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宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

浮世博史『もう一つ上の日本史』:百田氏の誤り(56)①秀吉が明を征服しようとした「動機は不明」でない!(57)②「北政所」と「淀殿」はおおむね対立的でなく、協調的に豊臣家の存続を図ろうとしていた!

2020-11-14 13:10:19 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)「戦国時代」の章(176-212頁)

(56)百田氏の誤り①:秀吉が明を征服しようとした「動機は不明」でない!秀吉の対東アジア外交政策の一環だ!  (204-207頁)
K 百田尚樹『日本国紀』は、「秀吉が明を征服しようとした動機は不明である」、「日本史の大きな謎の一つである」(158頁)と述べるが、「動機は不明」でないし、「謎」でもない。秀吉の対東アジア外交政策の一環だ。
K-2 秀吉は、16世紀後半、明の衰退の下で、日本を東アジアの中心とする新しい国際秩序を作ることを目指した。秀吉はゴアのポルトガル政庁、マニラのスペイン政庁、高山国(台湾)に、服属と入貢を求めている。

(57)百田氏の誤り②:「北政所」と「淀殿」はおおむね対立関係にはなく、協調的に豊臣家の存続を図ろうとしていた!(207-212頁)
L 百田氏は「女同士の間」の「熾烈な戦い」として、秀吉の「北政所」(キタノマンドコロ)の「ねね」(「おね」)と「淀殿」の「女の戦い」について述べる。(162頁)
L-2 しかし「現在では、『北政所』と『淀殿』はおおむね対立関係にはなく、協調的に豊臣家の存続を図ろうとしていたことがわかっている」(浮世208頁)。
L-3 「気が強く、わがままな『淀殿』のイメージは一次史料では確認できない」(浮世208頁)。
L-4 「『北政所』が関ケ原の戦いで、小早川秀秋、福島正則や加藤清正に徳川家康の味方につくように示唆したことは、みな小説やドラマの演出だ」(浮世208頁)。
L-5 百田氏は「秀頼の本当の父親は・・・・大野治長(オオノハルナガ)という説もあれば・・・・石田三成や無名の陰陽師という説もあるが、実際のところは不明である」と言う(百田161頁)。だがこれらは「説」でなく、幕末にまとめられた『武功夜話』の「噂話」にすぎない。江戸時代には豊臣家、石田三成らを貶める噂話が多い。(これらの「説」は1990年代にすでに否定されている。)

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浮世博史『もう一つ上の日本史』(55) 秀吉が病死しなければ「慶長の役」は、「明を窮地に追い込んだ可能性は高い」との百田氏の判断は根拠が特にない!

2020-11-13 18:30:23 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)「戦国時代」の章(176-212頁)

(55)亀甲船は「完全なフィクション」というより「誇張」だ!(200-202頁)
I 百田尚樹『日本国紀』は、「朝鮮軍が使ったとされる亀甲船に関しては、完全なフィクションである」(百田157頁)と述べるが、これは「完全なフィクション」でなく、「誇張」と言うべきだと浮世氏が言う。
I-2  日本軍は接舷して敵船に「斬り込み乗船」する白兵戦術で朝鮮軍を圧倒した。そこで朝鮮側は「斬り込み乗船」を阻止するための諸方策をとった。板などで船を囲い、格子・穴・隙間から槍をたくさん突き出し接舷させない工夫を朝鮮軍は行った。その「誇張」が亀甲船だ。

(55)-2 秀吉が病死しなければ「慶長の役」は、「明を窮地に追い込んだ可能性は高い」との百田氏の判断は根拠が特にない!(202-204頁)
J 「文禄の役」は緒戦に勝利するが、日本軍は持続できなかった。冬の寒さへの備えが不足し、また長い補給線を維持できなかった。
J-2 「慶長の役」も日本軍は緒戦で勝利した。ところが秀吉が病死して、日本軍は引き揚げた。ここで百田氏は「もしそのまま攻め込んでいたら、明を窮地に追い込んだ可能性は高い」(156頁)と言う。だがこれは根拠が特にない。「文禄の役」と同じことになった可能性が高いと浮世氏が言う。

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浮世博史『もう一つ上の日本史』(53) 百田氏の誤り:①秀吉は検地を天下統一「前」から始めた!②検地の目的は「集税」のためだ!(54)③当時の「国際環境」等が日本の植民地化を防いだ!

