宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ホ「フランス革命」:「テロリズム」は「個的自己」の「絶対否定」として「至高の教養」だ!

2024-08-31 10:41:03 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ホ「フランス革命」(292-294頁)
(71)「啓蒙」の立場では「世界は『自己』のためにある」、そして「自我」は「絶対自由」を持ち、これが実行に移され「フランス革命」が到来する!
★「啓蒙」の立場からすれば、「世界は『自己』のためにある」のだから、「自我」は当然「絶対自由」を持つことになり、これが実行に移されることにより、アンシャン・レジームの制度が打破される、ここに「フランス革命」が到来する。(292頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄):(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)!

《参考》「啓蒙」の主張は、①「理神論」と②「感覚的唯物論」と③「相対論」・「功利主義」との3つだったが、最後のもの(③「相対論」・「功利主義」)は、最初の2つ(①「理神論」と②「感覚的唯物論」)の「綜合」だった。だから「啓蒙」の立場はけっきょく、③「相対論」・「功利主義」に、つまり③「有用性」の立場に帰着する。(292頁)
☆そこでこの③「有用性」の立場から「『有用なもの』の世界」が立てられることになるが、人間はこの③「相対性」(「相対論」)・「有用性」を自覚的に駆使する。これは結局のところ、「世界」は「自己に対するもの」、「自己のためにあるもの」ということを意味する。かくてそこに「絶対自由」の立場が生じる。「フランス革命」はこの「絶対自由」の立場を「現実化」したものにほかならない。(292頁)

(71)-2 「抽象的」な「絶対自由」においては、「組織」をもってする活動はすべて「拒否」される!ルソーは「代議制度」を否定した!「行政」も「司法権」・「裁判」も、「組織」をもってするほかないので否認される!「抽象的」な「絶対自由」は「テロリズム」に帰結する!「テロリズム」は「啓蒙思想」に胚胎する!
★では「フランス革命」はいかなる意義をもっているのか?さて「絶対自由」といっても最初は「抽象的」なものであって、「個的自己」が「絶対者」であると考えられているので、「組織」をもってする活動はすべて「拒否」される。(292-293頁)
☆例えばルソーは「『立法権』は国民各自が自分自身で執行すべきものであって『代理』されることはできず、そうすれば『自由』はなくなるから、自分で立法に参与すべきである」と言って、「代議制度」を否定した。これではフランスのような「大国」ではけっきょく「立法」はおこなわれえないことになる。(293頁)
☆また「行政」も、「司法権」・「裁判」も、「組織」をもってするほかないので、これらも実際上は否認される。(293頁)

★そこでこのような「抽象的」な「絶対自由」をそのまま実行に移そうとすれば、あらゆる「組織」を拒否するから「テロリズム」が不可避だ。(293頁)
★「テロリズム」は「啓蒙思想」に胚胎する。なぜならそもそも「至高存在」とは、「あらゆるものを否定する」もの、つまり「絶対否定」を要求するものだが、このことを、身をもって体験させたものが即ち「テロリズム」だからだ。(293頁)

《参考1》「信仰」が「『パン』はクリストの肉」、「『葡萄酒』はクリストの血」、「『聖像』はクリストの御姿」だとするのに対して、「啓蒙」は、「絶対実在」はそんなもの(「パン」、「葡萄酒」、「聖像」)でなく、「見ることも聞くこともできず、ただ『思惟』されうるにすぎぬ『至高存在』」だと主張するが、ここに「啓蒙」の①「理神論」がある。(288頁) 
《参考2》「啓蒙」は(※①「理神論」の立場から)、「信仰」が「聖像」をあがめるときに、そんなことは「迷信」で、「『至高存在』は見ることも聞くこともできぬ『超越的なもの』である」と言う。(289頁)

(71)-3 「テロリズム」はやがて終わり、人々はまた「組織」のうちにかえる!「立憲君主政治」!
★しかし「テロリズム」はむろん耐えがたいものだ。だからそれはやがて終わり、人々はまた「組織」のうちにかえる。人々は「国家社会」の成り立つためには「自己否定」(「個的自己」の否定)の必要であることを悟って、再びナポレオンのもとに君主政治を再建する。(293頁)
☆それによって生ずる現実政治における変化は、それまでの「絶対君主政治」が「立憲君主政治」になったということだ。(293-294頁)
☆ヘーゲルはこの「立憲君主政治」をもって、政治形態の発展は一応終わると考えている。(294頁)

《参考》さて「絶対自由」といっても最初は「抽象的」なものであって、「個的自己」が「絶対者」であると考えられているので、「組織」をもってする活動はすべて「拒否」される。(292-293頁)

(71)-4 「啓蒙」においては「絶対自由」の実行が「テロリズム」となる!人間が生活するにあたって「自己否定」((「個的自己」の否定))はいつも必要だ!「テロリズム」は「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)の必要を、人間に身をもって体験させるので「至高の教養(※エスプリorガイスト)」だ!
★「テロリズム」は「啓蒙思想」に胚胎するが、ヘーゲルは「テロリズム」にもっと深い意味を認めようとする。(294頁)

Cf.1 「啓蒙」においては、③「有用性」の立場から「『有用なもの』の世界」が立てられることになるが、これは、「世界」は「自己に対するもの」、「自己のためにあるもの」ということを意味する。かくてそこに「絶対自由」の立場が生じる。「フランス革命」はこの「絶対自由」の立場を「現実化」したものにほかならない。(292頁)
Cf.2 「抽象的」な「絶対自由」をそのまま実行に移そうとすれば、あらゆる「組織」を拒否するから「テロリズム」が不可避だ。(293頁)

★およそ人間が生活するにあたって「自己否定」(「個的自己」の否定)はいつも必要なものだ。(294頁)
☆これまでの「教養の世界」((BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)もまさに「教養の世界」として、いろんな(※「個的自己」の)「否定」を含んでいた。例①「封臣」・「廷臣」は「奉公」をし「頌辞」を呈しなくてはならなかったし、また例②「信者」にも「苦行」・「断食」・「喜捨」などが必要だった。(294頁)

★しかしこれらはいずれも「テロリズム」ほどに徹底したものではないが、およそ人間が「この世」に生きるには「自己否定」(「個的自己」の否定)が必要であり、とくに「教養」を必要とする「近代的人間」の場合にはそうだ。(294頁)

★だが「テロリズム」こそは、「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)の必要を人間に身をもって体験させるものだから、「テロリズム」は「至高の教養(※エスプリorガイスト)」だと、ヘーゲルは言う。(294頁)
☆このようにヘーゲルは「テロりズム」に深い意味を認めようとしている。(294頁)
☆なおこれは、「『奴』を訓練するものがけっきょくのところ『死』という絶対的主人の恐怖である」ことに、応じる。(294頁)
Cf. 「奴隷」は「主人」をおそれる(「畏怖」)!これは「死」をおそれることだ。いうことをきかないと「権力によって殺される」から、「奴隷」は「死」をおそれている。「奴」は「絶対的な恐怖」(「畏怖」)のなかに、「おそれとおののき」(「畏怖」)のなかにいる。(141頁)

《参考1》(「現実の世界」に属さない「高次」の)「純粋意識」は(1)「純粋透見」(「否定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(「肯定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる。(277頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)について、「教養」を通じて得られた「精神」Geistあるいは「エスプリ」は、かかる「対立」が固定したものでなく、「いつも「反対に転換する」(🈩・🈔・🈪)ことを見透かしている」から、それは(1)「純粋透見」であり、そうして「対立」を否定するものであるところからして、「自我」あるいは「主体」の働きだ。(277-278頁)
☆ヘーゲルは「自我」をもって「否定の働き」にほかならないと考える。(278頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)が「相互に転換する」以上、「もろもろの対立」は、「対立を越え包む超越的統一」に帰する。この「超越的統一」は本来的には「概念」だ。(278頁)
☆しかしこの「超越的統一」は、ここではまだ、「もろもろの対立」(①②③)という「現実」からかけ離れた「統一」にすぎぬものとしてとらえられているから、「概念」そのものでなく、「表象」の形式におけるものだ。これが(2)「信仰の天界」を与える。(278頁)
☆これに対して(1)「透見」(「純粋透見」)は、「自我の『否定の働き』」として「地上」にとどまる。(278頁)
☆かくて「教養の世界」は「現実の国」を含むとともに、(1)「透見の世界」と(2)「信仰の世界」を含む。(278頁)
Cf. こうして(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」は、a「教養と現実の国」(「現実の世界」)に続いて、b「信仰と純粋透見」という段階が設定される。(277頁)

《参考2》人間が「個的自己」として存在する時代(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)では人間は「自己疎外」Entfremdung におちいる!「自己疎外」は結局、「教養」(※エスプリorガイスト)に至る!(256-257頁)
☆ここ(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)では
人間は「個的自己」として存在するが、人間は一度自分の「個別存在」を離れ、それを疎んじて、「自分のそとにある『普遍的なもの』」になり、これを通じて「真の自己」になるというように、「自分を形成する努力」即ち「『教養』Bildungの努力」を引き受けなくてはならぬということになる。かくて(BB)「精神」A「人倫」(古代ギリシャのポリス)に続くBという段階は、「自己疎外的精神、教養」と題される。(256-257頁)
☆さてギリシャ時代((BB)「精神」A「人倫」)とは違い、人間が「個的自己」として存在する時代(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)では、人間は「自己疎外」Entfremdung におちいる。「Entfremdung」とは、「自分にfremdなもの」、「自分に疎遠で外的であるもの」になることだ。つまり「自分から離れて、自分に疎遠なものになる」というのが「疎外」だ。(257頁)
☆「疎外」は苦しいことだが、その苦行を通じてのみ人間は「真の人間」にまで自分を高め形成することができるのだから、「自己疎外」は結局、「教養」Bildung(※エスプリorガイスト)に至り、それで(BB)「精神」A「人倫」c「法的状態」から以後(※つまり「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)は、ギリシャ時代((BB)「精神」A「人倫」a「人倫的世界」b「人倫的行為」)とはちがって、「人間はただ『教養』(※エスプリorガイスト)をうることによってのみ人間として存在したとみなすことができる」というように時代が変わっていると、ヘーゲルは解している。(257頁)
☆「近代社会」は、「古代社会」とちがって、「個的自己」への徹底が行われているから、「社会」と結びつくには人間は「自然性」を剥脱し否定しなければならず、そういう意味の「教養」Bildungをそなえたものでなくては「近代社会」、「近代国家」の一員たりえないと、ヘーゲルは言う。(257頁)
☆フランシス・ベーコン(1561-1626)は「知は力なり」と言ったが、この語はベーコン自身では「自然征服」のことに関するが、ヘーゲルはこの語を転用して、「近代社会」の特徴(「教養」Bildungをそなえたものでなくては人間は「近代社会」の一員たりえない)を示すものと解している。(257頁)

《参考3》「教養の世界」は徹底的に「自己疎外的」だ。(「自己疎外的精神の世界」!)(266頁)
☆「教養の世界」は、①《「国権」が「財富」に、「財富」が「国権」に》、②《「善」が「悪」に、「悪」が「善」に》、③《「高貴」が「下賤」に、「下賤」が「高貴」に》転換し、「疎外」する世界だ。(266頁)
☆そうして「対立するものを統一づけるもの」が、はっきりと出てきておればよいが、それはまだ出ていないで、ただいたずらに「一方が他方に転換する」だけだ。だからこの「教養(※エスプリorガイスト)の世界」の人間は「自己疎外の苦悩」をなめざるをえない。(266頁)

《参考3-2》「自己疎外」(①②③)ゆえに、「ガイスト」Geist(「エスプリ」esprit)すなわち「教養」が養われ、「絶対に対立するもの」が「一つになる」!「疎外」を表現したものという見地から、ヘーゲルはディドロの作品『ラモウの甥』を活用している!(266-267頁)
☆しかしこういう極端な「分裂」(「教養の世界」の「自己疎外」①②③)を通じて「絶対に対立するもの」が「一つになる」ところにこそ、ヘーゲル独自の「ガイスト」Geist が躍動してくる。「ガイスト」Geistは、フランス語の「エスプリ」espritに近いものだ。(266頁)
☆「エスプリ」espritとは、「ちょっと普通では関係のつかないような二つのもの」の間に「奇想天外な関係」を見つけるような能力のことだ。だから「エスプリ」に富んでいるのは、「気がきいている」ことであって、悪くすると「駄じゃれを弄する」ことにもなる。(266-267頁)
☆ヘーゲルは「エスプリ」espritの「よい点」を生かし、かくて「自己疎外」(①②③)こそが、人間に「エスプリ」espritすなわち「ガイスト」Geistを養い、「教養」を与えると言う。(267頁)

《参考4》「現実の世界」に属さない「純粋意識」は、(1)「純粋透見」(純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる!(277-278頁)
☆(「現実の世界」に属さない「高次」の)「純粋意識」は(1)「純粋透見」(「否定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(「肯定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる。(277頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)について、「教養」を通じて得られた「精神」Geistあるいは「エスプリ」は、かかる「対立」が固定したものでなく、「いつも「反対に転換する」(🈩・🈔・🈪)ことを見透かしている」から、それは(1)「純粋透見」であり、そうして「対立」を否定するものであるところからして、「自我」あるいは「主体」の働きだ。(277-278頁)
☆ヘーゲルは「自我」をもって「否定の働き」にほかならないと考える。(278頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)が「相互に転換する」以上、「もろもろの対立」は、「対立を越え包む超越的統一」に帰する。この「超越的統一」は本来的には「概念」だ。(278頁)
☆しかしこの「超越的統一」は、ここではまだ、「もろもろの対立」(①②③)という「現実」からかけ離れた「統一」にすぎぬものとしてとらえられているから、「概念」そのものでなく、「表象」の形式におけるものだ。これが(2)「信仰の天界」を与える。(278頁)
☆これに対して(1)「透見」(「純粋透見」)は、「自我の『否定の働き』」として「地上」にとどまる。(278頁)
☆かくて「教養の世界」は「現実の国」を含むとともに、(1)「透見の世界」と(2)「信仰の世界」を含む。(278頁)
Cf. こうして(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」は、a「教養と現実の国」(「現実の世界」)に続いて、b「信仰と純粋透見」という段階が設定される。(277頁)

