犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「ちいさな風の会」 世話人 若林一美さん

2010-06-08 23:57:46 | 時間・生死・人生
朝日新聞 平成22年6月7日夕刊 『語る人』より

 近ごろ肉親や友人を亡くした悲しみを癒す「グリーフ(悲嘆)・ケア」に関心が寄せられている。その先駆である、わが子を亡くした親たちが集う「ちいさな風の会」が今月、設立から23年目を迎えた。世話人として活動を支えてきた若林一美さんに、改めて会の意味を聞いた。

 ――22年間で変わったことは。
 最初は病気で子どもを亡くした親が多かったのですが、その後は自死の割合が増えています。また会員の多くは母親ですが、5年くらい前から父親が増えています。団塊世代が定年にさしかかり、わが子の死と向き合い、悲しみを率直に話せる男性が増えてきたのかと感じています。

 初めての参加者は苦しみから逃れるすべを求めて来るのですが、それにはこたえられない。互いの悲しみに耳を傾けるだけです。進歩も変化もしない。ただ、初めて来た人が安心できる場所でありたいと思ってきました。

 「子どもを失ってなお、なぜ私は生きつづけるのか」という親たちの苦しみは、癒すとか乗り越えるというものではありません。「人はなぜ生きるか、なぜここに私がいるのか」という生の神髄そのものです。それを10年、20年かけて語り合う。遺族の時間は本当にゆっくりとしか流れません。そんな時間を共有することが、現代では少なくなっている。それを必要とする人がいる限り、この会は続けられると思います。


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 「癒すとか乗り越えるというものではない」「生の神髄そのもの」といった言葉に接すると、ど真ん中にストライクを投げ込まれた感じがします。そして、生の神髄そのものは、法律を初めとする社会のルールによって答えが出るようなものではないと改めて思います。
 法治国家は、事件・事故から過労自殺・いじめ自殺に至るまで、「問いの答えは裁判所にある」との仮説によって支えられています。しかし、実際には「裁判所はそのような場所ではない」との答えが返ってくるのみであり、二次的被害が生じることが多いように思います。

 裁判の手続は、遺族が厳罰感情を和らげてもらわないと和解や示談が成立せず、システムが効率的に回らなくなります。そのため、「わが子の死と向き合う」「10年、20年かけて語り合う」といった種類の言葉は、あからさまに邪険にされるようです。
 客観的にシステム化した法律論は、内面の悲しみのようなものについては、「自助団体のさらなる発展が期待されよう」などと簡単に言って済ませています。そして、実際の団体の活動については興味がなく、裁判の中で生み出された二次的被害まで自助団体に任せられているのが常態のように思います。

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