2020-11-12 20:41:35 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)「戦国時代」の章(176-212頁)

(53)百田氏の誤り:①秀吉は「天下統一前」から検地を始めている!②検地の目的は「国力」の把握でなく「集税」のためだ!(195-198頁)
G 百田氏の誤り①:百田尚樹『日本国紀』は、「天下統一(※1590年)を果たした豊臣秀吉は全国で検地をおこなった」(百田151頁)と述べるが、これは誤りだ。秀吉は天下統一「前」の1582年から検地を始めている。
G-2  百田氏の誤り②:検地により「日本の国力が正確に把握された」(百田151頁)と百田氏は述べるが、検地の目的は「国力」の把握でなく、「集税」を確実に行うためだ。

(54)百田氏の誤り③:日本がスペインによる植民地化を免れたのは当時の「国際環境」等によるところが大きい!ひとえに日本が「武力」を有していたからではない!(199-200頁)
H 百田氏の誤り③:百田氏が「日本がそういう[16世紀前半のアステカやインカのような]運命を辿らなかったのは、ひとえに[日本が]武力を有していたからだ」(百田154頁)と述べるのは誤りだ。
H-2 スペインが日本を侵略しなった理由は「スペインがアジアに軍を派遣する余裕がなくなった」からだ。1580年、スペインはポルトガルを併合し最盛期を迎えるが、それ以後は衰退を始めた。(a)1581年、ネーデルランド北部諸州が独立運動を始め、イギリスがオランダ独立を支援し、スペインは対外政策に力を入れられなくなっていった。(b)1588年、スペインの無敵艦隊がイギリスに撃破された。(c)1590年代にはスペインは財政破綻に陥り、デフォルト(債務不履行)に近い状態となる。(d)当時、スペインではペストの流行も始まった。
H-2 また(e)スペインは、ラテンアメリカは「原料供給地」として植民地化するが、中国・日本は「市場(マーケット)」にすると政策を使い分けていた。人口が多く、経済力が高く、購買力がある日本を、スペインは植民地化する必要がなかった。

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『伊勢物語』(Cf. 在原業平825-880)「第22段 千夜(チヨ)を一夜(ヒトヨ)」:男女のこの幸せな愛の期間がいつまで続くかはわからない!しかし今の二人は、愛の幸せの絶頂だ!

2020-11-11 20:24:34 | Weblog
昔、「かりそめの縁」を結んだだけで別れてしまった仲[はかなくて絶えにける仲]だったが、やはり未練があったのか、女のもとから歌が届いた。

「憂きながら人をばえしも忘れねばかつ恨みつつなほぞ恋しき」I think you are cruel, but I can’t forget you. While I hate you, I love you. (あなたをつれない人と思いますが[憂きながら]、忘れることができませんので[えしも忘れねば]、恨めしく思う一方[かつ恨みつつ]、やはり恋しく思われます[なほぞ恋しき]。)
《感想1》微妙な女心だ。「かりそめの縁」だったが、やはり男が忘れられない。カネや打算でない女心の機微だ。

男はいささか得意な気持ちになって[「さればよ」といひて]、歌を返した。

「あひ見ては心ひとつをかはしまの水の流れて絶えじとぞ思ふ」Once we loved each other, we will love forever. It seems like that the flow of a river meets together again even if an island devides it into two.(二人が愛を交わしたのだから[あひ見ては]、心ひとつとなり[心ひとつを]、川の中州の島で水が分かれても、再び一緒に流れるように[かはしまの水の流れて]、二人の仲が絶えることはないと思います[絶えじとぞ思ふ]。)

