犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

被害者遺族の怒りと悲しみ

2007-03-25 18:20:48 | 時間・生死・人生
「最愛の人を殺される」ということは、その中に「最愛の人を亡くす」ことを含む。どんな人間にとっても、最愛の人を亡くした悲しみというものは何十年経っても消えることがない。被害者遺族にとっては、通常の意味での悲しみは絶対に消えない。被害者遺族の「怒り」だけでなく、「怒りと悲しみ」と言われるのは、この点に基づくものである。そして、この怒りと悲しみは、一方だけを消したり減らしたりできるものではない。犯人への怒りが和らぐことによって、初めて悲しみを和らげることもできる。

最愛の人を殺されたことの怒りを埋めるのは容易ではない。法治国家では自力救済が禁止されているため、現代社会でなしうる方法は裁判しかない。そして、その死を無駄にしないためには、二度と同じような思いをする人がいなくなるように、裁判を通じて遺族が心情を訴えるしかない。被告人が心から反省し、謝罪し、そして最愛の人の死が何らかの形で社会に役立つ効果を残すことができたとき、遺族の怒りと悲しみは初めてほんの少しだけ和らげられる。

しかし、このような人間の当然の心情は、裁判ではなかなか実現できない。それは、裁判がそのような場として設定されていないからである。むしろ、弁護士による被告人の人権擁護という制度設計からは、弁護士によって被害者遺族の最愛の人の死が軽視されることが社会正義に合致する行為となる。弁護士法第1条の「弁護士は基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」との規定からは、必然的にこのような結論に至らざるを得ない。

こうなると、裁判は遺族の怒りを静めるどころか、怒りを増幅させてしまう可能性が大きい。それによって、ますます悲しみも深まってしまう可能性が大きい。これが裁判制度の限界である。裁判制度とはこの程度のものである。遺族の怒りと悲しみを少しでも和らげようと思うならば、裁判に期待を寄せて裏切られるという二次的被害の防止は重要である。そのためには、被告人の人権擁護と被害者遺族の保護が両立するといった無理な理屈は有害である。

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