《参考5》ヘーゲル『精神現象学』では、(ア)「教養」Bildung は「自己疎外的精神」として、《「人倫」という「真なる精神」》と、《「道徳性」という「自らを確信した精神」》との中間的もしくは過渡的段階としての位置を与えられている。「教養」は「精神の自己疎外態」である。(イ)「教養」はヘーゲルにおいて否定的な評価を受けており「衰弱したエリート趣味」、「技巧的な知的浮薄」ともされる。(ウ)ヘーゲル『精神現象学』の歴史哲学によれば「ギリシャ的ポリス」および「ローマ的法治国家」と、「カントやゲーテによって代表される近代ドイツ」との中間にあるのが「教養」であり、「教養」は「18世紀フランスの『哲学者たち』と革命の時期」にあたる。(エ)ヘーゲルの思考の特徴である「3段階発展図式」において、「教養」は「第2段階」すなわち「対自」・「反省」・「本質」・「外化」・「分裂」・「市民社会」などに対応するものだ。つまり「教養」は「否定性」の契機であり、「否定」の機能を果たしつつ、積極的な意義を含む。(『ヘーゲル事典』弘文堂2014年)

(71)-5 「テロリズム」が体験させる「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)によって、「『個別』と『普遍』とが絶対的に帰一」し、「絶対否定が絶対肯定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定は、「個的自己」の「絶対的」な肯定だ)となり、「非連続の連続」ということも今や可能になり、「『教養』(※エスプリorガイスト)の世界」の特徴であった「自己疎外」はここに克服される!
★およそ人間が「この世」に生きるには「自己否定」(「個的自己」の否定)が必要であり、とくに「教養」を必要とする「近代的人間」の場合にはそうだ。「テロリズム」こそは、「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)の必要を人間に身をもって体験させるものであり、「テロリズム」は「至高の教養」だとヘーゲルは言う。(294頁)
★かくて「テロリズム」が体験させる「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)によって、「『個別』と『普遍』とが絶対的に帰一」し、「非連続の連続」ということも今や可能になり、「『教養』(※エスプリorガイスト)の世界」の特徴であった「自己疎外」はここに克服される。(294頁)

★しかし、むろん「非連続が連続」、「絶対否定が絶対肯定」ということは、「政治経済の現実面」においては完全に実現されうるものではない。政治経済の現実面においては、このような「理法」(※「非連続が連続」、「絶対否定が絶対肯定」)がそのまま実現されることを妨げるいろんな偶然的事情がある。(294頁)

《感想》「テロリズム」すなわち「至高の教養(※エスプリorガイスト)」において体験させる「絶対否定が絶対肯定」とは、「個的自己」の「絶対的」な否定が、「個的自己」の「絶対的」な肯定になるということだ。これによって「自己疎外」は克服される。

★かくて「非連続が連続」、「絶対否定が絶対肯定」ということは、つまりこのような「理法」は、「政治経済の現実面」ではなく、ただ「精神的に」実現されるだけだ。(294頁)
☆すでに「絶対否定」(※「個的自己」の「絶対的」な否定)を、(※「テロリズム」において)身をもって体験した人間は、「純粋に精神的な国」(ドイツ)(※ドイツのロマンティスィズム)のうちに住みうるようになっている。(294頁)

《参考1》「知覚」の段階において「個別と普遍」、「一と多」、「即自と対他」、「自と他」といった対立が、互いに他に転換して切りはなすことのできないものであることが、明らかになった。(109頁)

《参考2》「生命」(「客観的即自的な無限性」)の立場では「対立」は、先に述べた「個別と普遍」、「一と多」、「即自と対他」、「自と他」、「力と発現」などは、「統一と区別」、「時間と空間」、「連続と非連続」等とも、さらには「過程と形態」、「機能と組織」とも呼ばれる。(130頁)

《参考3》さらに「生物」が感受し反応し再生するのは「過程」として「時間的」であり、そのような過程ないし機能を営むことにより、「生物」が自分にいろんな分肢を与え、自分を「組織」づけるのは「空間的」たるゆえんだ。そうして「空間的」たることは「非連続的」、「時間的」たることは「連続的」だ。(131頁)

《参考4》かくて一つの「個体」が独立の「個体」としておのれの生命活動を営み、おのれを形態づけ組織していくことは、「生物界全体の生命活動」が「個体」としておのれ自身をあらわしていくことだ。したがって「一つの個体が他の個体から非連続的に独立している」ということは、裏からいうと「他の生きものとの間に連続をなすし、そこに運命の交流がある」ということだ。(132頁)
☆「統一的普遍的生命」(「生物界全体の生命活動」)が、それぞれの「個体」のうちにおのれをあらわすというのは、「生物界全体」も「個体と普遍」、「空間と時間」、「連続と非連続」というもろもろの対立をもち、かかる対立が成立しながら相互に転換し「無限性」を実現していくことだ。(132頁)

《参考5》「観察的理性」における「観察」:「連続と非連続の弁証法」から脱け出すために「観察的理性」は「対立を統合したもの」、すなわち「法則」をつかもうとする!(167頁)
☆さて「本質的なもの」とは、「それぞれのもの」を「それぞれのもの」として、「他のもの」から「分離」する規定だ。ここ(「観察的理性」における「観察」)にも、(A)「意識」(「対象意識」)の段階におけるⅡ「知覚」の場合の「連続と非連続の弁証法」が起きてくる。(167頁)
☆「あるものの特色」(「本質」)とは、「そのもの」を「他のもの」から区別し「分離」するゆえんのものだ。しかしこの「分離」(※「そのもの」と「他のもの」との「分離」)も同時に「結合」(※「そのもの」と「他のもの」との「結合」)だ。例えば、「赤」(「本質」)といっても、もし「すべてのものが赤であれば、赤というものもなくなってしまう」ので、「赤でないもの」との関係においてこそ、「赤」(「本質」)は存在しうる。(167頁)
☆かくて「自」と「他」との「非連続」のほかに、「連続」も考慮することが必要だ。かくて「観察的理性」((C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」)の「観察」は「連続と非連続」、「自と他」というような「対立」したものの「弁証法」に巻き込まれてしまう。(167頁)
☆「観察的理性」は、これ(「連続と非連続」、「自と他」というような「対立」したものの「弁証法」)から脱け出ようとして「対立を統合したもの」、すなわち「法則」をつかもうとする。ここに「理性」は、(A)「意識」(「対象意識」)の段階におけるⅢ「悟性」に相応する段階に到達した。けだし「法則」は「悟性」によって定立されるものだからだ。(167頁)

《参考6》「人格」と「人格」との間には、「結合あるいは肯定」のほかに「分離あるいは否定」・「否定の隔たり」があり、「連続」のほかに「非連続」がある。ところがこの「非連続」の面を忘れてしまって、「連続」の面だけみてとり、そして「他人」のうちに「自分自身の満足」を求めようとするのが「快楽(ケラク)」の段階だ。かくて「快楽(ケラク)」とはあからさまに言えば男女間の「愛欲」だ。(196頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ニ「啓蒙」(その3):「世界」は「自己のためにあるもの」だ!「絶対自由」の立場!

2024-08-29 16:02:58 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ニ「啓蒙」(その3)(290-292頁)
(70)-6 「啓蒙」は、「信仰」との戦いのうちに、バラバラだった3つの主張、①「理神論」と②「唯物論」・「感覚論」と③「功利主義」・「相対論」が統一づけられていくことになる!
★「啓蒙」は、「信仰」との戦いにさいして、①「理神論」と②「唯物論」(or「感覚論」)と③「功利主義」(or「相対論」)との3つをバラバラに主張するだけで統一的に把握していない。(290頁)

Cf. ①「理神論」:「至高存在」はただ「理性」によってのみとらえられうる。(290頁)
Cf. ②「唯物論」or「感覚論」:「感覚」できる「個々の物」こそ「実在」である。(288頁)
Cf. ③「相対論」:「感覚物」は、もとより「唯一」でなく「数多」だが、この点からすれば「一物」は「即自的にそれ自身としてのみある」ものでなく、「他物」との具体的な「関係」において「対他的に」のみ存在している。(289頁)
Cf. ③(続)「功利主義」:③「相対論」はおのずからまた③(続)「功利論」だ。なぜなら、それぞれの「個物」が、一方では「それ自身」としてありながら、他方では「『他物との関係』において、『他物』に対してある」というのは、「個物」が「『他物』のために『有用』なるもの」としてあるということだからだ。(289頁)

★しかし「啓蒙」が、相手(「信仰」)のAに対してはBを、相手のBに対してはAを唱えるという頑童にも等しい愚をおかしていることは、「信仰」との戦いのうちに、おのずと自覚され、3つの主張(①「理神論」と②「唯物論」・「感覚論」と③「功利主義」・「相対論」)は統一づけられていくことになる。(290-291頁)
☆そこに「概念の統一」が自覚され、「純粋透見」のまぬがれえなかった「主観性」・「個人性」は(※「啓蒙」において)洗いおとされ、「透見」はより高次の意味において「純粋透見」となり、「啓蒙」はその実を結び、また「信仰」との戦いにおいても勝利をえる。(291頁)

《参考》「純粋透見」が良い意味でつまり本当の意味で「純粋」になるには、「個人的主観的」あるいは「主観的形式的」に「純粋」だという欠陥が是正されなくてはならない。「純粋透見」は、ある個人一個のものでなく、「公共化」されていかなくてはならない。(284頁)
☆「純粋透見」の「公共化」について、ヘーゲルはフランスの「アンシクロペディスト」(百科全書家)のことを念頭において、個人個人の「透見」が集大成されることによって「純粋透見」は次第に「成長をとげていく」と考える。(284頁)
☆「純粋透見」が「成長していく」とは、最初は「プライベイト」な、「主観的」なものであった「透見」が、「社会的に普及する」ということも意味するが、これが「啓蒙」にほかならない。(284頁)
☆「啓蒙」は、「純粋透見」をして「公共的」・「普遍的」・「客観的」・「内容的」(⇔「個人的」・「個別的」・「主観的」・「形式的」)なものにまで「成長」させる。「啓蒙」は、「純粋透見」にとって不可欠なものだ。(284頁)

(70)-6-2 「啓蒙」が、「信仰」に対して勝利をうるのは、「啓蒙」が、「自己意識の権利」に立脚しているからだ!「自分に対立するものをも包含した具体的な弁証法的な意味」における「自己意識の権利」に立脚する!かくて「啓蒙」は勝利を博する!
★「啓蒙」が、「信仰」に対して勝利をうるのは、「啓蒙」が、「表象性」をまぬがれえぬ「信仰」とはちがい、「自我の働き」を重んじ、「自己意識の権利」に立脚しているからだ。(291頁)
★ただし「自己意識の権利」も2つある。第1は「『抽象的意味』における『自己意識の権利』」であり、第2は「『具体的意味』における『自己意識の権利』」だ。(291頁)
☆第2の「『具体的意味』における『自己意識の権利』」とは、「自分に対立するものをも包含した具体的な意味」における「自己意識の権利」であり、つまり「対自」のほかに「即自」をも、「自己」のほかに「対象」をも、「思惟」のほかに「感性」をも、「媒介態」のほかに「直接態」をもというように「反対をも包含した具体的な弁証法的な意味」における「自己意識の権利」だ。(291頁)

★「啓蒙」が、「信仰」に対して勝利をうる原因となるべき「自己意識の権利」とは、第1の「抽象的意味」におけるものではなく、第2の「具体的意味」におけるものだ。(291頁)
☆「信仰との戦い」そのものが、「『抽象的意味』における『自己意識の権利』」から「『具体的意味』における『自己意識の権利』」へと移行させる。(291頁)
☆「啓蒙」は、「信仰」が「感性」をあげれば「理性」をあげ(※①「理神論」)、「信仰」が「対自存在」をあげれば「即自存在」をあげる(※②「感覚論」)というような愚をおかす。つまり「啓蒙」は「いつも自らの主張を裏切り虚偽をおかす」のだが、しかし愚をおかすことを通じて愚をさとって、「自己意識の権利」は「具体的なもの」に転じてゆく。(291頁)
☆かかる「『具体的意味』における『自己意識の権利』」は「絶対不可抗のもの」であるがゆえに、「啓蒙」は勝利を博することができる。(292頁)

★しかし「信仰」の主張も「実質的」にはまちがっていたわけではないから、「啓蒙」が勝利をうるといっても、このことは、「信仰」の要求も、「実質的」には「啓蒙」のうちに包含され、それ(「啓蒙」)によって充足されたことを意味する。(292頁)