男はひとごとのような返事をしたにもかかわらず、早速、その夜、女のもとに行った。そして女と過去の事、将来のことなど語って、翌朝帰り、男が歌を贈った。
《感想2》男は実は、女を憎からず思っていたのだ。女からの誘いを受けいそいそとすぐ、その夜、女のもとに出かけた。男は単純だ。

「秋の夜の千夜(チヨ)を一夜(ヒトヨ)になずらへて八千夜しねばやあく時のあらむ」You consider 1000 nights as one night in autumn. If I make love with you during 8000 times of the one night, I can be perhaps satisfied with you.(秋の長い夜の千夜を、一夜と見て[秋の夜の千夜(チヨ)を一夜(ヒトヨ)になずらへて]、その一夜の八千夜分を[八千夜し]共寝したら[ねばや]、あるいは愛に満足する時があるでしょうか[あく時のあらむ]。)
《感想3》1000夜×8000夜=800万夜だ。「800万夜、共寝したら、ようやく満足できるほどの愛」とは、男の愛の思いがすごい。(※一生を100年として3万6500夜ある。800万夜、共寝するには、一生を219回繰り返さねばならない。)

女が歌を返した。

「秋の夜の千夜(チヨ)を一夜(ヒトヨ)になせりともことば残りてとりや鳴きなむ」Even if we consider 1000 nights as one night in autumn, we cannot copletely talk our love during the one night. A cock probably tells that morning comes. (秋の長い夜の千夜を一夜とみなしたとしても[秋の夜の千夜(チヨ)を一夜(ヒトヨ)になせりとも]、二人の愛の言葉は尽きず[ことば残りて]夜明けを告げる鶏が鳴くことでしょう[とりや鳴きなむ]。)
《感想4》秋の千夜とも思える長い夜のあいだ中、愛を語っても、語りつくせないほどの女の愛だ。女の愛の思いもすごい。かつては「かりそめの縁」だったのに、今や相思相愛だ。

こうして男は、以前よりも[いにしえよりも]、情をこめて[あはれにてなむ]女のところへ通った。
《感想5》男女のこの幸せな愛の期間がいつまで続くかはわからない。しかし今の二人は、愛の幸せの絶頂だ。

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浮世博史『もう一つ上の日本史』:百田氏の誤り(51) 秀吉は征夷大将軍の座に就こうとしていない!(52) 宣教師たちは一様に日本人と日本の文化の優秀さに感嘆してなどいない!

2020-11-11 12:23:36 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)「戦国時代」の章(176-212頁)

(51)百田氏の誤り:秀吉は征夷大将軍の座に就こうとしていない!(190-192頁)
E 百田尚樹『日本国紀』は、「実は豊臣秀吉も征夷大将軍の座に就こうとして、足利義昭の養子になろうと画策したが、義昭の拒絶にあってかなわなかった」(百田168頁)と述べるが。これは江戸時代の読本『絵本太閤記』の一場面で、史実ではない。『多門院日記』(※興福寺の塔頭多門院の記録)には、「1584年に征夷大将軍任官を天皇に勧められたが、秀吉が断った」との記録がある。

(52)百田氏の誤り:宣教師たちは一様に日本人と日本の文化の優秀さに感嘆してなどいない!(192-195頁)
F 百田氏は「戦国時代の後半に日本にやってきた宣教師たちは、一様に日本人と日本の文化の優秀さに感嘆している」(百田149頁)と言うが、これは誤りだ。宣教師による日本人評は多様だ。
F-2 ロレンソ・メシアの書簡(1579年12月):日本人は「うそつきで、誠意が無い、恩知らずで、感謝がない。平気で人を裏切る」。
F-3 フランシスコ・カブラルの書簡(1596年12月):「日本人ほど傲慢で貪欲で無節操、欺瞞に満ちた民族は無い」。
F-4  イエズス会の組織人としての立場、戦国大名の弾圧や保護の状況などによって、各宣教師の日本人への評価が変わる。当時の日本人が特に優れても愚かでも、特に狡猾でも善意でもなく、普通にまた人により様々に、優れ愚かで狡猾で善意だったのだ。

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浮世博史『もう一つ上の日本史』(50) 織田信長を「日本史上に現れた突然変異」と言うのは百田氏の誤り!信長の「楽市令」「傭兵」「寄親-寄子制」「寺院の焼き討ち」は他の戦国大名もやっている!

