宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

浮世博史『もう一つ上の日本史』:(72) 吉宗の緊縮財政、宗春の積極財政ゆえに、「吉宗の宗春に対する憎悪は凄(スサ)まじいものがあった」との百田氏の見解は根拠薄弱&誤りだ!

2020-11-25 14:11:24 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)「江戸時代」の章(213-327頁)

(72)「吉宗の宗春に対する憎悪は凄(スサ)まじいものがあった」との百田氏の見解は根拠薄弱=誤りだ!「尾張藩内の政争」つまり「藩主押込」(オシコメ)だ!(浮世264-270頁)
C 百田尚樹『日本国紀』は、「吉宗の宗春に対する憎悪は凄(スサ)まじいものがあった。宗春を強引に隠居させ、名古屋城の三の丸に蟄居を命じ、死ぬまでその屋敷から出ることを禁じたばかりか(父母の墓参りさえ許さなかった)、死後も墓に金網をかけたほどだ」(百田204頁)と述べるが、「凄まじい」とする根拠が薄弱&誤りだ。(浮世264頁)
C-2 吉宗の緊縮財政・デフレ政策・規制強化、宗春の積極財政・インフレ政策・規制緩和を対比させるのは「経営者や金融アナリスト」たちで、一面正しい指摘もあるが、歴史の事実とかけ離れてしまう。(浮世265頁)
C-3 宗春の隠居・蟄居は、(ア)「尾張藩内の政争」つまり「藩主押込」(オシコメ)の側面、(イ)「老中松平乗邑(ノリサト)との関係」、(ウ)「幕府と朝廷の対立」によるもので、「単に宗春が吉宗の享保の改革に逆らったため、という考え方は希薄になっている。」(浮世264, 266-270頁)
C-3-2 尾張家藩主・徳川宗春は吉宗と政策上の対立を起こし隠居させられたのでない。(ア)徳川宗春は尾張藩主として大変な浪費家で藩財政を極度に悪化させ、家臣たちの一部が「押込(オシコメ)」を望んだ。(イ)朝廷(北朝系)が、緊密な縁戚関係にあった徳川宗春に、水戸光圀『大日本史』(南朝系を擁護)の回収を依頼。家臣の一部は尾張藩が幕府から危険視されることを懸念し、「押込(オシコメ)」を望んだ。(ウ)尾張藩内は宗春派と反宗春派(武腰派)に割れており、反宗春派はコネで老中松平乗邑(ノリサト)に働きかけ、財政破綻・朝廷問題から反宗春派(武腰派)家老たちがクーデターを起こす。吉宗が奥に籠り不在の1739年、松平乗邑が尾張藩に「宗春蟄居・謹慎」を吉宗の命として申し渡した。

(72)-2 「宗春蟄居・謹慎」は吉宗にとって「やむをえない措置」にすぎなかった!(浮世264-265頁)
C-5 「吉宗の宗春に対する憎悪は凄(スサ)まじいものがあった」との百田氏の見解は当てはまらない。「宗春蟄居・謹慎」は吉宗にとって「やむをえない措置」だった。例えば、(a)吉宗は徳川宗春をもともとお気に入りの譜代衆として遇していた。(b) 吉宗は宗春に自分の名前の「宗」を贈っているが、蟄居・謹慎後も没収していない。(c) 蟄居・謹慎後も、宗春に使いを送り(気色伺い)、吉宗は宗春の生活の様子を心配している。(d)宗春は蟄居・謹慎後も「尾張前黄門(サキノコウモン)」(※黄門は中納言のこと)の名乗りが許されたままだ。(e) 宗春が「閉じ込められた」とされる名古屋城三の丸は六代藩主の実母の邸で広く、宗春は陶器を焼いたり吉宗から拝領した朝鮮人参を栽培したり悠々自適の御隠居状態だった。

(72)-3 百田氏の誤り(f)「屋敷から出ることを禁じた」、(g)「父母の墓参りさえ許さなかった」、(h)「死後も墓に金網をかけた」!(浮世265頁)
C-6  (f)「(宗春が)死ぬまでその屋敷(※名古屋城三の丸)から出ることを(吉宗が)禁じた」との百田氏の叙述は誤りで、宗春は後に前藩主専用の7万坪の御隠居屋敷に移っている。(側室二人も一緒に生活。)(g)百田氏は、吉宗が宗春に「父母の墓参りさえ許さなかった」と述べるが、これも誤り。宗春は蟄居・謹慎後、菩提寺に参詣し「市中の人々が提灯を軒先に並べ参拝を迎えた」という記録がある。(h)吉宗が「(宗春の)死後も墓に金網をかけた」と百田氏が述べるが、これもウソだ。Cf. 「江戸の小塚原で罪人の墓に金網をかける」ことはあったが「御三家の御隠居の墓に金網をかける」などない。(浮世265頁)

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『伊勢物語』(Cf. 在原業平825-880)「第23段 筒井筒(ツツイヅツ)」(その3):上流貴族の男には、上流貴族の妻=「もとの女」の生活様式・エチケットこそしっくりする!

2020-11-25 10:42:09 | Weblog
男は、河内の「高安の女」のもとにしばらく行かなかったが、ある時、男は、ごくまれのことに(「まれまれ」)高安に行った。ところが女は男に気を許し(「うちとけて」)、きちんと装いし化粧することもなく、また(侍女に給仕させず)自分で杓子をとって笥子(ケコ、飯を盛る器)に飯を盛ったので、男は嫌になって、また行かなくなってしまった。
《感想1》男は上流貴族。女は中流貴族。男には、女の「うちとけ」た態度が下品に思われ、すっかり嫌になって(「心憂がりて」)しまった。

河内の「高安の女」は男が来ないので、男が住む大和の方を見て歌った。

「君があたり見つつ居(ヲ)らむ生駒山(イコマヤマ)雲なかくしそ雨はふるとも」I wait for you seeing Mt. Ikoma beyond which you live. A cloud shouldn’t hide Mt. Ikoma even when it rains.(あなたがいらっしゃる大和の方を見てお待ちしていましょう。大和との境の生駒山を、雲よ、隠さないでほしい。雨が降るとしても。)
《感想2》「高安の女」は、「男」を愛している。だが上流貴族と中流貴族では生活様式・エチケットなどが違う。中流貴族の女は、上流貴族の男に嫌われてしまった。
《感想2-2》男は、そもそも「女」の財産目当てだった。だが上流と中流の違いで、やはり男は女が気に入らない。《自分勝手》な男だ!。

「高安の女」がこうして歌を詠み贈ると、ようやく男から「行きます」(「来む」)と返事があった。女は喜び、男を待ったが、男は「行きます」と度々言うばかりで、来ない。女が歌を贈った。

「君来むといひし夜ごとに過ぎぬれば頼まぬものの恋ひつつぞ経(フ)る」May times, you said you would come to me, but in vain every night. Now I don’t hope you will come to me, but I continue to love you. (あなたが「来る」と言ったその夜ごとにお待ちしましたが、いつも空しく過ぎてしまいました。今はあてにしないものの、恋しい思いで、月日を過ごしています。)

だが男はついに通うことがなかった。

《感想3》男は女泣かせの色男だ。「もとの女」を泣かせ、「高安の女」も泣かせた。
《感想3-2》「もとの女」(妻)は上流貴族だ。男が「高安の女」のもとに出かけてしまった時も、妻は、念入りに化粧して(「いとよう化粧(ケサウ)じて」)、歌を詠んだ。上流貴族の男には、上流貴族の妻の生活様式・エチケットこそしっくりするのだろう。

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