《参考》「啓蒙」は(※①「理神論」の立場から)、「信仰」が「聖像」をあがめるときに、そんなことは「迷信」で、「『至高存在』は見ることも聞くこともできぬ『超越的なもの』である」と言う。(289頁)
☆しかし「信仰」が「あがめているのは『御霊(ミタマ)』であって『感覚物』ではない」と言うときには、「啓蒙」は今度は(※②「感覚論」・「唯物論」の立場から)逆に「『感覚物』こそは『実体』である」と言う。(289頁)
☆そうして「信仰」が「『現世の利益』を求めぬ」というときには、「啓蒙」はそれに③「功利主義」・「相対論」を対抗させ、「『断食』や『苦行』や『喜捨』などは馬鹿げたことだ」と罵倒する。(289-290頁)
☆だから「啓蒙」は、「信仰」の主張に応じて、その都度、その反対をもって応酬しているだけだ。「信仰」がA と言えば「啓蒙」はB と言い、「信仰」がBと言えば「啓蒙」はAと言うようなものだ。(290頁)
☆かくてヘーゲルによれば、「啓蒙」はいつもその自らの主張を裏切り、自己矛盾におちいり、虚偽をおかしている。「啓蒙」は自分の主張に関して、無自覚も甚だしいというほかない。(290頁)

(70)-7 「啓蒙」の立場はけっきょく、③「相対論」・「功利主義」に、つまり③「有用性」の立場に帰着する!「『有用なもの』の世界」:「世界」は「自己に対するもの」、「自己のためにあるもの」だ!「絶対自由」の立場!
★「啓蒙」の主張は、①「理神論」と②「感覚的唯物論」と③「相対論」・「功利主義」との3つだったが、最後のもの(③「相対論」・「功利主義」)は、最初の2つ(①「理神論」と②「感覚的唯物論」)の「綜合」だった。(292頁)
☆だから「啓蒙」の立場はけっきょく、③「相対論」・「功利主義」に、つまり③「有用性」の立場に帰着する。(292頁)
★そこでこの③「有用性」の立場から「『有用なもの』の世界」が立てられることになるが、人間はこの③「相対性」(「相対論」)・「有用性」を自覚的に駆使する。これは結局のところ、「世界」は「自己に対するもの」、「自己のためにあるもの」ということを意味する。(292頁)
☆かくてそこに「絶対自由」の立場が生じる。(292頁)
☆「フランス革命」はこの「絶対自由」の立場を「現実化」したものにほかならない。(292頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ニ「啓蒙」(その2):①「理神論」、②「感覚論」・「唯物論」、③「功利主義」・「相対論」!

2024-08-28 09:34:03 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ニ「啓蒙」(その2)(288-290頁)
(70)「啓蒙」は、①「理神論」、②「感覚論」あるいは「唯物論」、そして③「功利主義」を、「信仰」に対して主張する!「啓蒙」の①「理神論」は、「絶対実在」は「見ることも聞くこともできず、ただ『思惟』されうるにすぎぬ『至高存在』」だと主張する!
★「啓蒙」が「信仰」に対して何を主張するかというと、それは①「理神論」、②「感覚論」あるいは「唯物論」、そして③「功利主義」の3つに帰する。ただしこれら①②③は、いずれも実質的には「信仰」にもあることだ。(288頁)

★「信仰」が「『パン』はクリストの肉」、「『葡萄酒』はクリストの血」、「『聖像』はクリストの御姿」だとするのに対して、「啓蒙」は「絶対実在」は、そんなもの(「パン」、「葡萄酒」、「聖像」)でなく、「見ることも聞くこともできず、ただ『思惟』されうるにすぎぬ『至高存在』」だと主張するが、ここにそれの①「理神論」がある。(288頁) 
☆しかし「信仰」だってこんな「感覚物」(「パン」、「葡萄酒」、「聖像」)をもって「絶対実在」と考えているのではなく、「信仰」は(※①「理神論」の立場にあり)「絶対精神」に対して「信頼」しているのだ。(288頁)

(70)-2 「啓蒙」は ②「感覚論」あるいは「唯物論」をも主張する!
★ところで「啓蒙」のいう「至高存在」は、ただ「即自存在」であるにとどまって、それ以上なんらの「限定」をも「内容」をももたぬものだから、その「理神論」に安住することはできず、それとは全然反対に、「啓蒙」は「ただ『感覚』できる『個々のもの』のみが『実在』である」とも主張するが、ここに②「感覚論」・「唯物論」が唱えられることになる。(288頁)
☆だがこれ(②「感覚論」・「唯物論」)とても、「葡萄酒」と「パン」とを「クリストの血肉」と信じ、「聖像」を「クリストの御姿」としてあがめるところの「信仰」にもあることだ。(288頁)

(70)-3 「啓蒙」は、③「相対論」・「功利主義」を唱え、「信仰」の尊ぶ「苦行」・「断食」・「喜捨」を非難する!
★さらに「啓蒙」は、③「相対論」・「功利主義」を唱え、この見地から「信仰」の尊ぶ「苦行」・「断食」・「喜捨」を「馬鹿げたこと」と非難する。(288頁)
★だが「啓蒙」は、この③「相対論」・「功利主義」が、①「理神論」および②「感覚論」とどういう関係にあるか自覚していない。(288頁)

★「啓蒙」が③「功利主義」を唱えざるを得ない理由は明らかだ。(※①「啓蒙」の「理神論」において)「至高存在」は「即自存在」であるにとどまり、その他の(※「至高存在」であるという「規定」以外の)いかなる「規定」をも「内容」をも持たぬものであるからこそ、「啓蒙」はそれにとどまりえず、(※②「感覚論」あるいは「唯物論」の立場をとり)「感覚」できる「個々の物」こそ「実在」であると唱える。(288-289頁)
☆またこの「至高存在」と全然正反対のごとく見える「感覚物」も、そのいちいちを、それぞれを「それ自体」としてみれば、やはり「至高存在」の「自体性・即自性」にあずかり、それを分かちもっている。(289頁)

★また(※「啓蒙」においては)③「相対論」が唱えられざるをえない。「感覚物」は、もとより「唯一」でなく「数多」だが、この点からすれば「一物」は「即自的にそれ自身として」のみあるものでなく、「他物」との具体的な「関係」において「対他的に」のみ存在している。(289頁)
☆そうして(※「啓蒙」における)③「相対論」はおのずからまた③「功利論」だ。なぜなら、それぞれの「個物」が、一方では「それ自身」としてありながら、他方では「『他物との関係』において、『他物』に対してある」というのは、「個物」が「『他物』のために『有用』なるもの」としてあるということだからだ。(289頁)

☆しかし「啓蒙」の③「功利主義」とても、やはり「信仰」にもあるものだ。けだし「信仰」は「最大のご利益」を目ざすものだからだ。(289頁)

(70)-4 「啓蒙」は、「信仰」に反対するが、「自己矛盾の虚偽」をおかしている!
★「啓蒙」は、すでに「信仰」も認めていることをもって、「信仰」に反対し、しかも反対にさいして、いつも「自己矛盾の虚偽」をおかしている。(289頁)

★即ち「啓蒙」は(※①「理神論」の立場から)、「信仰」が「聖像」をあがめるときに、そんなことは「迷信」で、「『至高存在』は見ることも聞くこともできぬ『超越的なもの』である」と言う。(289頁)
☆しかし「信仰」が「あがめているのは『御霊(ミタマ)』であって『感覚物』ではない」と言うときには、「啓蒙」は今度は(※②「感覚論」・「唯物論」の立場から)逆に「『感覚物』こそは『実体』である」と言う。(289頁)
☆そうして「信仰」が「『現世の利益』を求めぬ」というときには、「啓蒙」はそれに③「功利主義」・「相対論」を対抗させ、「『断食』や『苦行』や『喜捨』などは馬鹿げたことだ」と罵倒する。(289-290頁)

★だから「啓蒙」は、「信仰」の主張に応じて、その都度、その反対をもって応酬しているだけだ。「信仰」がA と言えば「啓蒙」はB と言い、「信仰」がBと言えば「啓蒙」はAと言うようなものだ。(290頁)
☆かくてヘーゲルによれば、「啓蒙」はいつもその自らの主張を裏切り、自己矛盾におちいり、虚偽をおかしている。「啓蒙」は自分の主張に関して、無自覚も甚だしいというほかない。(290頁)

(70)-5 「啓蒙」は、①「理神論」から②「感覚論」・「唯物論」に移らざるをえないことを自覚しない!
★「ただ『理性』によってのみとらえられうる『至高存在』」を高調する①「理神論」から、「ただ『感覚』せられうる『個物』のみをもって『実在』とする」という②「感覚論」・「唯物論」に、「啓蒙」が移らざるをえなかったのは、「即自存在」が「即自存在」にのみとどまりうるものではなく、「対他存在」に移行せざるをえぬからだが、「啓蒙」はこの当然のことを自覚しない。(290頁)

Cf. (※「啓蒙」においては)③「相対論」が唱えられざるをえない。「感覚物」は、もとより「唯一」でなく「数多」だが、この点からすれば「一物」は「即自的にそれ自身としてのみある」ものでなく、「他物」との具体的な「関係」において「対他的に」のみ存在している。(289頁)

(70)-5-2 「啓蒙」は、②「感覚論」・「唯物論」から③「相対論」・「功利主義」に移行せざるをえないことを自覚しない!
★さらには「『即自存在』と『対他存在』とを結合すべきである」にもかかわらず、このことをも「啓蒙」は知らない。(290頁)
☆結合すれば「感覚的な個々物」自身についても、「即自存在」と「対他存在」とが不離のものであるから、「個々物」がいずれも「『それ自体』として存在する」と同時に「『他者との関係』において存在する」ことになるから、②「感覚論」・「唯物論」は、当然③「相対論」・「功利主義」に移行せざるをえないのに、「啓蒙」はこのことをも自覚しない。(290頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ニ「啓蒙」(その1):「信仰」批判は誤りだ!「信者」は「絶対精神」・「絶対実在」を信じる!

2024-08-26 13:59:06 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ニ「啓蒙」(その1)(285-287頁)
(69)「信仰」(「彼岸」・「客体」・「内容」)と「純粋透見」(「此岸」・「主体」・「形式」)は非常に似たものだが、似たものほど喧嘩するものだ!
★「啓蒙」の運動は「純粋透見」にとって、その本質上、必要なものだ。(285頁)
☆ところで「純粋透見」も、「信仰」と同じように「教養の世界」からでてきたもので、両者の違いは「彼岸」(「信仰」)と「此岸」(「純粋透見」)、「客体」(「信仰」)と「主体」(「純粋透見」)、「内容」(「信仰」)と「働き」(「純粋透見」)というような「形式」にあるだけだ。(285頁)
☆「信仰」と「純粋透見」は非常に似たものだが、似たものほど喧嘩するものだ。「信仰」と「純粋透見」の間には激戦が展開される。(285頁)

Cf.  ヘーゲル『精神現象学』目次(抄): (BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)

★「啓蒙」は、「純粋透見」の成長過程で、この成長過程において「純粋透見」は「内容」を獲得するが、ただし「内容」はすべて「信仰」の方にある。(285頁)

★しかし「信仰」の「彼岸性」は、「純粋透見」にとってどうにも我慢のならないものだから、「純粋透見」は、おのずと「信仰」と衝突せざるをえない。(285頁)
☆それで「啓蒙の運動」はけっきょくのところ「信仰との戦い」ということにつきる。(285頁)

《参考1》「純粋透見」が良い意味でつまり本当の意味で「純粋」になるには、「個人的主観的」あるいは「主観的形式的」に「純粋」だという欠陥が是正されなくてはならない。「純粋透見」は、ある個人一個のものでなく、「公共化」されていかなくてはならない。(284頁)
☆「純粋透見」の「公共化」について、ヘーゲルはフランスの「アンシクロペディスト」(百科全書家)のことを念頭において、個人個人の「透見」が集大成されることによって「純粋透見」は次第に「成長をとげていく」と考える。(284頁)
☆「純粋透見」が「成長していく」とは、最初は「プライベイト」な、「主観的」なものであった「透見」が、「社会的に普及する」ということも意味するが、これが「啓蒙」にほかならない。(284頁)
☆「啓蒙」は、「純粋透見」をして「公共的」・「普遍的」・「客観的」・「内容的」(⇔「個人的」・「個別的」・「主観的」・「形式的」)なものにまで「成長」させる。「啓蒙」は、「純粋透見」にとって不可欠なものだ。(284頁)

《参考2》「純粋透見」はただの「働き」(「ただ見透す働き」)だから、「信仰」のように「内容」をもつものでなく、「形式的」なものにすぎない。(283頁)
☆また「働き」、ことに「否定の働き」は、ヘーゲルではいつも、「自由」をもって特徴とする「主体」のもの、すなわち「自我」のものだ。その点からすると、「純粋透見」の特徴は「自我性」だ。(283頁)
☆「純粋透見」の「自我性」と結びついているのは「現実性」であり「此岸性」だ。「純粋透見」は、「信仰」のように「彼岸にある実在」を想定しない。(283頁)
☆「純粋透見」は、「区別や対立」が「相互転換」をなすその「現実」にとどまる。(283頁)
☆かくて「純粋透見」(「近代的理性」)と「信仰」とは大変似たものだが、それだけに両者間にはやがて戦いが交えられることになる。(283頁)

《参考3》「教養の世界」((BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)は、「信仰の世界」と「透見の世界」(「自我の否定の働き」として「地上」にとどまる)という相反した世界、つまり「天上」と「地上」とを含むから、この点に関しても、また「相互転換」即ち「自己疎外」があり、したがって「自己疎外精神」であるということが、どこまでも「教養」の基本的性格だ。(278頁)

