宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『伊勢物語』(Cf. 在原業平825-880)「第23段 筒井筒(ツツイヅツ)」(その1):幼馴染の男と女、二人は互いを深く愛していた!男のプロポーズを女が承諾した!幼い頃からの恋の成就!

2020-11-21 23:15:36 | Weblog
昔、田舎暮らしの境遇の人達がいて、彼らの男の子と女の子が、井戸の側でよく遊んだ。しかし二人とも成長し恥ずかしがる年頃になり遊ばなくなった。だが男はこの女を妻にしたいと思っていた。また女もこの男を夫にしたいと思い、親が他の男と結婚させようとしても承知しなかった。やがてこの男のもとから歌が届いた。

「筒井つの井筒(ヰヅツ)にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹(イモ)見ざるまに」A well was round. I was as tall as the well-frame. Time has passed since then. Now, I want to marry you.(丸い井戸の井筒と較べるくらいだった私の背丈も、それよりずっと高くなってしまったようです。愛するあなたと会わずにいたうちに。)

《感想1》幼馴染の男と女。井筒の高さと比べたほど小さい頃から一緒に遊んだ。しかし思春期となり遊ばなくなった。しかし二人は互いを深く愛していた。1000年以上前も、思慕する心、恋心は今と変わらない。
《感想2》ともに成人する頃、男からの手紙(歌)が、女のもとに来た。男からのプロポーズだ。

女が返しの歌を贈る。

「くらべこしふりわけ髪も肩すぎぬ君ならずしてたれかあぐべき」My hair was as short as you because I was young. Now, my hair becomes long and comes under my shoulder. I want to marry you. (昔あなたの髪とどちらが長いかと比べた私の振り分け髪も、肩を過ぎるほどに伸びました。あなた以外の誰のために、髪上げをしましょうか。)

《感想3》「子どもの振り分け髪の時代は過ぎました。あなたのためにだけ私は髪上げし(成人し)、あなたと結婚します」と女がプロポーズを承諾した。幼い頃からの恋の成就だ。

このように男と女は歌を詠みかわし続け、ついに二人の幼いころからの思いのとおり結婚した。
《感想4》ハッピーエンドだ。男にとって「恋女房」!女にとっての「愛する旦那」!

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児島洋「モナド論と他者問題」:閉じられたモナドに対して、他者の志向性は超越から内在への貫入として現出する!これが『まなざし』という現象だ!

2020-11-21 17:53:33 | Weblog
※新田義弘・宇野昌人編『他者の現象学:哲学と精神医学からのアプローチ』北斗出版、1982年所収

モナドは、「存在論的な閉鎖性」を持つ、すなわち「自己完結的な閉鎖性」を持つと、児島氏は言う。(314頁)そして「この閉じられたモナドに対して、他者の志向性は・・・・このモナドの閉鎖性を突き破るとものとして、超越から内在への貫入として現出する。これが即ち、『まなざし』という現象である。」(320-321頁) 

《感想1》評者の考えでは、他我の超越から内在への「貫入」が、「まなざし」(視覚という出来事)ではありえない。他我の超越から内在への「貫入」は《物の出現》という出来事(触覚という出来事)においてのみ可能だ。
《感想2》《物の出現》とは《相互に他なる出来事の出現》《相互に他なる物の出現》だ。
《感想2-2》相互に他なる《身体と物》が(接触において=触覚的に)同時に成立するその場面で、《他なる物》が超越から内在への「貫入」を引き起こすとき、その《他なる物》が《他身体》となる。
《感想3》《相互に他なる物》の一方のみが、《感情・欲望・意図》(これらが《自発性》=《「自我」or「自」》と言われる)に応じるがゆえに、この一方の身体が《自身体》となる。

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新田義弘「自己性と他者性――視点のアポリアをめぐって」:フッサールは、等根源的な他者との差異性を含む共同経験を『相あらがう統一』とよび、これをモナドの交通の仕方とした!

