犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

人間の生の堕落

2007-03-24 16:46:21 | 時間・生死・人生
ハイデガーの警告した「人間の生の堕落」とは、欲望を追求する人間の退廃的な生活のことではない。むしろ、この世の法律を守ることに必死になり、法治国家を維持して社会正義を実現しようとする姿勢の中に「人間の生の堕落」は現れる。

人間は、この世に法律というものが存在すると思い込めば思い込むほど、それを存在させている条件のほうを見落とす。それは、この世というものが存在し、そこに自分という人間が生きていることである。当たり前なことほど見落としやすい。そして、この世に存在する法律の客観的な意味を探れば探るほど、それを探っている人間の存在を忘れてしまう。存在が存在を見落とす、このパラドックスの見落としが「人間の生の堕落」である。

被害者遺族が求めているものと、裁判制度によって実際に与えられるものとの間には、絶望的なほどのギャップがある。裁判制度は、この世における法律の存在を前提とする。それに安住し、それを疑わないことによって、法治国家は可能となる。これに対して、被害者遺族は、存在そのものを根底から崩され、存在が存在するという哲学的な命題に直面させられている。まずは、この差を認識しないことには、犯罪被害者保護政策も始まらない。

ハイデガー哲学は、意識中心主義の近代合理主義の解体を指向する。これが、「人間の生の堕落」からの脱出である。ハイデガーが解体しようとした思想の中には、もちろん宗教的な影響の残る自然法論、そして天賦人権論も含まれる。法律学が犯罪被害者保護に本気で取り組もうと思えば、そこには法律学そのものを根底から覆しかねない根本的な問題がある。小手先の法改正だけではキリがない。いつまで経っても堂々巡りであり、なかなか解決が近付いていないように感じられる原因である。

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