(69)-2 「啓蒙」は「民間信仰」とも衝突するが、この戦いは、ヘーゲルに言わせると、「純粋透見」が「信仰」から「内容」を得、「具体性」を獲得することだ! 
★さて「クリスト教」が「民間信仰」と結合したように、ヘーゲルが「信仰」(Cf. 「宗教」)と名づけたものも「民間信仰」を含む。(285頁)
☆たとえば、「クリスマスのサンタクロース」は「北欧童話」から出たもの、「聖ヨハネの祭り」は「夏至の祭り」であり、「聖マルチンの祭り」は「冬至の祭り」である。(285頁)

《参考》「聖ヨハネの祭り」は「バプテスマのヨハネ」の生誕を祝う。イエスの半年前に生まれ,イエスに洗礼を施した「バプテスマのヨハネ」(「洗礼者ヨハネ」)は,イエス・キリスト(12/25)及び聖母マリア(9/8)以外で、カトリックが生誕を祝う唯一の人物だ。「聖ヨハネ」の誕生は大天使ガブリエルによって告げられたことからもわかるように、「聖ヨハネ」は聖霊により生まれ、原罪から自由であった。「聖ヨハネ祭」の起源は古く,「太陽神の冬至祭」だった12/25がクリスマスに定められると,自ずと「夏至」の祝祭が執り行われていた「 Midsummer Day 」即ち6/24に「バプテスマのヨハネの誕生日」が祝われることとなり、「聖ヨハネ祭」は夏のクリスマスとも呼ばれてきた。ヨーロッパがキリスト教以前の「太陽神」の時代だった頃、人々は日増しに高くなる太陽が「頂点」に達すると,そこで耕地に恵みを与え「引き返す」と信じていたが,「聖ヨハネ祭」は、この古い祀りを色濃く伝える。「夏至祭」の日、人々は盛大な夏至の祝火を焚いて太陽に力を与え、悪霊を祓って耕地の繁栄を祈った。「聖ヨハネ祭」の前夜(Midsummer's Eve)、山野、時には街の広場などで祝火が焚かれ、立ち上る煙で収穫を占ったり、火の周りを踊って健康を祈り、恋を占い、残り火を家に持ち帰ってかまどの火を新しくし、家の中へ幸運を呼び込んだ。この「聖ヨハネ祭の前夜」には妖精や魔女、死霊や生霊などが現れ乱舞すると信じられていたが,シェークスピアの『真夏の夜の夢』もこのような伝説を背景としている。

《参考》毎年11/11は冬の始まりを告げる「聖マルティン祭」。子どもたちが色とりどりのランタンを片手に、「♪Sankt Martin, Sankt Martin……」と歌いながら行進する。このお祭りは、「ローマ時代にローマ軍の兵士であった聖マルティンが、遠征中に寒さで凍える貧しい人に、自分の赤いマントを剣で切り裂いて与えた」という伝説が元になっている。その後、司教となったマルティンは人々から慕われ、ついには聖人になった。聖マルティン祭は、彼を祝う。ドイツのデュッセルドルフでは、その日の日暮れ、子どもたちが近所の幼稚園や教会に集合。馬に乗った赤いマント姿のマルティンの後ろに列を作り、手作りのランタン片手に、ブラスバンドの演奏に合わせて歌いながら街を練り歩く。広場に到着したら、「聖マルティンが自分の赤いマントを剣で切って貧しい人に渡す」という寸劇を観て、皆で歌う。その後は近所を回り、子どもたちは歌を披露し、上手に歌えるとお菓子がもらえる。「マルティン祭」が終わると、いよいよ「クリスマス」。ドイツが1年で最も盛り上がる季節だ。(参照:石井めぐみ)

★「啓蒙」は「民間信仰」とも衝突するが、この戦いは、ヘーゲルに言わせると、この「信仰」を打破することでなく、「純粋透見」が「信仰」から「内容」を得、「具体性」を獲得することだ。(285頁)

★もっとも「信仰」との戦いにおいて、勝利が「啓蒙」の側にあることはもちろんだ。けだし「啓蒙」は「純粋透見」の立場をとるが、「純粋透見」は「自己意識の権利を負うて立つ」からだ。(285-286頁)

《参考》(ア)「純粋透見」はただの「働き」(「ただ見透す働き」)だから、「信仰」のように「内容」をもつものでなく、「形式的」なものにすぎない。また(イ)「働き」、ことに「否定の働き」は、ヘーゲルではいつも、「自由」をもって特徴とする「主体」のもの、すなわち「自我」のものだ。その点からすると、「純粋透見」の特徴は「自我性」だ。(283頁)

★そうかといって「啓蒙」の言い分が全く正しいとはかぎらない。なぜなら「純粋透見」は、「純粋」なものとして、最初は「個人的」・「主観的」・「形式的」たることをまぬがれえないからだ。そこからすると、むしろ「信仰」(※「公共的」・「客観的」・「内容的」)の言い分の方が正しく、「純粋透見」の方が間違っている。(286頁)

(69)-3 「啓蒙」の「宗教」批判は当たっていない!「信者」たちが本当にあがめて信じているものは実は「絶対精神」・「絶対実在」だ!「信仰」は、「外在的なもの」でなく、「内的なもの」を信じている!
★「啓蒙」と「信仰」の戦いについて、具体的にヘーゲルは次のように述べる。(286頁)
☆さて「啓蒙」の「宗教」批判は例えば、①「聖餐式にさいして、わかちあたえられたパンと葡萄酒とがそれぞれクリストの肉と血であると信じられている」ことや、②「木や石に刻まれた像が、そのままクリストの御姿であると信ぜられ、あがめられる」ことなどに向かう。(286頁)

★だがヘーゲルに言わせると、「信仰」だって実はそんな馬鹿げたことを信じていない。「葡萄酒は葡萄の実をしぼって作ったもの」、「パンは小麦から作ったもの」であること、「聖像が木石にすぎぬ」ことは、確かに「啓蒙」の主張する通りだ。(286頁)
☆しかし「信者」だって、それくらいのことは、百も承知で、「信者」たちが本当にあがめて信じているものは実は「絶対精神」よりほかのものではない。(286頁)
☆ただ「信仰」が「表象性」をまぬがれえないために、「絶対精神」を「聖像」によって「象徴」したり、また「絶対精神」が「自己」であり、「自己の『血肉』」であることを、「パン」と「葡萄酒」によって「象徴」しているにすぎない。(286頁)
☆「信仰」は、「外在的なもの」でなく、「内的なもの」を信じている。(286頁)
(69)-3-2  そもそも「信仰」とは「信頼」である!「信仰」において「信じられている」のは、「絶対実在」であり、「絶対精神」だ!
★そもそも「信仰」とは「信頼」である。(286頁)
★「人間関係」においても、「相手を『信頼』する」とは、「相手のうちに『自己自身』をみる」ことだ。だから「信頼」は、「他者」にでなく「自己」に向かっている。(287頁)
《感想》つまり「他者」のうちに「自己」を見いだすことが、「他者」を「信頼」することだ。何という「自己」中心性!

★しかも「信頼」は「自分の『我欲』を抑制する」ときにのみ可能なのだから、「相手」のうちに見られる「自己」とは「『我欲』を抑えるところに成りたつ『本来的自己』」だ。(287頁)

★だから「信仰」において「信じられている」のは、「『パン』が『クリストの肉』である」とか、「『葡萄酒』が『クリストの血』である」とか、「『聖画』に描かれ『聖像』に刻まれているのが『クリストの御姿』である」とかいうような「外的なこと」ではなく、「絶対実在」であり、「絶対精神」なのだから、「啓蒙」の、「宗教」・「信仰」に対する批判はまちがっている。(287頁)

(69)-4 「個人」が「絶対的実在」と結びつくには、「直接的な『我執』を否定する」のが当然だ!「苦行」・「断食」・「喜捨」などにも意味はある!「むきだしの直接的な『我欲』」をもって「絶対的」とする「啓蒙」こそがまちがっている!
★また「啓蒙」は、「信者」が「苦行」・「断食」・「喜捨」したりすることを、「馬鹿げたこと」と批評し非難するが、ヘーゲルに言わせると、「個人」が「絶対的実在」と結びつくには、「直接的な『我執』を否定する」のが当然だから、かかる行為(「苦行」・「断食」・「喜捨」など)にも意味はあるのである。だからヘーゲルはそうした行為を認めず、したがって「むきだしの直接的な『我欲』(『我執』)」をもって「絶対的」とする「啓蒙」こそがまちがっているとする。(287頁)

(69)-5 ヘーゲルは、内実の上ではむしろ「信仰」の方が、「啓蒙」より正しいとする!
★以上のようなわけで、ヘーゲルは、「信仰」ばかりが悪いのではなく、「啓蒙」の方にも悪いところがあるのであり、内実の上ではむしろ「信仰」の方が正しく、「信仰」の間違いは、「表象性」・「対象性」にとらわれて、「『自己意識』の権利」を十分に認めないところにあるにすぎぬとする。(287頁)
★それで「『啓蒙』もまちがっている」のだが、「『信仰』との戦い」とはまさにこの「まちがい」を「啓蒙」or「純粋透見」に思い知らせるものであり、これによって「純粋透見」(「啓蒙」)の方も自分自身を「具体化」していくことができるというように、ヘーゲルは考えている。(287頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ハ「透見」:「観察的理性」に、「実践面」で相応ずるものが「純粋透見」(「近代的理性」)だ!

2024-08-22 15:40:56 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ハ「透見」(282-284頁)
(68)「現実の世界」における「もろもろの対立」(①②③)の「相互転換」から、一方で「信仰」、他方で「純粋透見」が出てくる!
★「現実の世界」((BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」)において、「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」などの対立)が「相互に他に転換する」が、この「相互転換」から出てくるものには、一方で「信仰」、他方でなお「純粋透見」がある。(282頁)

《参考》「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)が「相互に転換する」以上、「もろもろの対立」は、「対立を越え包む超越的統一」に帰する。この「超越的統一」は本来的には「概念」だ。(278頁)
☆しかしこの「超越的統一」は、ここではまだ、《「もろもろの対立」(①②③)という「現実」》からかけ離れた「統一」にすぎぬものとしてとらえられているから、「概念」そのものでなく、「表象」の形式におけるものだ。これが(2)「信仰の天界」を与える。(278頁)
☆これに対して(1)「透見」(「純粋透見」)は、「自我の『否定の働き』」として「地上」にとどまる。(278頁)
☆かくて「教養の世界」は「現実の国」を含むとともに、(1)「透見の世界」と(2)「信仰の世界」を含む。(278頁)
Cf. こうして(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」は、a「教養と現実の国」(「現実の世界」)に続いて、b「信仰と純粋透見」という段階が設定される。(277頁)

(68)-2 「純粋透見」とは「現実の世界」の「もろもろの対立」についての「見透しの働き」だ!それに対し「信仰」は「それら対立を包越する『統一』」を構想する!
★「純粋透見」は、「対立したり区別をもっているもの」がじつは「相互に他に転換する」ことを、「教養」の結果として「見透している」。「純粋透見」とは、その「見透しの働き」そのものことだ。(282頁)
☆ただし「純粋透見」は、「見透しの働き」そのものにとどまることにその特徴がある。「純粋透見」は、「相互転換」を通じて、「対立するもの」の「彼方」に、「それら対立を包越する『統一』」を構想するものではない。(282頁)
☆「対立するもの」の「彼方」に、「それら対立を包越する『統一』」を構想するなら、それは「信仰」だ。(282-283頁)
☆「ただ見透す働き」そのものだから、「純粋透見」と名づけられる。(283頁)

(68)-3 「純粋透見」は「形式的」で、「信仰」のように「内容」をもつものでない!「純粋透見」の特徴は「自我性」・「主体」性(「働き」・「否定の働き」・「自由」)だ!
★「純粋透見」はただの「働き」(「ただ見透す働き」)だから、「信仰」のように「内容」をもつものでなく、「形式的」なものにすぎない。(283頁)
★また「働き」、ことに「否定の働き」は、ヘーゲルではいつも、「自由」をもって特徴とする「主体」のもの、すなわち「自我」のものだ。その点からすると、「純粋透見」の特徴は「自我性」だ。(283頁)

(68)-4 「純粋透見」と結びついているのは「現実性」であり「此岸性」だ!
★「純粋透見」の「自我性」と結びついているのは「現実性」であり「此岸性」だ。「純粋透見」は、「信仰」のように「彼岸にある実在」を想定しない。(283頁)
☆「純粋透見」は、「区別や対立」が「相互転換」をなすその「現実」にとどまる。(283頁)

★かくて「純粋透見」(「近代的理性」)と「信仰」とは大変似たものだが、それだけに両者間にはやがて戦いが交えられることになる。(283頁)

(68)-5 「純粋透見」とは「近代的理性」だ!「観察的理性」に、「実践面」において相応ずるものが「純粋透見」(「近代的理性」)だ!
★歴史的には、「純粋透見」とは、いつも「自我意識」を伴っているところの、したがって「働き」ではあるが、自分では「内容」をもたず「形式的」であるところの「近代的理性」であると言える。(283頁)
★さて((A)「意識」、(B)「自己意識」の段階を経て)(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階が生じたそのとき、「理性」は「あらゆる実在である」という確信を持っており、そのかぎり「観念論」の立場をとる。(283頁)

★だがこの「理性」はまだ「確信」にすぎず、「無内容」で、「『内容』を『対象』から受け取る」ほかはないところからしては「経験論」の立場をとる。したがって「理性」は最初には「観察」に従事せざるをえない。(「観察的理性」!)(283頁)
☆「観察的理性」に「実践面」において相応ずるものが「純粋透見」だ。(283頁)
☆即ち「観察」の段階((C)(AA)「理性」orⅤ「理性の確信と真理」のA「観察的理性」)では、ルネッサンス以後の「近代科学」において働く「理性」が問題として取り上げられたが、ここ(B「教養」の世界)では現実の「実践的生活」において働く「理性」(「純粋透見」)が問題とされている。(283頁)

