犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

義援金 (2)

2011-03-27 00:06:46 | 国家・政治・刑罰
 憲法・民法・行政法の重要判例に、群馬司法書士会事件(最高裁平成14年4月25日判決)というものがあります。これは、阪神・淡路大震災に際し、被災した現地の司法書士を支援するため、群馬司法書士会が復興支援金の拠出を決定したことに対し、同会所属の司法書士が異を唱えて最高裁まで争った事件です。会員の負担は、登記申請1件当たり50円でした。
 私は、この判例の存在を初めて知ったとき、ひどくショックを受けました。もちろん、事件の内容を詳細に知れば、難しい問題が含まれていることがわかります。「復興支援への人道的援助」というものは、誰にも反対しようのない大義名分であり、そこに全体主義の危険性が潜んでいることも理解できます。また、善意の強制が許されるか、という哲学的テーマに通じることも看取できます。

 しかしながら、法律的にものを考えることはある意味悲しいことであり、そして哲学的テーマを裁判で争うことは虚しいことだという思いは、今も消えることがありません。また、この判例の文言を何の疑問もなく分析し、学問として研究に打ち込める者は、6400名超の死者の存在に打ちのめされておらず、人の生死に対する感覚においてある一線を超えているのだと感じたこともあります。
 この訴訟が提起されたのは、阪神・淡路大震災から3か月後の平成7年4月でした。「被災者のことを考えればこの時期に訴訟などできるはずもない」という非難は、安易な自粛論に便乗したものであり、まさに全体主義の危険性があると感じます。私がショックを受けたのは、被災地以外の者は天災によっても人間の無力さを思い知らされることもなく、虚脱感に打ちひしがれることもなく、自己の外部に自由を求めて戦い、思想・良心の自由(憲法19条)から演繹的に物事を考えることができるという点でした。

 法は抽象名詞の体系です。「激震」「崩壊」「壊滅的な打撃」といった単語は、本来は言葉を失うような自然災害の現場から生まれてきたものと思いますが、現在では組織や政権に関する抽象的な意味で使われ、それが本来の場面における鈍感さにつながっているように思います。言葉を失うときは、単に言葉を失うのみであり、ある主張を論理によって正当化する行為とは正反対の心の構えであると感じます。
 表立って反対できない大義名分の圧力は息苦しいものであり、人権論における自由が、その圧力に対する抵抗を主戦場とすべきであることは理解できます。しかしながら、6400名超の死という動かぬ事実を目の前に突きつけられ、自然の前に人智の無力さを悟り、自らが生かされていることへの謙虚さに思いが至った者は、このような形で人権論の自由を主張したくはならないであろうと思います。

 いずれにしても、この判例の存在は、すでに法律を学び始めていた私にとって、1つの転機となりました。天災の被災者への生命感覚の乏しさは犯罪被害者への生命感覚の乏しさに通じることに気づきましたし、死刑廃止論の述べる「生命の重さ」への違和感の原因も言語化できるようになりました。

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