犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

報道被害の存在論的側面

2007-03-27 20:04:59 | 時間・生死・人生
報道被害が法律的に問題とされるのは、主に事件直後の取材陣の殺到状況においてである。そこでは、被害者のプライバシー権と名誉権(憲法13条)、これに対するマスコミの報道の自由と取材の自由(憲法21条)の調整という話になってくる。しかしながら、哲学的な問題が生じるのは、時間的にはずっと後のことである。それは、事件を風化させたくないのにマスコミが取材に来てくれず、世論の喚起に尽力してくれないという被害者の声において表れる。

高度情報化社会におけるマスコミは、悲惨な事件が起きればすぐに駆けつけて、大量に取材する。そして、興味本位でワイドショー的に報道し、国民もそれに踊らされて大騒ぎをする。しかし、時代の流れが速い現代社会では、国民はどのような事件でもあっという間に飽きる。マスコミもすぐに去ってゆく。そして、何年後かの判決の時には、国民は「そう言えばそんな事件があったかな」という程度の反応に終わる。熱しやすく冷めやすい国民と、それに迎合するマスコミという構図である。そこでは、被害者にとっては一生に一度の大事件が、マスコミの視聴率の道具にされている。

マスコミは、常に悲惨な事件を探す。1つの事件が終われば、次は別の事件である。深く議論することもなければ、そこから教訓を得るわけでもない。被害者が感じる空しさは、高度情報化社会の流れの速さという構造の前に、人一人の人生が軽く扱われているという実感に基づくものである。マスコミは過去には目もくれず、時代の先端を走り続けることによって、事件をどんどん風化させる。このような報道被害の哲学的問題の側面は、憲法13条と憲法21条による人権の調整というカテゴリーでは捉え切れない。

事件直後の取材陣の殺到状況は、あくまでその後のより大きな報道被害の伏線にすぎない。資本主義経済の中で、視聴者に向かって犯罪という現象を切り売りするという現代社会の構造が、被害者により深い絶望をもたらしている。マスコミの取材が来なくなり、報道をしてもらえなくなったということは、視聴率向上のための商品価値が落ちたことに他ならないからである。このような問題は、報道被害の存在論的側面と表現することができるだろう。

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