2020-11-21 17:28:02 | Weblog
※新田義弘・宇野昌人編『他者の現象学:哲学と精神医学からのアプローチ』北斗出版、1982年所収

(1)「意識一般」or「精神」!
「『意識一般』や『精神』などの概念においては、個別的主観相互の根源的区別性が・・・・止揚(※廃棄)されている。」(13頁)
(2)デカルト的物心二元論の枠組!
「視点は、《視像としての世界》のなかに自らを位置づけることを拒む」:「視点の脱世界化」・「世界喪失性」・「主観主義的観念論」の方向。(15-16頁)
「視像は、視点を余計なものとして排除し、自立化する」:「世界の脱視点化」・「世界への結合性」・「客観主義的実在論」の方向。(15-16頁)
(3)「現出論」のパースペクティヴ性と「目的論」の脱パースペクティヴ性!
フッサールは「志向された意味を充実する直観の働き」を「明証」と呼ぶ。(21頁)
「対象が現にそこに在る」という「対象の本源的意識」が「原明証」である。(21頁)
「対象の存在」と「意味」とが完全に一致している状態、言い換えれば、「対象が余すところなく規定しつくされて知に取り込まれている場合」の明証が「十全明証」である。(21頁)
認識は「パースペクティヴ的現出」から「究極目標」へ向けて無限に接近してゆく。(21頁)
「現出論」のパースペクティヴ性と「目的論」の脱パースペクティヴ性。(21頁)
(4)「客観的世界」!
「客観的世界」とは「誰にとっても(für jedermann)」妥当する対象世界だ。(22頁)
(5)「世界の地盤的所与」の仕方①「原秩序」②「現連合」!
「世界の地盤的所与」の仕方①「原秩序」Urordnungの機能:「時間的継起や空間的共在」という「原秩序」によって知覚野における感性的与件(※ヒュレー)を構造化する。(22頁)
「世界の地盤的所与」の仕方②「現連合」Urassoziationの機能:ヒュレー自身が相互に融化や対照化を引き起こし意味として自らを構造化、そして自我への触発を促す。(22頁)
(6)「相あらがう統一」!
「フッサールは、他者(等根源的な他者)との差異性をうちに含む共同経験を『相あらがう統一』Widerstreitseinheitとよび、これをモナドの交通の仕方とみている。」(26-27頁)

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浮世博史『もう一つ上の日本史』(66) 江戸時代、市井の人々が「暢気な優しさ」をそなえていたと百田氏は言う!だが評者の考えでは、百田氏は江戸時代の人間をバカにしている!

2020-11-21 12:18:57 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)「江戸時代」の章(213-327頁)

(66)江戸時代、市井の人々が「暢気な優しさ」をそなえていたと百田氏は言う!(243-245頁)
U 「驚くのは、江戸時代の治安の良さだ。強盗や山賊はほとんどおらず・・・・市井の人々がいかに暢気な優しさをそなえていたかである。」(百田191-192頁)
《感想1》百田氏は、江戸時代を「天国」のように描く。だが百田氏自身が、自分と考えが違う者に示す敵意・悪意・攻撃性を見れば、人間とは敵意・悪意・攻撃性を持つのが一般的だとわかる。人間が「暢気な優しさ」のみに満ちていると考えるとしたら、それは江戸時代の人間をバカにしている!

U-2 浮世氏は「与力の付け届け三千両」と言う言葉を紹介する。例えば長屋の一人が奉行所にしょっ引かれれば、大家、隣近所が取り調べをうけ、「連座」も免れない。こんな面倒なことは避けねばならない。だから有力な寺社、大名・旗本も、町奉行所の与力や同心に、自分たちの身内や藩士が犯したor犯すであろう罪のもみ消しに「付け届け」を行っていた。当時、与力や同心は、茶屋や料亭で豪遊していた。時代劇に出てくるような貧乏な与力や同心はいない。
《感想2》封建社会は武士身分の傲慢・凶暴・暴力・経済的収奪が中心の社会であり、「公正さ」と何の関係もない。市井の人々は、一方で卑屈にへつらいつつ、また他方で虎の威を借り、狡猾に自分を守らなければ生きていけない。百田氏のいうような「暢気な優しさ」などでは生きていけない。(※百田氏は、江戸時代の人間をバカにしている。彼らはドストエフスキーが理想化した『白痴』ではない。)

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