2020-11-10 13:03:45 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)「戦国時代」の章(176-212頁)

(50)信長の「楽市令」「傭兵」「寄親-寄子制」「寺院の焼き討ち」は他の戦国大名もやっている!(184-189頁)
D 百田尚樹『日本国紀』は、織田信長について「日本史上に現れた突然変異」(百田143頁)と呼ぶが、これは誤り。織田信長がやったことは他の戦国大名もやっている。①「楽市令」は他の戦国大名も出しており、信長に特徴的な政策と言えない。②「傭兵」つまり兵隊を金で雇うことは信長だけでなく、武田氏や今川氏もやっている。③下級武士(寄子ヨリコ)を、上級武士(寄親ヨリオヤ)に預けて面倒を見させ組織化する「寄親-寄子制」は、信長だけでなくたいていの戦国大名が採用していた。④信長の「比叡山の焼き討ち」は「当時の常識から考えてありえない」(司馬遼太郎)というのは誤り。鎌倉時代から武士たちは抵抗なく寺院を焼き討ちしている。

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浮世博史『もう一つ上の日本史』(49) 百田氏の誤り:「戦国大名」間の戦乱は続いたが、「戦国大名」の領地内での戦乱は「戦国大名」自身が終わらせた!

2020-11-09 18:59:39 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)「戦国時代」の章(176-212頁)

(49)「戦国大名」間の戦乱は続いたが、「戦国大名」の領地内での戦乱は「戦国大名」自身が終わらせた!&秀吉の「惣無事令」(1585):「天下統一」!(182-184頁)
C 百田尚樹『日本国紀』は「戦国時代」について「各地の戦乱は一向に収まらなかった」(百田137頁)と述べるが、これは誤りだ。「戦国大名」は確かに一方で、領地外に対して、領地(土地の所有権)に関し自力解決のため戦乱を引き起こした。だが他方で「戦国大名」は領地内で戦乱を終わらせた。つまり領地内での土地の所有権をめぐる自力解決を禁止し(喧嘩両成敗)、領地内でのもめごとは戦国大名が裁定することとした。
C-2 つまり「戦国大名」は、一方で領地内の戦乱を終わらせた。他方で隣国との問題は自力で解決するため、「戦乱の世」となった。
C-3 秀吉の「天下統一」とは、日本全国を秀吉の「領地内」とみなし、朝廷の権威に基づき、戦国大名たちに「喧嘩両成敗」を宣言し、あらゆる(戦国)大名間の争いについて「おれが決める」(秀吉が裁定する)と宣言した。これが秀吉の「惣無事令」(ソウブジレイ)(1585)だ。
《参考》豊臣政権は1585年,関白の権威を背景とし,戦国争乱の原因をなす領土紛争の豊臣裁判権による裁定を条件として,九州の戦国大名に戦争の即時停止を求め,87年これを〈惣無事之儀〉と号してさらに関東・東北に及ぼした。(平凡社/世界大百科事典)

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『伊勢物語』(Cf. 在原業平825-880)「第21段 おのが世々」:結局、それぞれ別に愛人を得て暮らすこととなり(「おのが世々」)、男と女は疎遠になった!有為転変だ!

