※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)「江戸時代」の章(213-327頁)
(77)百田氏の誤り:①定信「失脚」後も「定信の政策」が引き継がれた!②「化政文化」の背景は「寛政の改革」だ!(284-286頁)
H 百田尚樹『日本国紀』は、「定信が失脚した後は、将軍家も贅沢三昧な生活を送り、社会も再び活性化する。景気がよくなる中で・・・・『化政文化』と呼ばれる町人文化が花開く。」(百田211頁)(Cf. 文化文政は1804-1830年だ。)
H-2 百田氏の誤り①:百田氏は「定信が失脚した」ことを「寛政の改革」の終わりと考える。だがこれは誤りで、定信の老中在任が6年間(1787-93)で終わっても、1818年までその後25年間は、「寛政の改革のスタッフがそのまま残留し、老中松平信明が定信の政策を引き継いで政治をしていた」。(浮世285頁)将軍家斉(在任1787-1837)は定信と対立したが、その改革までは否定しなかった。
H-3 百田氏の誤り②:百田氏は「寛政の改革」が終わったから「化政文化」が花開いたと言うがこれは誤りだ。「化政文化」を生む背景には「寛政の改革」(「定信の政策」)の地道な成果があった。定信の改革は「現実とは乖離」(百田209頁)していない。
(a) 「寛政の改革」の本百姓体制再編の効果が10年間で表面化し、連続して豊作となり幕府は約550万両もの利益をあげた。
(b) 「寛政の改革」の七分積金や町会所などの福祉政策によって「日々の不安」「将来の不安」が解消され、庶民のあいだに「消費への活力」が生まれていた。
(77)百田氏の誤り:①定信「失脚」後も「定信の政策」が引き継がれた!②「化政文化」の背景は「寛政の改革」だ!(284-286頁)
H 百田尚樹『日本国紀』は、「定信が失脚した後は、将軍家も贅沢三昧な生活を送り、社会も再び活性化する。景気がよくなる中で・・・・『化政文化』と呼ばれる町人文化が花開く。」(百田211頁)(Cf. 文化文政は1804-1830年だ。)
H-2 百田氏の誤り①:百田氏は「定信が失脚した」ことを「寛政の改革」の終わりと考える。だがこれは誤りで、定信の老中在任が6年間(1787-93)で終わっても、1818年までその後25年間は、「寛政の改革のスタッフがそのまま残留し、老中松平信明が定信の政策を引き継いで政治をしていた」。(浮世285頁)将軍家斉(在任1787-1837)は定信と対立したが、その改革までは否定しなかった。
H-3 百田氏の誤り②:百田氏は「寛政の改革」が終わったから「化政文化」が花開いたと言うがこれは誤りだ。「化政文化」を生む背景には「寛政の改革」(「定信の政策」)の地道な成果があった。定信の改革は「現実とは乖離」(百田209頁)していない。
(a) 「寛政の改革」の本百姓体制再編の効果が10年間で表面化し、連続して豊作となり幕府は約550万両もの利益をあげた。
(b) 「寛政の改革」の七分積金や町会所などの福祉政策によって「日々の不安」「将来の不安」が解消され、庶民のあいだに「消費への活力」が生まれていた。