《参考1》「教養の世界」((BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)は、「信仰の世界」と「透見の世界」(「自我の否定の働き」として「地上」にとどまる)という相反した世界、つまり「天上」と「地上」とを含むから、この点に関しても、また「相互転換」即ち「自己疎外」があり、したがって「自己疎外精神」であるということが、どこまでも「教養」の基本的性格だ。(278頁)

《参考2》ヘーゲル『精神現象学』では、(ア)「教養」Bildung は「自己疎外的精神」として、《「人倫」という「真なる精神」》と、《「道徳性」という「自らを確信した精神」》との中間的もしくは過渡的段階としての位置を与えられている。「教養」は「精神の自己疎外態」である。(イ)「教養」はヘーゲルにおいて否定的な評価を受けており「衰弱したエリート趣味」、「技巧的な知的浮薄」ともされる。(ウ)ヘーゲル『精神現象学』の歴史哲学によれば「ギリシャ的ポリス」および「ローマ的法治国家」と、「カントやゲーテによって代表される近代ドイツ」との中間にあるのが「教養」であり、「教養」は「18世紀フランスの『哲学者たち』と革命の時期」にあたる。(エ)ヘーゲルの思考の特徴である「3段階発展図式」において、「教養」は「第2段階」すなわち「対自」・「反省」・「本質」・「外化」・「分裂」・「市民社会」などに対応するものだ。つまり「教養」は「否定性」の契機であり、「否定」の機能を果たしつつ、積極的な意義を含む。(『ヘーゲル事典』弘文堂2014年)

(68)-6 「純粋透見」(or「エスプリ」)は「個人的主観的」あるいは「主観的形式的」だということで、悪い意味で「純粋」とされる!
★さて「純粋透見」(「近代的理性」)はいろんな「区別」や「対立」を解消しようとするものとして、「エスプリ」(「精神」Geist)だ。(284頁)
☆①しかし悪くすると「純粋透見」の「エスプリ」も、「だじゃれ」を弄するにすぎぬこととなる。つまり「自分勝手」になり「個人的主観的」にすぎず、『ラモウの甥』の場合のように「我儘」のためのものすぎなくなるおそれがある。(284頁)

《参考》「『教養』の段階」((BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」)でヘーゲルは、ディドロの『ラモウの甥』(1762執筆、1823刊行)を材料として使うが、ゲーテ(1749-1832)は『ラモウの甥』が偉大なる傑作であることを看破して、1805年に独訳したが、それをいち早く受け入れたのがヘーゲル(1770-1831)だった。この作品の主人公〈作曲家ラモーの甥〉は「権力者」をも「金持ち」をもいずれをも「憎みのろい」ながら、またいずれにも「阿諛(アユ)」を呈するのだが、つまりヘーゲルに言わせれば、①《「国権」は「財富」、「財富」は「国権」》、②《「善」は「悪」、「悪」は「善」》、③《「高貴」は「下賤」、「下賤」は「高貴」》という態度をとるのだが、この「一見錯乱した狂人めいた態度」も決して軽蔑すべきではなく、むしろ「エスプリ」esprit(「ガイスト」Geist)に富んだものであるとヘーゲルは考えて、積極的意義を認めている。(267頁)
☆つまり「人間精神」の発展上、重要な一つの段階である「疎外」を表現したものという見地から、ヘーゲルはこのディドロの作品『ラモウの甥』を活用している。(267-268頁)

★②また「純粋透見」は「内容」に即しないで、「抽象的形式的」になるおそれがある。「透見」でなくわざわざ「純粋」という限定をつけているが、この「限定」には善悪の二義があって、悪い意味においては「ただの『透見』」であり、「主観的形式的」だということで、「純粋」とされる。(284頁)

《参考》「純粋透見」はただの「働き」(「ただ見透す働き」)だから、「信仰」のように「内容」をもつものでなく、「形式的」なものにすぎない。(283頁)

(68)-7 「純粋透見」が良い意味でつまり本当の意味で「純粋」になるには、「個人的主観的」あるいは「主観的形式的」に「純粋」ではダメだ!「純粋透見」がある個人一個のものでなく、「公共化」されていかなくてはならない!
★「純粋透見」が良い意味でつまり本当の意味で「純粋」になるには、「個人的主観的」あるいは「主観的形式的」に「純粋」だという欠陥が是正されなくてはならない。「純粋透見」は、ある個人一個のものでなく、「公共化」されていかなくてはならない。(284頁)

(68)-7-2 「個人的主観的」あるいは「主観的形式的」な「純粋透見」の「公共化」:フランスの「アンシクロペディスト」(百科全書家)による「啓蒙」!
★「純粋透見」の「公共化」について、ヘーゲルはフランスの「アンシクロペディスト」(百科全書家)のことを念頭において、個人個人の「透見」が集大成されることによって「純粋透見」は次第に「成長をとげていく」と考える。(284頁)
☆「純粋透見」が「成長していく」とは、最初は「プライベイト」な、「主観的」なものであった「透見」が「社会的に普及する」ということも意味するが、これが「啓蒙」にほかならない。(284頁)
☆「啓蒙」は、「純粋透見」をして「公共的」・「普遍的」・「客観的」・「内容的」(⇔「個人的」・「個別的」・「主観的」・「形式的」)なものにまで「成長」させる。「啓蒙」は、「純粋透見」にとって不可欠なものだ。(284頁)

《参考》「百科全書派」Encyclopédistes:18世紀後半のフランスで、ディドロとダランベールの編集した『百科全書』(1751-72、本文17巻、図版11巻)に寄稿し、その刊行に協力した「啓蒙思想家」たち。
☆最初の寄稿者たちはむしろ無名に近い人々が多かったが、彼らはほぼ4つのグループに大別される。第1はダランベールの関係する科学アカデミーやロンドンの王立協会に属する科学者、数学者たち、第2はディドロの友人でルソー、ドルバック、ジョクールなど、第3はもっとも人数の多い「職人」グループで、靴下製造業者、絹加工業者、時計製造業者、冶金業者、ビール醸造業者、出版業者などの専門的技能をもつ商人・企業家層、第4はイボン、ペストレ、プラドなどの聖職者グループだ。
☆1752年初頭、執筆者の1人プラド神父の博士論文が反対派のイエズス会士たちによって、パリ大学神学部で否認宣告を受けたのを機会に、『百科全書』の最初の2巻が発禁処分を受けると、当時の進歩的な知識人や科学者たちはこぞって『百科全書』の陣営に参加し始めた。老大家ボルテールやモンテスキューをはじめ、デュクロ、マルモンテル、モルレ、サン・ランベールらのアカデミー会員、ラ・コンダミーヌ、ケネー、チュルゴー、フォルボネなどである。
☆『百科全書』がイエズス会やヤンセン派(ジャンセニスム)の影響下にあったパリ高等法院の激しい攻撃のなかで、再三の発禁処分にもかかわらず、実に21年間にわたって刊行され完結することができたのは、ディドロ自身のいうように、「各人がばらばらでありながらそれぞれ自分の部門を引き受け、ただ人類への一般的関心と相互的好意の感情によってのみ結ばれた文学者、工芸家の集まり」に支えられていたからである。
☆また国璽尚書(コクジショウショ)ダルジアンソン侯爵や出版監督局長官マルゼルブなど旧制度の官僚にも、『百科全書』の刊行に協力を惜しまない人々が少なくなかった。
☆『百科全書』刊行の目的は当時の先進的な学問、思想、技術を集大成し普及することにあったが、同様に百科全書派の人々もあらゆる形態の生産的、創造的活動に直接間接に従事するか、あるいは少なくともそれに個人的関心をもつ学者、専門家、企業家であった。彼らの共通の目標は旧制度下の圧政、悪弊、狂信を改めて、より理性的でより自由な社会を実現することであった。
☆しかしあらゆる分野で経済的、知的進歩を実現することと、政治的、社会的秩序の徹底的な転覆を企てることとは別である。彼らの理想は生産的な市民階級が実業の実践によって漸次的に経済的実権を獲得し、そのあとで暴力を用いずに貴族階級にかわって国家の指導にあたることであった。この意味で、「百科全書派」や「啓蒙思想家」は「フランス革命」を希望しなかった、ということができる。(参照:小学館『日本大百科全書(ニッポニカ))』坂井昭宏)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ロ「信仰」(その3):「彼岸」と「此岸」との「連絡」は「外面的」で「奉仕」と「讃美」だ!

2024-08-21 13:06:56 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ロ「信仰」(その3)(280-282頁)
(67)「信仰の世界」(「彼岸」)と「現実の世界」(「此岸」)との「連絡」をつけることが必要だ!「信仰」の立場においては「連絡」のための「媒介づけ」も、「彼岸的」だ!「奉仕」(断食・苦行・喜捨・献納など)と「讃美」(讃歌・祈禱など)!
★(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)において、「信仰の世界」は「彼岸」であり、「現実の世界」(「現実の国」)は「此岸」だ。(280頁)
☆しかし「彼岸」(「信仰の世界」)も「彼岸」のままにとどまっては無意義だし、まして「信仰の世界」自身が「子の位」において「現実的世界」を肯定したのである以上、「彼岸」と「此岸」との「連絡」をつけることが必要になる。(280頁)

《参考》①「父の位」にあたるものは「君主」あるいは「国権」だ。なぜなら「国権」は「普遍的」で「つねに自己同一を保つ」ものだからだ。しかし「国権」も「国権」として自分を保つためには、むしろ「財富」として自分を「個別化」して、「臣民」各自に生活上の幸福を享楽させ、彼らをいわば「子」として慈愛をもって遇することが必要だ。かくて②「子の位」にあたるものは「臣民」各自であり、また「財富」だ。☆ところで③(ア)「国権」はもとよりのこと「財富」でさえ、自分の欲求ばかりみたしていたのでは、じつは得られない。(イ)「財富」を獲得するにも、世のため、ひとのために、したがってまた「君主」に「奉仕」し、自分を犠牲に供し「国権」と結びつかなくてはならないし、さらに(ウ)「財富」を獲得し保つためにも、恩恵を広く世人に頒かち与えなければならない。ここに((ア)(イ)(ウ))「罪と肉とに死して『霊』にかえる」ことに相応するものがある。かくて①「父の位」にあたるものは「君主」あるいは「国権」、②「子の位」にあたるものは「臣民」また「財富」、③「霊の位」にあたるものはたとえば「廷臣」の「君主への献身」あるいは「財富」の「国権への還帰」だ。(279-280頁)

★しかし「彼岸」と「此岸」との「連絡」を、「現実的世界」(「此岸」)に即して「内在的」に行うことは、「信仰」(「彼岸」)のよくなしえないところだ。というのも「信仰」の立場はどこまでも「彼岸」だからだ。(279頁)
☆「信仰」の立場においては、かくて「彼岸」と「此岸」との「連絡」のための「媒介づけ」も、「彼岸的」であり、「現実」に対しては「外面的」たるのほかない。(280-281頁)
☆かくて「彼岸」と「此岸」との「連絡」のための「媒介の行為」は、「信仰」の立場においては、「奉仕」(断食・苦行・喜捨・献納など)と「讃美」(讃歌・祈禱など)とである。(281頁)
☆これらは「現実の世界」における「廷臣」の「奉公」と「頌辞」とに該当する。(281頁)

(67)-2 ここでの「信仰」とは「中世から近世にかけての政治的経済的生活の裏づけをなした『宗教』」と解してよい!
★さて「宗教」は「『絶対実在』を『自己』として意識するもの」、言い換えれば「『絶対精神』の立場において成立するもの」だ。(281頁)
☆ところがここでの「信仰」は「彼岸の世界を『表象』する」ものであるという理由で、ヘーゲルは「宗教」ではないとするが、先述したように、「信仰」は実質上は「宗教」であり、しかも「クリスト教」であることは明らかだ。(281頁)

《参考》ヘーゲルは、ここでの「信仰」はまだ「宗教」ではないと言う。というのは「宗教」が「絶対実在を自己として意識する」ものであるのに対し、「信仰」は「絶対実在を彼岸として『表象』する」にすぎないからだ。しかしヘーゲルにとって、およそ「宗教」は「表象性」をまぬがれえないものであって、最高の「宗教」たるクリスト教でさえそうだ。だから意識発展の段階のいかんに応じて重点の置き方違うだけで、実質から言えば、ただ今の「信仰」も「宗教」であるにちがいない。(278頁)

★しかも「信仰の世界」が「『国権』と『財富』とからなる『現実の世界』」との対応をもっていることも明らかなのだから、ここでの「信仰」とは「中世から近世にかけての政治的経済的生活の裏づけをなした『宗教』」と解してよい。(281頁)

(67)-2-2  ここでの「『信仰』の世界」とは「宗教改革時代の『宗教』」ではない!「イエナ時代」(1801-1807)のヘーゲルはむしろ「カトリシズム」への同情を示している!
★ただここでの「信仰」の歴史的規定、すなわちこの「信仰の世界」とは「中世から近世にかけての政治的経済的生活の裏づけをなした『宗教』」だとする(ヘーゲルの)見解については、疑惑がありうる。(281頁)
☆なぜなら次に論ぜられる「透見」が「啓蒙」にほかならないところからすると(Cf. (BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」・Ⅱ「啓蒙」)、ここでの「『信仰』の世界」とは「宗教改革時代の『宗教』」をさすのではないかとも考えられる。(281頁)

☆しかしここでの「『信仰』の世界」とは「宗教改革時代の『宗教』」をさすのでは「ない」と言わざるをえない。その理由は以下の通りだ。(281頁)
(ア) ヘーゲル『精神現象学』(C)「理性」(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」の段階は、全部、「フランス」を中心として展開されていることは明らかだが、「フランス」では「宗教改革」は顕著でなかった。(281頁)
(イ)それにヘーゲルが「ルターの宗教改革」に対して「現代への世界史的転換点」として重大な意義を与えるのはベルリン大学教授(1818-1831死)になってからのこと、特に『歴史哲学講義』においてのことだ。(281頁)
(イ)-2 『精神現象学』(1807)を書いたヘーゲルにとって、「現代への世界史的転換点」の意義を持つのは「フランス革命」だった。「イエナ時代」(1801-1807)のヘーゲルはむしろ「カトリシズム」への同情を示している。(281-282頁)
(イ)-3 ルカーチ(1885-1971)は、「イエナ時代」(1801-1807)と「ベルリン時代」(1818-1831死)とで、「ヘーゲルの史観」に変化をきたしたことをしきりに証明しようとしているが、「それは正しい」と金子武蔵氏は言う。(282頁)

★かくてヘーゲルがここで「信仰」(「信仰の世界」)と言うものは、「宗教改革」の有無にかかわりなく、「中世から近世にかけての政治的経済的生活の裏づけをなし、支えとなっていた『宗教』」だと言ってよい。(282頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ロ「信仰」(その2):「教養の世界」は、「信仰の世界」と「地上」の「透見の世界」とを含む!

