犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

世界内存在

2007-03-26 20:08:05 | 時間・生死・人生
法律学の視点は、主観を排し、客観を志向する。これは「人の支配から法の支配へ」と言われる。すなわち、人間の主観は恣意的であるから、客観的な真理を追求しなければならない。主観的で恣意的な権力者の横暴という歴史の教訓を生かして、客観的な人権を保障しなければならない。これはこれで非常にすっきりしている。しかし、哲学的に見てみれば、主観と客観という視点の取り方がどうにも甘すぎる。このような法律学の視点では、犯罪被害者の問題を取り逃がすのも仕方がない。

存在論の哲学の問題意識は、なぜその1人1人の人間の中で、自分がこの人間なのかということである。どんな人間も、自分の意志ではなく、気がついた時にはこの世に生まれていた。人間は、生まれる時代も国も両親も選べない。こともあろうに、なぜこの両親の間に生まれた人間がこの自分なのかという問題は、人間が生きている限り付きまとう。このような問題には答えがなく、普通はそのまま忘れ去れるが、ふとしたきっかけで再び人間の前に現れる。その最大のものが、犯罪被害である。

「なぜ父親は死ななければならなかったのか」という問いは、「なぜ自分はこのような運命を背負ってしまった子供なのか」という問いである。殺人事件は世界中で起きており、親を殺された子供も沢山いる。しかし、その子供がこの自分である必然性はない。そのような偶然性の中で、なぜ自分にその「親を殺された子供」の役が回ってきてしまったのかという問いである。もしそれが偶然であるならば、その偶然を引き起こしたものは何か。このような無限の問いを一言で集約すれば、「なぜ私の父親は死ななければならなかったのか」という問いになる。法律学はこの問いの所在を理解しない。被告人の供述調書を証拠開示すればプライバシーが損なわれるか否か、公正な裁判が害されるか否か、そのような問題設定をするのが精一杯である。この鈍感さが、さらに被害者を傷つける。

ハイデガーは、このように苦しむ人間の存在について、人間が「世界制作的」であると称した。人間が世界を生きるときには、それは「自分の世界」としてしか生きられず、他方で人間は世界に規律されるということである。これが「世界内存在」というテーゼである。この個と世界の反転性は、ヘーゲルの弁証法にも通じるし、ウィトゲンシュタインの「生と世界は1つである」という断章にも通じる。

犯罪被害者遺族の自問自答は、最愛の人間の存在が突然消滅させられる残酷さであり、それを自らの世界において引き受けているという存在の残酷さである。犯罪という現象は、日々世界中で起きているが、「この犯罪」は「この自分」の人生のみに迫ってくる。それは、世界内存在である自分が、自らの生の営みにおいて必然的に引き受けてしまったものである。このような人間の苦しみは、存在論の哲学の問題意識によって初めて指摘できるものであり、法律の人権論ではやはり掬い上げることができない。

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