2020-11-08 19:48:12 | Weblog
むかし、男と女が、たいそう深く愛しあっていた。ところが、ある頃から女は二人の愛を疑うようになり、出て行こうと思い歌を詠んだ。

「いでていなば心かるしといひやせむ世のありさまを人はしらねば」If I divorced my husband, people would say that I am foolish. Because they don’t know our real relationship.(私が出て行ったなら[いでていなば]、世間の人々は浅慮な女[心かるし]と言うでしょうか?私たち二人の仲のありさま[世のありさま]を人々はしらないから。)

女は出て行った。だが男には心当たりがない。「どうしてこういうことになったのか」と男は嘆いて泣き、歌を詠んだ。

「思ふかひなき世なりけり年月(トシツキ)をあだに契(チギ)りてわれやすまひし」I have loved her, but in vain. For a long time, I have wastfully lived with her though she hasn’t love me. (彼女を愛していたのに甲斐なく終わった仲[思ふかひなき世]だった。長い年月を無駄に夫婦として[あだに契りて]私は過ごしたのだろうか[われやすまひし]。)

こう詠って男は茫然としていた。
《感想1》女心をわからなかった男の嘆きだ。長く連れ添った夫婦が突然離婚する「熟年離婚」だ。

「ひとはいさ思ひやすらむ玉かづらおもかげにのみいとど見えつつ」Does she think about me? I clealy see her only as a phantom.(あの人は私を思っているだろうか[思ひやすらむ]?逢えないからわからない。ただあの人の幻影のみが[玉かづらおもかげにのみ]ありありと[いとど]、私には見える。)(※「玉かづら」は影の枕詞。)

この女は久しく経ってから、やはり恋しさが募ったのか、男宛てに歌を詠んでよこした。

「いまはとて忘るる草のたねをだに人の心にまかせずもがな」 I am afraid that you already forgot me. I wish you had not forgotten me.(今はもうこれかぎりと私を忘れてしまうそんな草[いまはとて忘るる草]の種だけは、あなたの心に播かせたくないものです[まかせずもがな])
《感想2》女は自分から男のもとを去ったのに、まだ未練があった。別れてから彼女は、男に対する自分の未練に気づいた。恋心は自分の自由にならない。「私を忘れないでほしい」と女は男に歌を贈った。

男が歌を返した。

「忘れ草植うとだに聞くものならば思ひけりとはしりもしなまし」You hear that I tried to forget you. Then, I wish you thought that I loved you. (私があなたを忘れようとして忘れ草を植えている[忘れ草植う]とお聞きになったということは、それだけでも、私があなたを思っていた[思ひけり]と知ってほしかったです[しりもしなまし]。)
《感想2-2》男の返歌は巧みだ。「あなたを愛していたからこそ、苦しい思いをして忘れようとしたのだ」と男は言う。

その後、男と女は、以前にもまして、歌のやり取りをした。男が歌を詠んで女に贈った。

「忘るらむと思う心のうたがひにありしよりけにものぞ悲しき」I doubt whether you forgot me. I am sadder than before.(あなたが私を忘れているだろうと[忘るらむと] 思う私の猜疑心[心のうたがひ]のために、以前より[ありしより]本当に[けに]悲しくなります。)

女が歌を返す。

「中空にたちゐる雲のあともなく身のはかなくもなりにけるかな」A cloud in the sky disappeared. In similar way, I feel that my love disappeared. (中空に浮かぶ雲が跡形もなく消えるように[中空にたちゐる雲のあともなく]、我が身もはかないものになってしまいました。)
《感想3》男は女の心を疑う。女も自分の気持ちを信じられない。恋の残り火が再び燃えそうになったが、互いの心に一度生まれた疑いは、もはや消せない。どちらも悲しい心だ。

結局、それぞれ別に愛人を得て暮らすこととなり(「おのが世々」)、男と女は疎遠になってしまった。
《感想4》男と女の関係の悲しい結末。つまり両者は疎遠になってしまった。だが別に新しい男と女の関係が2組生まれた。彼ら2組はそれぞれ幸せになるかもしれない。有為転変(ウイテンペン)だ。万物は常に変化してやまない。恋or愛も同じだ。

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浮世博史『もう一つ上の日本史』(48)「戦国時代」だけでなく「南北朝の争乱の時代」も注目せよ!百田氏の誤り:①早雲は「関東一円」を支配していない、②早雲は「下克上」していない!

