※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)「江戸時代」の章(213-327頁)
(69)百田氏の誤り:①17世紀後半の「代表越訴型」一揆のみが江戸時代の一揆でない!②一揆は「交渉」のような穏便なものでない!(253-258頁)
X 百田尚樹『日本国紀』は、「江戸時代の一揆は、農民が集団で、あるいは代表を立てて、領主や代官と交渉するという形がほとんどである」(百田200頁)と述べるが、「ほとんど」でない。
X-2 百田氏が示した一揆は(イ)「代表越訴型」で17世紀後半の一揆だ。
X-3 江戸時代は260年間ある。一揆は4類型が区別できる。(ア)17世紀前半は、中世的な「土一揆」型だ。武力蜂起や逃散(チョウサン)だった。(イ)17世紀後半が「代表越訴型」だ。なお百田氏はこれを「交渉」と呼ぶが、首謀者は厳しく取り締まられ、普通「磔(ハリツケ)」だった。(ウ)17世紀末からは「惣百姓(ソウビャクショウ)一揆」だ。これも「交渉」のような穏便なものでない。これは、『山川日本史小辞典』によれば、徒党という多数の威力を背景に打ちこわしをともなう強訴、さらに全藩的規模での大規模な一揆、時に藩領をこえた広域闘争だった。(エ)最終段階は、開国に伴う国内の混乱・物価騰貴による「世直し一揆」だ。国学の尊王思想を背景に(口実として)「世直し」が叫ばれた。
(69)百田氏の誤り:①17世紀後半の「代表越訴型」一揆のみが江戸時代の一揆でない!②一揆は「交渉」のような穏便なものでない!(253-258頁)
X 百田尚樹『日本国紀』は、「江戸時代の一揆は、農民が集団で、あるいは代表を立てて、領主や代官と交渉するという形がほとんどである」(百田200頁)と述べるが、「ほとんど」でない。
X-2 百田氏が示した一揆は(イ)「代表越訴型」で17世紀後半の一揆だ。
X-3 江戸時代は260年間ある。一揆は4類型が区別できる。(ア)17世紀前半は、中世的な「土一揆」型だ。武力蜂起や逃散(チョウサン)だった。(イ)17世紀後半が「代表越訴型」だ。なお百田氏はこれを「交渉」と呼ぶが、首謀者は厳しく取り締まられ、普通「磔(ハリツケ)」だった。(ウ)17世紀末からは「惣百姓(ソウビャクショウ)一揆」だ。これも「交渉」のような穏便なものでない。これは、『山川日本史小辞典』によれば、徒党という多数の威力を背景に打ちこわしをともなう強訴、さらに全藩的規模での大規模な一揆、時に藩領をこえた広域闘争だった。(エ)最終段階は、開国に伴う国内の混乱・物価騰貴による「世直し一揆」だ。国学の尊王思想を背景に(口実として)「世直し」が叫ばれた。