犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

大阪弁護士会編 『刑事弁護異議マニュアル』より

2012-06-04 23:20:35 | 読書感想文

p.65~

 被害者参加人は被害者論告ができる(刑事訴訟法316条の38)。被害者論告は「訴因として特定された事実の範囲内」で行うものとされている。起訴事実が傷害致死なのに、「殺人として処罰してほしい」などと訴因の範囲を逸脱する陳述がなされた場合には、法316条の38第3項に基づく陳述の制限を求めるべきである。そして、裁判長が制限しなかった場合には、法309条2項に基づき異議の申立をすべきである。

 被害者に対する異議申立で弁護人が注意しなければならないのは、異議を申し立てることによって被告人に不利益が及ぶようなことがあってはならないということである。不適切な異議の申立によって、被害者感情を逆撫でし、裁判員・裁判官の反感を買うようなことだけは避けねばならない。


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 刑事弁護人が犯罪被害者の絶望に無関心であり、被害者の存在そのものが眼中から消える理由について、私は個人の思想の問題が大きいのだと考えてきました。すなわち、もとより人権思想を正義とする者が、それを具体的な場面で実現に移す過程だということです。しかしながら、最近では少し違う感想を持つようになりました。それは、「犯罪被害者のために刑事司法を変えたい」と意気込んでいた新人弁護士が、数年のうちに軒並み弁護士らしい弁護士に変わっていく現実を見てきたことによります。

 「なぜ刑事弁護人は犯罪被害者の虚脱感や挫折感を増幅することばかりするのか」と問われれば、「それが仕事だから」と答えるより他にないと思います。これは、どの仕事にも共通する仕事の一般論です。ある者が何らかの仕事をすれば、必ず他の誰かに何らかの不利益が生じます。そして、人はこの点を他人に指摘されると、自責の念よりも先に怒りが湧くのが通常と思います。すなわち、社会の既存のルールに従い、自分がゼロから考えたのではない受け売りの理論に従っているのに、その責任を自身に向けられた状態だからです。

 いかなる仕事であっても、経験を積んでその業界で一流に近づけば近づくほど、他のある部分は麻痺し、鈍感になって行くものと思います。業界のルールに囲まれていると、その外からの批判的な視点に敏感であることは、精神状態の疲弊を招くからです。「ある者の代理人になる」という弁護士の仕事の特徴は、逆の当事者から委任を受ければ正反対の主張をするという点にあります。悪く言えば、この節操のなさこそが社会の見え方を規定しており、ある者にとっては犯罪被害者を苦悩に追い込むことが快感にまで至る理由だと思います。

 委任を受けた当事者に対して利益尊重義務を負う代理人といえども、相手側への同情が起きることは珍しくないと思います。例えば、ストーカー行為で訴えられた者の弁護を引き受けた弁護士が、「ストーカーの事実など皆無である」と主張しながら、裏では依頼者からの連日の長電話とメール攻勢に辟易しているような場合です。結局のところ、人は目の前にいる者の代理人となって実際に動き始めてしまうと、「理論を実践に移す」ことには困難を伴い、現実に動かされるように動いた上で、当初の目標を失っていくのだと思います。

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