2020-11-08 11:27:57 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)「戦国時代」の章(176-212頁)

(48)「実力次第でのし上がれるという、日本史上に類を見ない」時代は「戦国時代」だけでない!「南北朝の争乱の時代」もそうだ!(179頁)
A 百田尚樹『日本国紀』は、「実力次第でのし上がれるという、日本史上に類を見ない『戦国』の時代となった」(百田134頁)と述べる。だが「実力次第でのし上がれるという、日本史上に類を見ない」時代は「戦国時代」だけでない。「南北朝の争乱の時代」もそうだ。「貴種」身分(Ex. 天皇)の分裂、「司・侍」身分の対立、「バサラ」の登場、近畿一円の「悪党」の登場など、古い価値観が崩れ実力次第でのし上がれる時代だった。
A-2 浮世氏は、百田氏について、《「人気作家による作品の量」によって「歪められた」見方》をそのまま受け入れていると批判する。

(48)-2 百田氏の誤り:①早雲は「関東一円」を支配していない、②早雲は「下克上」していない!(180-182頁)
B 百田氏は「早雲が関東一円を支配する大名となった過程は下克上そのものだ」(百田136頁)と述べる。だが①早雲は「関東一円」を支配していない。早雲は「伊豆と相模」を支配しただけだ。(「関東一円」の支配は早雲の死後だ。)②早雲は「下克上」していない。北条早雲(早雲の死後、北条姓となる、号は早雲庵宗瑞)の本名は伊勢盛時であり、彼は将軍家の「政所」を務める伊勢氏出身だ。彼は将軍家の命令で、今川家の相続争いの解決・調停に派遣される。その後、今川家は伊勢盛時(北条早雲)を家臣とする。伊勢盛時(北条早雲)は、伊豆の国の混乱(足利家の内紛)の解決を幕府から命じられ、今川氏から兵を借り伊豆に侵入する。(「北条早雲の伊豆入り」は幕府中央の権威に基づくものであり、「下克上」ではない!)

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浮世博史『もう一つ上の日本史』(47) 百田氏の誤り:①「応仁の乱」で「身分制度」は崩れていない!②「有力武将はすべて源氏や平氏の流れを汲む」というのは誤り!

2020-11-07 10:02:12 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)

(47)「応仁の乱」の最中・以後も「身分制度」は崩れていない:百田氏の誤り①!
X  百田尚樹『日本国紀』は「応仁の乱」以後、「従来の身分制度が崩れた」(百田131頁)と述べるが、これは誤りだ。
X-2 中世社会の身分制度は「貴種」―「司(ツカサ)・侍」―「百姓」―「下人(ゲニン)」―「」だ。「応仁の乱」の最中・以後(「戦国時代」)も、この「身分制度」は崩れていない。「司(ツカサ)・侍」の中での争いが起きただけだ。(ただし将軍家は「貴種」化していく。)

(47)-2 「有力武将はすべて源氏や平氏の流れを汲む」というのは誤り:百田氏の誤り②!
Y 百田氏は言う。「それまで有力武将はすべて源氏や平氏の流れを汲む者、つまり天皇の血統に連なる者が尊ばれたわけだが、応仁の乱以後は血統とは無縁の実力者が現れるようになった。」(百田131頁)
Y-2 「有力武将はすべて源氏や平氏の流れを汲む」というのは誤り。関東管領上杉氏、九州の大友氏は「藤原氏」の流れだ。また「平氏」の流れを汲む有力武将がいない。(平氏の流れを汲む北条氏は、鎌倉幕府滅亡と共に滅ぼされた。)
《参考》織田氏は「藤原氏」をずっと名乗っていたが、信長が足利氏(「源氏」)に代わって天下を狙うようになると「平氏」を名乗る。当時、「源平交代思想」つまり「武家政権は平氏と源氏が革命(易姓革命)的に交代する」という思想があった。
Y-3 なお室町時代の「三管四職」すなわち管領の斯波,細川,畠山、また侍所頭人(トウニン)の赤松,一色,山名、京極は「源氏」だ。

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