犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (3)

2014-01-23 22:45:58 | 時間・生死・人生

 病院に向かう私は、「余命3ヶ月」という単語の意味に押し潰されながらも、そのことを軽く考えようとしていた。「人は生きている限り誰しも刻一刻と死に近づいており、余命が減っている」という真実は、少なくともその瞬間には私に力を与えてくれなかった。その3ヶ月の間に、私のほうが事故や事件で命を失う可能性についても同様である。私は、まず何から彼に話せばよいのか、どんな顔をしていればよいのか、その答えを欲していた。

 人は余命を宣告された瞬間から、目の前の景色が変わって見えるのだと聞く。そうだとすれば、私はそのように見えている景色の中に置かれるはずである。私は彼ではなく、彼は私ではない。私は私の人生を選んで生まれて来たわけではなく、彼は彼の人生を選んで生まれて来たわけではない。現に私は彼でもあり得たし、彼は私でもあり得た。しかし、医師から余命を宣告されていない私は、自分の死をいつか遠い先のことだと思っている。

 私が死ぬとはどういうことか。世界中、これだけの人間が生きているというのに、よりによって他の誰でもないこの私が死ぬとはどのようなことか。私一人がこの社会からいなくなったとしても、世の中など何も変わりはしないだろうと思う。これは怖くないが、悔しい。他方で、私が死ねば世界は終わり、宇宙も私以外の人間も消滅するだろうと思う。これは悔しくはないが、非常に怖い。要するに、死んでいない者に死のことはわからない。

 思考が形而上に飛び過ぎるのが私の悪い癖だ。私に課せられているのは、法律家としての職務を遂行することである。彼は30代の若さで、人生これからという時に、世の中は不公平ばかりだ。しかし、一日でも長く娘さんの成長を見るために、希望を捨ててはならない。やり残したことも無数にあるだろう。そして、私も奇跡的な回復を祈りつつ仕事をするしかない……。どこかから借りてきたような理屈が、その時にはなぜか説得力を有していた。

(フィクションです。続きます。)

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