犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (4)

2014-01-25 23:20:26 | 時間・生死・人生

 法律家は言葉のプロである。しかし、法律家という肩書きが無意味になる場面での法律用語は、実に無力なものだと思う。ある哲学者が指し示した真実が、私に襲い掛かってくる。「死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて、言葉である」。抽象論ではなく、実際にその通りであることを痛感する。専門用語による技術ばかりでは、言葉は絶望の底まで届かない。

 病院の談話室で、彼と妻はテーブルの向こうに並んで座っている。そして、九割方は妻が話している。彼の500万円の連帯保証債務は、彼の兄が事業に際してノンバンクから融資を受けた際のものである。兄は数年前に自己破産し、債権は回収会社に移っていた。彼のほうは、破産者の職業制限の関係で自己破産ができず、やむを得ず分割で支払いを行っていた。そして、ようやく減った額の残りがこの500万円である。

 彼の妻は、「もう何だか色々と疲れました」と言う。彼の腫瘍が悪性と判ってからというもの、経済的・精神的・時間的な面の全てにおいて、過去の連帯保証債務を支払っている場合ではなくなった。しかし、回収会社からの請求は非常に厳しい。2ヶ月間の滞納が生じると、督促状の封筒は束のようになり、自宅には連日のように催促の電話がかかってくるようになった。その電話の言葉は、あくまでも高圧的かつ暴力的である。

 私が一刻も早く病院に向かわなければならなかったのは、彼の余命が3ヶ月だったからではなく、その3ヶ月が借金の悩みに占領され尽くされる危険が現実化していたからである。医師からの宣告を受け止め、かつ受け止めず、残された時間を残された時間として認め、かつ認めず、沈黙において無数の言葉を語らなければならないこの夫婦にとって、債権回収会社からの連日の請求は全ての言葉を破壊しかねないものであった。

(フィクションです。続きます。)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。