2024-08-20 14:08:48 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ロ「信仰」(その2)(278-280頁)
(66)「教養の世界」は、「信仰の世界」と《「透見の世界」(「自我の否定の働き」として「地上」にとどまる)》という相反した世界、つまり「天上」と「地上」とを含む!
★「教養の世界」((BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)は、「信仰の世界」と「透見の世界」(「自我の否定の働き」として「地上」にとどまる)という相反した世界、つまり「天上」と「地上」とを含むから、この点に関しても、また「相互転換」即ち「自己疎外」があり、したがって「自己疎外精神」であるということが、どこまでも「教養」の基本的性格だ。(278頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』では、(ア)「教養」Bildung は「自己疎外的精神」として、《「人倫」という「真なる精神」》と、《「道徳性」という「自らを確信した精神」》との中間的もしくは過渡的段階としての位置を与えられている。「教養」は「精神の自己疎外態」である。(イ)「教養」はヘーゲルにおいて否定的な評価を受けており「衰弱したエリート趣味」、「技巧的な知的浮薄」ともされる。(ウ)ヘーゲル『精神現象学』の歴史哲学によれば「ギリシャ的ポリス」および「ローマ的法治国家」と、「カントやゲーテによって代表される近代ドイツ」との中間にあるのが「教養」であり、「教養」は「18世紀フランスの『哲学者たち』と革命の時期」にあたる。(エ)ヘーゲルの思考の特徴である「3段階発展図式」において、「教養」は「第2段階」すなわち「対自」・「反省」・「本質」・「外化」・「分裂」・「市民社会」などに対応するものだ。つまり「教養」は「否定性」の契機であり、「否定」の機能を果たしつつ、積極的な意義を含む。(『ヘーゲル事典』弘文堂2014年)

(66)-2 まず「信仰の世界」について取り上げる:「信仰」も、「宗教」である!
★「教養の世界」に含まれる《「信仰の世界」と「透見の世界」という相反した世界》のうち、まず「信仰の世界」について取り上げよう。(278頁)
☆ヘーゲルは、ここでの「信仰」はまだ「宗教」ではないと言う。というのは「宗教」が「絶対実在を自己として意識する」ものであるのに対し、「信仰」は「絶対実在を彼岸として『表象』する」にすぎないからだ。(278頁)
☆しかしヘーゲルにとって、およそ「宗教」は「表象性」をまぬがれえないものであって、最高の「宗教」たるクリスト教でさえそうだ。(278頁)
☆だから意識発展の段階のいかんに応じて重点の置き方違うだけで、実質から言えば、ただ今の「信仰」も「宗教」であるにちがいない。(278頁)

(66)-3 最高の「宗教」である「クリスト教」の核心は「三位一体の教義」だ!①「父」なる神と、②「人の子」である賤しい大工の子と、③「聖霊」は「三位一体」だ!
★最高の「宗教」はヘーゲルにとって「クリスト教」であり、かつこれの核心は「三位一体の教義」だ。(278-279頁)
☆「三位一体の教義」において、「神」はまず①「父」として「宇宙の創造者であり摂理者」だ。①-2 しかしこれだけでは「神」自身は単に「超越者」であり「世界と全くつながりをもたない」。いいかえると「神」は「絶対」ではなく「相対的絶対」だ。(279頁)
☆かくて「絶対的絶対」たるべく、「超越神」も「受肉」して「賤しい大工の子」として「この世」に生まれ、②「人の子」となることにより、「世」は「神の世」に、「人の子」は「神の子」に、「超越神」は「内在神」となる。(279頁)
☆しかし「人の子」がただちに「神の子」ではなく、「肉を、罪を負うたもの」であるから「十字架についてその罪に死すべき」である。が「死する」ことによって、「人の子」は③「聖霊」として復活昇天して神のかたわらに座をしめることになる。(279頁)

《参考》「聖霊」:キリストが地上を去った後、信者に信仰と心の平和を与えるのは「聖霊」すなわち「信者の心に宿るキリスト」である。それでは「聖霊」も「神性」を持つのか?「聖霊」の「神性」を認めれば、キリスト教は多神教となる。この問題を解決したのが、コンスタンティノープル公会議(381)だった。「聖霊」の「神性」が認められ、「神」は、自らを同時に「父と子と聖霊なる三つの位格(ペルソナ)」の中に示す「一つの神」だと宣言された。すなわち、「父と子と聖霊」は各々完全に神であるが、三つの神があるのではなく、存在するのは一つの「実体(スブスタンティア)」、すなわち「一つの神」であると決定された。

(66)-4 「三位一体の教義」(「宗教」or「信仰」)と「教養の現実的世界」との関係:①「父の位」にあたるものは「君主」あるいは「国権」だ、②「子」にあたるものは「臣民」また「財富」だ、③「聖霊」にあたるのは、《「国権」はもとよりのこと「財富」でさえ、自分の欲求ばかりみたしていたのでは、じつは得られない》ということだ!
★ヘーゲルにとって最高の「宗教」である「クリスト教」の核心は「三位一体の教義」だが、これは「教養の現実的世界」とどういう関係にあるのか?(279頁)
☆①「父の位」にあたるものは「君主」あるいは「国権」だ。なぜなら「国権」は「普遍的」で「つねに自己同一を保つ」ものだからだ。(279頁)
☆しかし「国権」も「国権」として自分を保つためには、むしろ「財富」として自分を「個別化」して、「臣民」各自に生活上の幸福を享楽させ、彼らをいわば「子」として慈愛をもって遇することが必要だ。かくて②「子の位」にあたるものは「臣民」各自であり、また「財富」だ。(279頁)
☆ところで③(ア)「国権」はもとよりのこと「財富」でさえ、自分の欲求ばかりみたしていたのでは、じつは得られない。(イ)「財富」を獲得するにも、世のため、ひとのために、したがってまた「君主」に「奉仕」し、自分を犠牲に供し「国権」と結びつかなくてはならないし、さらに(ウ)「財富」を獲得し保つためにも、恩恵を広く世人に頒かち与えなければならない。ここに((ア)(イ)(ウ))「罪と肉とに死して『霊』にかえる」ことに相応するものがある。(279-280頁)
☆かくて①「父の位」にあたるものは「君主」あるいは「国権」、②「子の位」にあたるものは「臣民」また「財富」、③「霊の位」にあたるものはたとえば「廷臣」の「君主への献身」あるいは「財富」の「国権への還帰」だ。(280頁)

★むろん「教養の現実的世界」にも《「国権」と「財富」》との、あるいは《「即自」と「対自(対他)」》との、《「普遍」と「個別」》との「相互転換」は行われてはいる。ただしそこは「現実の世界」であるから、「転換」は必ずしも理想どおりにはおこなわれていない。(280頁)
☆しかし(※「信仰」or「宗教」は)「偶然的な現実的なもの」はこれをみんな消し捨象してしまって、ただその基礎にある「精神的な統一」だけをとりだし、しかも、これを「概念」的に把握するのでなく、「表象」によって構想すれば、「『父と子と霊との三位』のあいだの自在な三一的統一」が生ずることとなる。(280頁)

《参考1》「力」という言葉がなぜでるのか?(109頁)
☆「知覚」の段階において「個別と普遍」、「一と多」、「即自と対他」、「自と他」といった対立が、互いに他に転換して切りはなすことのできないものであることが、明らかになった。(109頁)
☆それら諸対立なかで、「一と多」という対立は、両者が切り離せないから、「一」の方もすぐ「多」になり、「多」の方もすぐ「一」になるという「相互転換」を意味した。(109頁)
☆したがって「一」というものは「多」となっておのれをあらわすべきものであり、「多」もまた「一」が外にあらわれて呈する姿にほかならないので「一」に還帰する。(109頁)
☆かくて「一と多との対立」は、「力」と「その力が外に現れた『外化あるいは発現』」の対立にほかならない。(109頁)
☆この意味で「一と多とが切りはなせない」というのは、「物」がもはや「物」でなく「力」になったことだ。(109頁)
☆「知覚」段階では「物」を知覚していたのに対して、「一」が「多」と互いに他に転換するという点から見れば、そこには「物」的でない、「制約されない普遍性」すなわち「力」がある。このような意味で、「物」とはじつは「力」なのだ。(109頁)

《参考2》ヘーゲルは「無限」について、「真無限」と「悪無限」という二つを考える。(121頁)
☆それからそれへと「無限」に続いて、どこまでいっても「対立」や「他者」が残るのが「悪無限」だ。これに対して、自分に対する「他者」が一つも残らないのが「真無限」だ。(121頁)
☆したがって、根柢に「統一」があって、その「統一」がおのれを分けて二つの「対立」を生じ、また相互転換によって一つに帰るという運動は「真無限」だ。(121頁)
☆「実在」そのものが「真無限」であることを示すのが、即ち「説明」だ。この意味でヘーゲルは、一方で「説明」は「同語反復」と悪口ばかり言っているように見えるが(Cf. 119-120頁)、実はヘーゲルは「説明」に積極的の意義を認めている。(121頁)
《参考2-2》なおヘーゲルは「説明」を通じてえた「無限性」(「真無限」)の見地、すなわち①「説明」(「無限性」という「真理」)は「思惟の主観的な運動」ではない、②「説明」はむしろ「客観そのもの、実在そのものの運動」だ、③ヘーゲルはこの「運動」を「無限性」(「真無限」)と名づける、④「実在」の「無限性」(「真無限」としての「無限の運動」)こそが「真理」だとの見地から、ヘーゲルは「シェリングにおける『対極性一致の原理』」を解釈する。(120-121頁)

《参考3》「客体」に関係する「主体」の態度、即ち「判断」には2種類ある。(265頁)
☆一つは(あ)「素直な態度」or「高貴なる意識」だ。これは「客体的に即自的なもの」を「自分の即自的なもの」に照らして「善」と判断し、「対他的なもの」を「自分の対他的なもの」に照らして「善」と「判断」する態度だ。これはいつも「対象」と「自己」との「同一性」を見いだそうとする「素直な態度」だ。ヘーゲルはこれを「高貴なる意識」と呼ぶ。《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する。(265頁)
☆しかしもう一つ(い)「あまのじゃく的な態度」or「下賤なる意識」がある。すなわち「国権」に対する時には、自分の「対他存在」を規準として、「国権」なんていうものは、「おのれの生活を束縛し幸福を制限する」ものだから「悪」だとし、そして「財富」に対しては自分の「即自存在」を規準として「そんな我執我欲の産物はゴメンだ」と「悪」と判断する。《「国権」は「悪」、「財富」は「悪」》と「判断」する態度だ。(265頁)
☆要するに「客体」に関係する「主体」の態度、即ち「判断」には2種類ある。一つは(あ)「素直な態度」or「高貴なる意識」で、「対象」と「自分」の間にいつも「同一性」を見いだす「態度」(「判断」)だ。もう一つは(い)「あまのじゃく的な態度」or「下賤なる意識」で「対象」と「自分」の間にいつも「不同性」ばかりを見いだしケチをつける「態度」(「判断」)だ。(265頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ロ「信仰」:「現実の国」の「対立」を「越え包むもの」を捉える (1)「純粋透見」・(2)「信仰」!

