犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ニュージーランド地震

2011-03-28 00:03:03 | 時間・生死・人生
 2月22日に発生したニュージーランド・クライストチャーチの地震で、日本人の死者は25人、行方不明者は3人となりました。1人の死は悲劇ですが、25人の死は統計です。そして、25人の死は悲劇ですが、15,000人の死は統計です。ニュージーランド地震の報道が東北関東大震災の報道に取って代わられたことは、あくまでも報道する側の事情です。どんなに人の死が統計上の数字となっても、それは悲劇である1人の死が集まったものであり、その死の周囲には世界一不幸な人間がその数だけいるのみだと思います。

 東北関東大震災が起きるまでの間、この地震の報道について、私が感じた3つの点がありました。1つ目は、このような災害は「お涙頂戴の悲劇」の枠にはめられるという点です。人は、明るく楽しいニュースを好むものであり、しかも他人の不幸に蜜の味を覚えるものだと思います。そして、直視できないような酷い現実については、それを対象化して悲しむ者と一緒に悲しむ立場に自分を置くことにより、罪の意識を免れることができるのだと思います。
 亡くなった方は何が好きだった、どんな夢を持っていた、それが突然の地震により断たれた、という形で死が美化されると、見る側はひとまず安心することができます。やり場のない気持ちに足場が与えられ、混沌とした感情に向き合う必要がなくなり、日常生活への支障が避けられるからです。こうして、ニュージーランドの悲劇は、テレビを通じて、日本ではある種の娯楽性を帯びていたように感じます。この娯楽性は、キャスターの無理に作ったしかめっ面に象徴されるものと思います。

 私が感じた点の2つ目は、人はこのような災害から「明日は我が身」と考えて、教訓を得ずにはいられないということです。「お涙頂戴の悲劇」を一緒に悲しむことについては、やはり人は偽善であると心のどこかでわかっていますので、そこから逃れようとするのだと思います。他方で、人は生産性のある議論を求めて、被災者の死を無駄にしないための具体的な議論を始めざるを得なくなるのだと思います。
 民放の報道番組では、ニュージーランドの地震の話が、いつの間にか東京直下型地震の話に変わっていたのを記憶しています。おどろおどろしいBGMとともに、CGで首都圏が壊滅した状況が展開されていました。シミュレーションによると、首都圏の死者は最大で13,000人だそうです。このような報道の根底にあるのは、やはり人間の単調な欲望(金銭欲)だと思います。欲望の追求のためには、地震などで命を落としている場合ではないからです。

 私が感じた点の3つ目は、人は天災の中にも人災の要素を見つけ、「このような事態は避けられたはずである」ことを論証し、責任者を探さずにはいられないということです。エゴイズムが飽和した社会においては、やり場のない怒りに対してはやり場を見つけなければならず、「私はこう思う」という賛成・反対論以外は存在しにくくなっているのが現状だと思います。こうして、人の死は悪となり、話はわかりやすい善悪二元論に収まります。
 カンタベリーテレビビルの倒壊については、クライストチャーチ市に責任があるのか、ビル所有者に責任があるのか、といった議論が日本でも起きかかっていたように思います。そして、このような責任者の糾弾が行われてきた逆効果として、何とかして人災の要素にすがりたい被災者の家族に対し、「被害者エゴ」「賠償金目的」という下司の勘繰りが行われ、人の死に対して本来的な敬意を払わない意見も増えてきたように感じられました。

 以上の3つの点は、東北関東大震災の報道では、全く見られないものです。悲劇の要素は全くなくなり、死者・行方不明者の数は統計上の数字となりました。それと同時に、ニュージーランド地震を遠い昔のこととして忘れ去ったように思います。

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2 コメント

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Unknown (文月)
2011-03-30 20:48:12
>どんなに人の死が統計上の数字となっても、それは悲劇である1人の死が集まったものであり、その死の周囲には世界一不幸な人間がその数だけいるのみだと思います。

同感です。

ここでのコメントが相応しいか分かりませんが・・・

今回の大災害で、宗教や科学技術が無力だということを再認識し、さらなる絶望を感じています。
正論である「乗り越える」とか「希望を捨てない」などの言葉が虚しいです。

文月様 (某Y.ike)
2011-04-18 01:24:13
遅くなってすみません。宗教や科学技術は本当に無力だと思います。
絶句・沈黙の瞬間から、しばらく経つと責任者探しが始まって、結果論としての理論の正当性が争われるようですね。
「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」「神は死んだ」というニーチェの言葉を思い出します。

「神は乗り越えられる試練しか与えない」という命題は、神が存在するか否かの問題を素通りしている点において、余計な悩みを増やすだけだと感じます。
大震災直後に人間が直面する第一の心情は、ニヒリズムであると思います。すなわち、世界や人生は無価値・無目的・無意味であり、それゆえに人は世界や人生を解釈しようとすること、この事実を突きつけられる状態です。
そして、ここが出発点にならなければ、その後の論理も狂ってくるように思います。

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