※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)「戦国時代」の章(176-212頁)
(56)百田氏の誤り①:秀吉が明を征服しようとした「動機は不明」でない!秀吉の対東アジア外交政策の一環だ! (204-207頁)
K 百田尚樹『日本国紀』は、「秀吉が明を征服しようとした動機は不明である」、「日本史の大きな謎の一つである」(158頁)と述べるが、「動機は不明」でないし、「謎」でもない。秀吉の対東アジア外交政策の一環だ。
K-2 秀吉は、16世紀後半、明の衰退の下で、日本を東アジアの中心とする新しい国際秩序を作ることを目指した。秀吉はゴアのポルトガル政庁、マニラのスペイン政庁、高山国(台湾)に、服属と入貢を求めている。
(57)百田氏の誤り②:「北政所」と「淀殿」はおおむね対立関係にはなく、協調的に豊臣家の存続を図ろうとしていた!(207-212頁)
L 百田氏は「女同士の間」の「熾烈な戦い」として、秀吉の「北政所」(キタノマンドコロ)の「ねね」(「おね」)と「淀殿」の「女の戦い」について述べる。(162頁)
L-2 しかし「現在では、『北政所』と『淀殿』はおおむね対立関係にはなく、協調的に豊臣家の存続を図ろうとしていたことがわかっている」(浮世208頁)。
L-3 「気が強く、わがままな『淀殿』のイメージは一次史料では確認できない」(浮世208頁)。
L-4 「『北政所』が関ケ原の戦いで、小早川秀秋、福島正則や加藤清正に徳川家康の味方につくように示唆したことは、みな小説やドラマの演出だ」(浮世208頁)。
L-5 百田氏は「秀頼の本当の父親は・・・・大野治長(オオノハルナガ)という説もあれば・・・・石田三成や無名の陰陽師という説もあるが、実際のところは不明である」と言う(百田161頁)。だがこれらは「説」でなく、幕末にまとめられた『武功夜話』の「噂話」にすぎない。江戸時代には豊臣家、石田三成らを貶める噂話が多い。(これらの「説」は1990年代にすでに否定されている。)
(56)百田氏の誤り①:秀吉が明を征服しようとした「動機は不明」でない!秀吉の対東アジア外交政策の一環だ! (204-207頁)
K 百田尚樹『日本国紀』は、「秀吉が明を征服しようとした動機は不明である」、「日本史の大きな謎の一つである」(158頁)と述べるが、「動機は不明」でないし、「謎」でもない。秀吉の対東アジア外交政策の一環だ。
K-2 秀吉は、16世紀後半、明の衰退の下で、日本を東アジアの中心とする新しい国際秩序を作ることを目指した。秀吉はゴアのポルトガル政庁、マニラのスペイン政庁、高山国(台湾)に、服属と入貢を求めている。
(57)百田氏の誤り②:「北政所」と「淀殿」はおおむね対立関係にはなく、協調的に豊臣家の存続を図ろうとしていた!(207-212頁)
L 百田氏は「女同士の間」の「熾烈な戦い」として、秀吉の「北政所」(キタノマンドコロ)の「ねね」(「おね」)と「淀殿」の「女の戦い」について述べる。(162頁)
L-2 しかし「現在では、『北政所』と『淀殿』はおおむね対立関係にはなく、協調的に豊臣家の存続を図ろうとしていたことがわかっている」(浮世208頁)。
L-3 「気が強く、わがままな『淀殿』のイメージは一次史料では確認できない」(浮世208頁)。
L-4 「『北政所』が関ケ原の戦いで、小早川秀秋、福島正則や加藤清正に徳川家康の味方につくように示唆したことは、みな小説やドラマの演出だ」(浮世208頁)。
L-5 百田氏は「秀頼の本当の父親は・・・・大野治長(オオノハルナガ)という説もあれば・・・・石田三成や無名の陰陽師という説もあるが、実際のところは不明である」と言う(百田161頁)。だがこれらは「説」でなく、幕末にまとめられた『武功夜話』の「噂話」にすぎない。江戸時代には豊臣家、石田三成らを貶める噂話が多い。(これらの「説」は1990年代にすでに否定されている。)