2024-08-18 21:08:29 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ロ「信仰」(276-278頁)
(65)「教養の世界」は一方で「現実の世界」を形づくるほかに、他方で「信仰の世界」をも含む!「現実意識」に対して、「純粋意識」がある!
★(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」としての「教養の世界」は一方で「現実の世界」(a「教養と現実の国」)を形づくるほかに、もう一つ「信仰の世界」(b「信仰と純粋透見」)をも含む。(276頁)
☆「教養の世界」である「現実の世界」は、「もろもろの対立①②③」が「疎外」によって「自分自身」から「自分とちがった、自分自身に反したもの」になるのだが、そうだとすると当然「諸対立をこえた統一」があるはずだ。この「統一」をつかむものとして、いままでの「現実意識」に対して、「純粋意識」がなくてはならない。(276-277頁)

Cf. 「教養の世界」(「現実の国」)は徹底的に「自己疎外的」だ!①《「国権」が「財富」に、「財富」が「国権」に》、②《「善」が「悪」に、「悪」が「善」に》、③《「高貴」が「下賤」に、「下賤」が「高貴」に》転換し、「疎外」する世界!(266頁)

Cf. 「4元素」のうちのひとつとしての「地」の特徴は、その他の3つの元素(「風」・「水」・「火」)の結合たるところにあるが、「風」にあたる「国権」・「高貴」・「善」と、「水」にあたる「財富」・「下賤」・「悪」とが、「火」にあたる「エスプリ」あるいは「精神」(「ガイスト」)の力によって、相互に転換し、生滅変化してやむことのない場面が「地」にあたる「現実の国」(「自己疎外的精神の世界」・「教養の世界」)だ。(276頁)
☆「この世」に生まれて誰しもが望むものは「権力」と「財富」だ。どちらを得るにも多大の犠牲を払うことを必要とするが、粒々辛苦して得てみれば、🈩《「権力」(「国権」)は「財富」、「財富」は「権力」(「国権」)》、そして🈔《「高貴」は「下賤」、「下賤」は「高貴」》、また🈪《「善」は「悪」、「悪」は「善」》だから、すべては「空の空」だ。(276頁)

(65)-2 「現実の世界」に属さない「高次」の「純粋意識」は、「もろもろの対立」(①「国権」)と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」)などを「越え包むもの」をとらえる! 
★ここでいう「純粋意識」は、「現実の世界」(or「現実意識」)における「もろもろの対立」(①「国権」)と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」)などを「越え包むもの」(or「統一」)をとらえるものとして一段と「高次」の「純粋意識」だ。(277頁)
☆今までも、「善悪を区別するもの」として「純粋意識」が考えられたが、それはまだ「国権」と「財富」に関するものとして、「現実の世界」に属するものだった。(277頁)

Cf. 「教養の世界」が①「現実意識」に映じたさいの対立は「国権」(「風」)と「財富」(「水」)の対立、すなわち「現実の世界」における「客観的な対立」だ。さらに「教養の世界」において、②「純粋意識」すなわち「主体的な内面的な思惟」もあり、これは「いつも自己同一を保つもの」(「風」)は「善」とし、「自己同一を保たず、いつも他となって変ずるもの」(「水」)は「悪」とするという意味において、「善」・「悪」の規定を行う。(262頁)

(65)-2-2 「もろもろの対立」(①②③)を「越え包むもの」をとらえる《「現実の世界」に属さない「高次」の「純粋意識」》:(1)「否定的な純粋意識」すなわち「純粋透見」と、(2)「肯定的な純粋意識」すなわち「信仰」! 
★「もろもろの対立」(①②③)などを「越え包むもの」をとらえる《「現実の世界」に属さない「高次」の「純粋意識」》には、(1)「否定的な純粋意識」と、(2)「肯定的な純粋意識」とがある。(277頁)
★ (1)「否定的な純粋意識」は、🈩「国権」を否定して「財富」とし、「財富」を否定して「国権」とし、そして🈔「高貴」を否定して「下賤」とし、「下賤」を否定して「高貴」とし、また🈪「善」を否定して「悪」とし、「悪」を否定して「善」とする。(277頁)
★これに対し、《「現実の世界」に属さない「高次」の「純粋意識」》のうち(2)「肯定的な純粋意識」は、このような「相互転換」(🈩・🈔・🈪)に媒介されて「対立」の底に彼方にある「統一的実在」を把握する。(277頁)
★《「現実の世界」に属さない「高次」の「純粋意識」》のうち(1)「否定的な純粋意識」は、純粋意識の「活動」の側面であり、「純粋透見」だ。(277頁)
☆(2)「肯定的な純粋意識」は、「ある一定の統一」を取りだすものだから、純粋意識の「内容」の側面であり、「信仰」だ。(277頁)
★こうして(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」は、a「教養と現実の国」(「現実の世界」)に続いて、b「信仰と純粋透見」という段階が設定される。(277頁)

(65)-2-3 「現実の世界」に属さない「純粋意識」は、(1)「純粋透見」(純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる!
★(「現実の世界」に属さない「高次」の)「純粋意識」は(1)「純粋透見」(「否定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(「肯定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる。(277頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)について、「教養」を通じて得られた「精神」Geistあるいは「エスプリ」は、かかる「対立」が固定したものでなく、「いつも「反対に転換する」(🈩・🈔・🈪)ことを見透かしている」から、それは(1)「純粋透見」であり、そうして「対立」を否定するものであるところからして、「自我」あるいは「主体」の働きだ。(277-278頁)
☆ヘーゲルは「自我」をもって「否定の働き」にほかならないと考える。(278頁)

★「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)が「相互に転換する」以上、「もろもろの対立」は、「対立を越え包む超越的統一」に帰する。この「超越的統一」は本来的には「概念」だ。(278頁)
☆しかしこの「超越的統一」は、ここではまだ、「もろもろの対立」(①②③)という「現実」からかけ離れた「統一」にすぎぬものとしてとらえられているから、「概念」そのものでなく、「表象」の形式におけるものだ。これが(2)「信仰の天界」を与える。(278頁)
☆これに対して(1)「透見」(「純粋透見」)は、「自我の『否定の働き』」として「地上」にとどまる。(278頁)
★かくて「教養の世界」は「現実の国」を含むとともに、(1)「透見の世界」と(2)「信仰の世界」を含む。(278頁)
Cf. こうして(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」は、a「教養と現実の国」(「現実の世界」)に続いて、b「信仰と純粋透見」という段階が設定される。(277頁)

《参考》  ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考(続)》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その10):「教養の世界」・「地上の国」はすべてが反対に転換し「空の空」だ!

2024-08-16 14:00:24 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その10)(275-276頁)      
(64)「現実の国」(「教養の世界」)は「風」・「水」・「火」・「地」の4元素からなり、「風」は「国権」、「水」は「財富」、「火」は「精神」(「ガイスト」・「エスプリ」)だ! 
★(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)a「現実の国」(「教養の世界」)は「地」・「水」・「火」・「風」の4元素からなる。(275頁)
☆すでに見たように「教養の世界」における「君主国家」において、🈩「国権」が「財富」、「財富」が「国権」、そして🈔「高貴」が「下賤」、「下賤」が「高貴」、また🈪「善」が「悪」、「悪」が「善」なので、かくてすべてがメチャクチャになる。このメチャクチャを言葉で表現したものが、「頌辞」に対する「分裂の辞」だ。「ただ『分裂』があるだけで『統一』は少しもない」のだから、確かに気狂いじみているけれども、「およそすべての『対立』は互いに他に『転換』すべきもの」だから、「分裂の辞」は同時に、「エスプリ」に、「ガイスト」に富んだものなのだ。(275頁)
☆元素「火」がこの「精神」(「ガイスト」)にあたる。(275頁)
Cf.「現実の国」では、「自己同一」を保つ「国権」が元素「風」であり、「自己とちがったもの」になる「財富」が元素「水」である。(260頁)

《参考1》((C)「理性」)(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」のところでa「教養と現実の国」とあるが、「現実の国」を構成するものは「国権」と「財富」だ。(143頁)
☆ヘーゲルは「意識」を「普遍的」と「個別的」とにわける。「普遍的」意識は「国権」に服従する。「個別的」意識は「財富」に執着する。(144頁)
☆「普遍的」意識を実現するのは「高貴なる意識」であり、「個別的」意識を実現するのは「下賤なる意識」だ。(144頁)

《参考2》(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)!a「現実の国」は、「風」のごとく「自己同一」を保つ「国権」と、「水」のごとく「自己とちがったもの」になる「財富」との2つの要素からなる!「火」にあたる「精神」Geistによって、「国権」と「財富」は相互に他に転換する!a「現実の国」は「地上の国」(要素「地」)であり、「天上」or「彼岸」として「信仰の世界」がある!(260頁) 
☆(BB)「精神」B「教養」のⅠ「自己疎外的精神の世界」はどういう構造をしているか、「自然界」したがって「実体」(※「反省」以前の全体)が「地」・「水」・「火」・「風」の4元素からなっている点から、ヘーゲルは説明する。(260頁)
☆さて「自己疎外的精神の世界」はa「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」の2つに分かれる。(260頁)
☆「自己疎外的精神の世界」a「現実の国」は、「風」のごとくいつも「自己同一」を保つ「国権」と、「水」のごとくいつも「自己とちがったもの」になる「財富」との2つをもって要素としており、これら2つの相反したもの(「国権」と「財富」)が、「火」にあたる「精神」Geistによって活気づけられ、相互に他に転換する。(260頁)
☆だから「国権」と「財富」とは、いずれも「あれどなきがごときもの」だ。a「現実の国」は「地上の国」(要素「地」)であり「空の空」だ。(260頁)
☆しかしこのことは「地上」(「地」・「水」・「火」・「風」の4元素)と別に「天上」のあることを暗示している。そこに「此岸」(「地」)に対する「彼岸」(「天」)として「信仰の世界」((BB)「精神」B「教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」b「信仰と純粋透見」)がある。(260頁)
☆そこでa「現実」の世界のほかにさらにb「信仰」の世界があり、したがってa「現実の国」において「国権」(「風」)と「財富」(「水」)とが互いに他に転換し疎外するばかりでなく、「此岸」(a「現実の国」)と「彼岸」(b「信仰」)も互いに疎外するが、この対立、すなわち「此岸」(「地」)と「彼岸」(「天」)との対立を克服しようとするのがb「純粋透見」だ。(260頁)

《参考3》ヘーゲルは、「実体」(※「反省」以前の全体)が「自然的直接的」であるという理由で、「自然界」の「地」・「水」・「火」・「風」の4元素になぞらえて「実体」の構造を説明する。(259頁)
☆「風」は、「いかなるところへも浸透」し、「どこでも自己同一性を保っている」ので、「風」の特徴は「普遍性」に、「即自存在」にある。(259頁)
☆これに対して「水」は「いかようにも形成」され、いつも「自分自身とちがった他のものになる」ので、「水」の特徴は「個別性」に、「対他存在」にある。(259頁)
☆「風」と「水」との2つが「相反する」元素であって、「相互に他に転換する」ところに「自然界」は成立する。(259頁)
☆しかし「相反したものを互いに他に転換する」には、「それぞれを活気づけるもの」が必要だが、これが「火」という元素だ。「水」を熱せれば「風」となり、風を冷やせば「水」となるというわけだ。(259頁)
☆そうして「風」・「水」・「火」の3つを結合し、それらの相互に作用する出来事の「場面」の役割を担当するのが「地」だ。(259頁)
☆かくて「自然界」したがって「実体」(※「反省」以前の全体)は「地」・「水」・「火」・「風」の四元素によってなっている。が「自然界」がなににおいて成立しているかというと、けっきょくは「地」においてというほかない。この「地」において、「風」と「水」とが「火」に媒介されて、互いに他に転換し去る。その点からすれば、いずれもあれども無きがごときものだ。「地上」のものはすべて「空の空」だ。ここに「地」に対する「天」のあることが暗示されている。(259-260頁)

(64)-2 「教養の世界」は「天上」ならぬ「地上」(「地」)の「現実的世界」、つまり「浮き世」・「憂き世」にほかならない!Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」、すなわち「教養の世界」ではすべてが反対に転換して「空の空」だが、それは「教養の世界」が「現実の国」、つまり「天上」ならぬ「地上の国」だからだ!
★「教養の世界」(「現実の国」)において元素「地」は何か?(275頁)
Cf. 「地」は「風」・「水」・「火」の3つを結合し、それらの相互に作用する出来事の「場面」の役割を担当する。(259頁)
☆「教養の世界」では🈩《「国権」が「財富」、「財富」が「国権」》、そして🈔《「高貴」が「下賤」、「下賤」が「高貴」》、また🈪《「善」が「悪」、「悪」が「善」》ということになると、すべては「空の空」だ。これは「教養の世界」が「天上」ならぬ「地上」(「地」)の「現実的世界」、つまり「浮き世」・「憂き世」にほかならぬことを意味する。(259頁)

★(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」という段階はⅠ「自己疎外的精神の世界」、Ⅱ「啓蒙」、Ⅲ「絶対自由と恐怖」とに3分され、このうちⅠ「自己疎外的精神の世界」はa「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」との2つに細分される。(275-276頁)
☆これまで述べてきたのはa「教養と現実の国」(「教養の世界」)の段階だが、「教養の世界」ではすべてが反対に転換して「空の空」という感じを抱かざるをえないのは、「教養の世界」が「現実の国」、つまり「天上」ならぬ「地上の国」だからだ。(276頁)

★「4元素」のうちのひとつとしての「地」の特徴は、その他の3つの元素(「風」・「水」・「火」)の結合たるところにあるが、「風」にあたる「国権」・「高貴」・「善」と、「水」にあたる「財富」・「下賤」・「悪」とが、「火」にあたる「エスプリ」あるいは「精神」(「ガイスト」)の力によって、相互に転換し、生滅変化してやむことのない場面が「地」にあたる「現実の国」(「自己疎外的精神の世界」・「教養の世界」)だ。(276頁)
☆「この世」に生まれて誰しもが望むものは「権力」と「財富」だ。どちらを得るにも多大の犠牲を払うことを必要とするが、粒々辛苦して得てみれば、🈩《「権力」(「国権」)は「財富」、「財富」は「権力」(「国権」)》、そして🈔《「高貴」は「下賤」、「下賤」は「高貴」》、また🈪《「善」は「悪」、「悪」は「善」》だから、すべては「空の空」だ。(276頁)

《感想1》「この世」に生まれて誰しもが望むものは「権力」と「財富」だ。どちらを得るにも多大の犠牲を払うことを必要とする、とのヘーゲルor金子武蔵氏の指摘は同感だ。
《感想2》だが粒々辛苦して得てみれば、🈩《「権力」(「国権」)は「財富」、「財富」は「権力」(「国権」)》、そして🈔《「高貴」は「下賤」、「下賤」は「高貴」》、また🈪《「善」は「悪」、「悪」は「善」》だから、すべては「空の空」だとのヘーゲルor金子武蔵氏の指摘は、同意できない。
☆🈩《「権力」(「国権」)は「財富」、「財富」は「権力」(「国権」)》に転換するからといって、「権力」と「財富」どちらでも得ることができれば、しかも両者は転換するのだから、どちらかが手に入れば両方が手に入る。「権力」and/or「財富」が手に入って、「空」ということはない。
☆🈔《「高貴」は「下賤」、「下賤」は「高貴」》はいわゆる「世間体」の問題にすぎない。上層階層(「上級国民」)(「権力」と「財富」を十分にorそれなりに得た者)であれば、「高貴」か「下賤」かを問題にするのは、「贅沢な悩み」にすぎない。「この世」は、別に「空」でない。
☆🈪《「善」は「悪」、「悪」は「善」》といっても、「この世」には多くの①敵味方の対立・いがみ合い・妬み・悪意・敵意・差別・いじめ、②内集団・仲間との協力・共感・友情、さらに③利害・競争・弱肉強食・虚栄心等々が絡み合い、そもそも何が「善」か、何が「悪」か、なかなかわからない。しかしだからといって「この世」が「空」ということではない。

《感想3》ヘーゲルは「理屈」or「論理」の人だ。そして「この世」の「対立」に目が行く。(「定立」と「反定立」!)ヘーゲルはしかし「弁証法」的な「統一」を強調するのであって、「対立」・「相互転換」は「統一」の前段階であって、「対立」・「相互転換」をもって「この世」は「空の空」だと結論付ける必要はない。

《感想4》「『この世』に生まれて誰しもが望むものは『権力』と『財富』だ」とのヘーゲルor金子武蔵氏の指摘はそのとおりだ。だが「この世」で「権力」・「財富」が手に入ったら、そのような人は、「この世」で「権力」・「財富」に無縁な人から見れば、「幸福」なはずで、「この世」を「空の空」だと結論付けるヘーゲルor金子武蔵氏の指摘は、ずいぶん「贅沢」な見解だ。
Cf. 個人的には「私」は「それなり」の「権力」・「財富」を手に入れ「幸福」になりたかった。「それなり」の「権力」・「財富」を手に入れれば、普通「この世」が「空の空」などと思わない。(ただし「死」の「根本的不安」fundamental anxietyはまた別問題だ。)

Cf.   ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その9):「国権」と「財富」、「高貴」と「下賤」、「善」と「悪」が相互転換する!

2024-08-15 12:53:04 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その9)(274-275頁)      
(63)-5 🈔「高貴」が「下賤」に転換してしまう!
★さて「教養の世界」((BB)「精神」BⅠ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」)における「君主国家」の成立とともに、🈩「国権」が現実的には「財富」に転換してしまう、つまり「国権」が「財富」であることが明らかとなった。(274頁)

★さらに「君主国家」において同様に、🈔「高貴」が「下賤」に転換してしまう、つまり「高貴」が「下賤」となる。(274頁)
☆なぜなら「貴族」(「廷臣」)たちが「国事」にはげみ、「君主」に「頌辞」を呈するのはむろん「高貴なる意識」(《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する)のしからしめるところではある。(274頁)
☆そうかといって「内面」の「個別性」・「対自(対他)存在」、わかりやすくいえば「私利私欲を求める心」がなくなっているわけでなく、したがって《「国権」と「自分」との間に「同一性」を見いだしている》(※すなわち《「国権」は「善」》と「判断」する)のでなく、むしろ《「国権」と「自分」との間に「不同性」を見いだしている》(※すなわち《「国権」は「悪」》と「判断」する)のであり、かくて「国権」を転換させて「財富」を肯定している。(274頁)
☆さればといって「公に仕えることに誇りを感じていないわけでもない」(※すなわち《「国権」は「善」》)ので、「財富」と「自分」との間にも「同一性」でなく「不同性」を見いだしている。(※すなわち《「財富」は「悪」》。)
Cf. 《「国権」は「悪」、「財富」は「悪」》と「判断」する態度は「下賤なる意識」であり、🈔「高貴」が「下賤」に転換してしまう、つまり「高貴」が「下賤」であることとなる。(274頁)

《参考1》さて最初にあげられる「判断」は(ア)《「国権」は「善」、「財富」は「悪」》だ。(264-265頁)
☆「国権」が絶えず「自己同一を保っているもの」(「善」)であるのに対し、「財富」は「『水』のごとくつねに『おのれ自身と異なるもの』になり、いかなるものによってもどのようにも使われ享受されうるものであり、我執我欲の対象」(「悪」)だ。(264頁)
《参考1-2》ところがドッコイ、「判断」は(ア)《「国権」は「善」、「財富」は「悪」》だけだとは、そう簡単にはいかない。すなわち(イ)《「国権」は「悪」、「財富」は「善」》との「判断」もある。なぜなら「主体」自身が《「即自存在」と「対他存在」》、《「普遍性」と「個別性」》という相反した両面を具えているからだ。(264頁)
☆最初は簡単に(ア)《「国権」は「善」、「財富」は「悪」》と「判断」されたが、なぜそう「判断」されたかというと主体の「即自存在」を基準とした時、これには「国権」が適合し「善」だが、「財富」は適合せず「悪」だからだ。これに対し「主体」には「対他存在」もまた具わっている。これを基準とすれば、(イ)《「国権」は「悪」、「財富」は「善」》となる。(264-265頁)

《参考2》☆「客体」に関係する「主体」の態度、即ち「判断」には2種類ある。(265頁)
☆一つは(あ)「素直な態度」or「高貴なる意識」だ。これは「客体的に即自的なもの」を「自分の即自的なもの」に照らして「善」と判断し、「対他的なもの」を「自分の対他的なもの」に照らして「善」と「判断」する態度だ。これはいつも「対象」と「自己」との「同一性」を見いだそうとする「素直な態度」だ。ヘーゲルはこれを「高貴なる意識」と呼ぶ。《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する。(265頁)
《参考2-2》しかしもう一つ(い)「あまのじゃく的な態度」or「下賤なる意識」がある。すなわち「国権」に対する時には、自分の「対他存在」を規準として、「国権」なんていうものは、「おのれの生活を束縛し幸福を制限する」ものだから「悪」だとし、そして「財富」に対しては自分の「即自存在」を規準として「そんな我執我欲の産物はゴメンだ」と「悪」と判断する。《「国権」は「悪」、「財富」は「悪」》と「判断」する態度だ。(265頁)
《参考2-3》要するに「客体」に関係する「主体」の態度、即ち「判断」には2種類ある。一つは(あ)「素直な態度」or「高貴なる意識」で、「対象」と「自分」の間にいつも「同一性」を見いだす「態度」(「判断」)だ。もう一つは(い)「あまのじゃく的な態度」or「下賤なる意識」で「対象」と「自分」の間にいつも「不同性」ばかりを見いだしケチをつける「態度」(「判断」)だ。(265頁)

(63)-6  🈪「善」が「悪」に転換してしまう!
★そうして🈪「善」の「悪」に転換することもはっきりしてきている。(274頁)
Cf. 🈔「高貴」が「下賤」に転換してしまうとは、《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する「高貴なる意識」が、《「国権」は「悪」、「財富」は「悪」》と「判断」する「下賤なる意識」に転換することだ。ここでは、🈪「善」が「悪」に転換している。(274頁)

《参考》「教養の世界」が①「現実意識」に映じたさいの対立は「国権」(「風」)と「財富」(「水」)の対立、すなわち「現実の世界」における「客観的な対立」だ。さらに「教養の世界」において、②「純粋意識」すなわち「主体的な内面的な思惟」もあり、これは「いつも自己同一を保つもの」(「風」)は「善」とし、「自己同一を保たず、いつも他となって変ずるもの」(「水」)は「悪」とするという意味において、「善」・「悪」の規定を行う。(262頁)

(63)-7 「下賤なる意識」は「歴史的」には「町人」のものだ!
★さてここまでヘーゲルは「高貴な意識」あるいは「貴族」(「廷臣」)を問題にしてきたが、🈔「高貴」が「下賤」に転換してしまうのだから、「高貴な意識」はじつは「下賤な意識」にすぎない。(274-275頁)
☆かくてヘーゲルは「下賤な意識」の方に(※『精神現象学』の展開において)移って行くが、この移り行きは、
これを「歴史的」に言えば、「近代」の「君主国家」(※「絶対王政」)のうちに次第に「市民社会」が成長し、「貴族」(「廷臣」)に対して「町人」が勃興してくるのに応ずる。(275頁)
★「下賤なる意識」とは、「国権」に対するには「自分の『個別性』」を、「財富」に対するには「自分の『普遍性』」をもって規準とし、「国権」・「財富」いずれの間にも「不同」を見いだし、いずれをも「否定」し、いずれにも「反抗」する。(275頁)Cf.「下賤なる意識」(「あまのじゃく的な態度」)は《「国権」は「悪」、「財富」は「悪」》と「判断」する。(265頁)
☆これは「歴史的」には「町人」のものだ。(275頁)
☆といっても「町人」に「高貴なる意識」(《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する)がないわけでない。(275頁)

Cf. 「下賤なる意識」(「あまのじゃく的な態度」)は《「国権」は「悪」、「財富」は「悪」》と「判断」する。「高貴なる意識」(「素直な態度」)は《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する。(265頁)

(63)-8 🈩《「国権」が「財富」、「財富」が「国権」》、🈔《「高貴」が「下賤」、「下賤」が「高貴」》、🈪《「善」が「悪」、「悪」が「善」》なので、すべてがメチャクチャになる!「分裂の辞」は同時に、「エスプリ」or「ガイスト」に富んだものだ!
★「教養の世界」((BB)「精神」BⅠ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」)における「君主国家」において、🈔「高貴」が「下賤」、「下賤」が「高貴」だとすると、🈩「国権」が「財富」、「財富」が「国権」、また🈪「善」が「悪」、「悪」が「善」なので、かくてすべてがメチャクチャになる。(275頁)
☆このメチャクチャを言葉で表現したものが、「頌辞」に対する「分裂の辞」だ。(275頁)
☆ヘーゲルは「分裂の辞」の典型的表現をディドロの『ラモウの甥』の主人公において見ている。「ただ『分裂』があるだけで『統一』は少しもない」のだから、確かに気狂いじみているけれども、「およそすべての『対立』は互いに他に『転換』すべきもの」だから、「分裂の辞」は同時に、「エスプリ」に、「ガイスト」に富んだものなのだ。(275頁)

《参考1》この「『教養』の段階」((BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」)でヘーゲルは、ディドロの『ラモウの甥』(1762執筆、1823刊行)を材料として使うが、ゲーテ(1749-1832)は『ラモウの甥』が偉大なる傑作であることを看破して、1805年に独訳したが、それをいち早く受け入れたのがヘーゲル(1770-1831)だった。(267頁)
☆この作品の主人公〈作曲家ラモーの甥〉は「権力者」をも「金持ち」をもいずれをも「憎みのろい」ながら、またいずれにも「阿諛(アユ)」を呈するのだが、つまりヘーゲルに言わせれば、①《「国権」は「財富」、「財富」は「国権」》、②《「善」は「悪」、「悪」は「善」》、③《「高貴」は「下賤」、「下賤」は「高貴」》という態度をとるのだが、この「一見錯乱した狂人めいた態度」も決して軽蔑すべきではなく、むしろ「エスプリ」esprit(「ガイスト」Geist)に富んだものであるとヘーゲルは考えて、積極的意義を認めている。(267頁)
☆つまり「人間精神」の発展上、重要な一つの段階である「疎外」を表現したものという見地から、ヘーゲルはこのディドロの作品『ラモウの甥』を活用している。(267-268頁)

《参考2》「分裂」(「教養の世界」の「自己疎外」①②③)を通じて「絶対に対立するもの」が「一つになる」ところにこそ、ヘーゲル独自の「ガイスト」Geist が躍動してくる。(266頁)
☆「ガイスト」Geistは、フランス語の「エスプリ」espritに近いものだ。(266頁)
☆「エスプリ」espritとは、「ちょっと普通では関係のつかないような二つのもの」の間に「奇想天外な関係」を見つけるような能力のことだ。だから「エスプリ」に富んでいるのは、「気がきいている」ことであって、悪くすると「駄じゃれを弄する」ことにもなる。(266-267頁)
☆ヘーゲルは「エスプリ」espritの「よい点」を生かし、かくて「自己疎外」(①②③)こそが、人間に「エスプリ」espritすなわち「ガイスト」Geistを養い、「教養」を与えると言う。(267頁)

Cf. 「教養の世界」は徹底的に「自己疎外的」だ!①《「国権」が「財富」に、「財富」が「国権」に》、②《「善」が「悪」に、「悪」が「善」に》、③《「高貴」が「下賤」に、「下賤」が「高貴」に》転換し、「疎外」する世界!(266頁)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする