※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
「追記」(その1)(315-316頁)
(86)「ヘーゲル以後の哲学」である「リアリズム」には「2つの方向」がある:①「ポジティヴィズム」と②「ネガティヴィズム」!
★ヘーゲルの「観念論」に対抗する「ヘーゲル以後の哲学」である「リアリズム」には、「2つの方向」がある。すなわち①「ポジティヴィズム」(フォイエルバッハ―マルクスの系統)と②「ネガティヴィズム」(キェルケゴールに始まる「実存主義」の系統)だ。(金子武蔵氏)(314頁)
★「フォイエルバッハ―マルクスの系統」はヘーゲルの「絶対者は主体」という根本のテーゼを承認した上で、ただヘーゲル(「観念論」)とちがって、それを現実のうちに現実的に実現しようとする。(「リアリズム」①「ポジティヴィズム」の方向!)(315頁)
(86)-2 フォイエルバッハは、「ヘーゲル哲学」を、あるいはこれに代表される「哲学」一般を「人間学」に解消しようとした!ヘーゲルに反対するフォイエルバッハにおいても、「哲学」を「人間学」に解消するという主張を支え導いたものは、ヘーゲルだった!
★ヘーゲル(1770-1831)には「神を人間の位置にまでひきずりおろす」あるいは「人間を神の座にまでのしあげる」かに見えて、「そうでもない」という曖昧な点があった。(315頁)
☆フォイエルバッハ(1804-1872)はまさにこの点をついて、「ヘーゲル哲学」は「まだ神学の束縛をまぬがれぬものである」と難じた。そして「神がおのれの姿にかたどって人間を創造した」のではなく、逆に「人間がおのれの姿になぞらえて、即ちおのれのかくありたいという理想像として神を創造した」との立場にたつ。(315頁)
☆かくてフォイエルバッハは、「ヘーゲル哲学」を、あるいはこれに代表される「哲学」一般を、「人間学」に解消しようとした。(315頁)
☆フォイエルバッハは、「クリスト教」をもって「全人を肯定するもの」と解した。(315頁)
★ヘーゲルに反対するフォイエルバッハにおいても、このような主張を、即ち「哲学」を「人間学」に解消するという主張を支え導いたものは、実はヘーゲルだった。(315-316頁)
☆ヘーゲルは『精神現象学』の「啓蒙」の段階において、「『純粋透見』が『自己意識』の権利によって『信仰』の内容をスッカリ自分のうちに取り入れてしまう」と論じた。ヘーゲルのこの論が、フォイエルバッハの主張を支え導いた。(316頁)
★このようにフォイエルバッハは、一面においてヘーゲルに反対しながら、他面ヘーゲルに支えられて、「哲学」(「ヘーゲル哲学」)を「人間学」に解消しようとする。(316頁)
《参考》「現実の世界」に属さない「純粋意識」は、(1)「純粋透見」(純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる!(277-278頁)
☆(「現実の世界」に属さない「高次」の)「純粋意識」は(1)「純粋透見」(「否定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(「肯定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる。(277頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)について、「教養」を通じて得られた「精神」Geistあるいは「エスプリ」は、かかる「対立」が固定したものでなく、「いつも「反対に転換する」ことを見透かしている」から、それは(1)「純粋透見」であり、そうして「対立」を否定するものであるところからして、「自我」あるいは「主体」の働きだ。(277-278頁)
☆ヘーゲルは「自我」をもって「否定の働き」にほかならないと考える。(278頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)が「相互に転換する」以上、「もろもろの対立」は、「対立を越え包む超越的統一」に帰する。この「超越的統一」は本来的には「概念」だ。(278頁)
☆しかしこの「超越的統一」は、ここではまだ、「もろもろの対立」(①②③)という「現実」からかけ離れた「統一」にすぎぬものとしてとらえられているから、「概念」そのものでなく、「表象」の形式におけるものだ。これが(2)「信仰の天界」を与える。(278頁)
☆これに対して(1)「透見」(「純粋透見」)は、「自我の『否定の働き』」として「地上」にとどまる。(278頁)
☆かくて「教養の世界」は「現実の国」を含むとともに、(1)「透見の世界」と(2)「信仰の世界」を含む。(278頁)
☆こうして(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」は、a「教養と現実の国」(「現実の世界」)に続いて、b「信仰と純粋透見」という段階が設定される。(277頁)
★さてフォイエルバッハの「人間学」は「孤独なる自我」に関するものでなく、「『類』としての『共同存在』としての人間」に関するものだった。(316頁)
☆ただしこれとても、ヘーゲル『精神現象学』が、「宗教」をもって、「現実的精神」即ち「時代精神」の産物と見たことに導かれたものだ。(316頁)
☆ただフォイエルバッハの「人間学」においては、「ガイスト」(ヘーゲル)から「類」(フォイエルバッハ)へと、一層「現実的」になっている。(316頁)
《参考》「現実的精神」即ち「時代精神」の産物としての「宗教」(ヘーゲル)!
☆「宗教」と「現実的精神」wirklicher Geist が「無関係でない」ことについて、ヘーゲルは次のような例を示す。(228頁)
☆例(1)ギリシャにおいて「神像が人像として刻まれる」ようになった((CC)「宗教」B「芸術宗教」が成立した)のは、彼らが(ア)「自然に対して独立的――まだ十分ではないが――となった」ばかりでなく、(イ)「政治的にデモクラシーのもとにおいて自由人となった」という「ポリスの状態」を反映したものだ。(228頁)
☆例(2)ギリシャの「芸術宗教」においては、「宗教」と「芸術」の区別はないから、「悲劇」もまた「宗教」であるが、これ(「悲劇」)とても「ポリスにおける『家族のおきて』と『国家のおきて』との葛藤・相克、ないし調和」を表現したものにほかならない。(228頁)
☆例(3)((CC)「宗教」C「啓示宗教」の)「原始クリスト教」の誕生には、((BB)「精神」」A「真実なる精神、人倫」の)c「法的状態」のもとにおける「時代精神」の両面であるところの「不幸なる意識」と「幸福なる喜劇の意識」との関係が地盤をなしており、「原始クリスト教」はこのような「時代精神」(「現実的精神」)の産物にほかならない。(228頁)
☆例(4)そうして「クリスト教」の完成と解消には、「現実面」(※「現実的精神」)において((BB)「精神」C「道徳性」の)c「良心」的自己の立場の顕現することが必要だ。(228頁)
☆とにかく以上のようにヘーゲルは「宗教」と「現実精神」wirklicher Geist との関係を高調しているが、これは今日「宗教社会学」と呼ばれているもののイデーをすでにヘーゲルが抱いていたことを証明している。(228頁)
★むろん「認識論」においてフォイエルバッハは、ヘーゲルの『精神現象学』では「最低の段階」であった「感覚的確信」を「最高のもの」とし、これに応じて「直観」や「身体性」を尊んだ。(316頁)
☆しかしヘーゲルにおいても「感覚的確信」は「最低のもの」たるにとどまるのではなく、それを同時に「最高最深のもの」とする考えもあった。(316頁)
《参考》「最高最深のもの」としての「感覚的確信」(ヘーゲル)!
☆「個別的主体」の存在は、「受肉 incarnation 」の教義を強調するヘーゲルにおいて相当強く認められ主張されている。ヘーゲルは決して「個別者」を全然否定しているのではない。(95頁)
☆「感覚的確信」の考えというものは、じつはその裏には「キリスト教の受肉の教義」をもっている。「『この人間』も単なる人間でなく、神が肉を受けてなったもので、『絶対的な実在性』をもっているものだ」という「受肉の教義」と関係があることだが、かかるこの「個別者」はヘーゲルも認めている。(96頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」
Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
「追記」(その1)(315-316頁)
(86)「ヘーゲル以後の哲学」である「リアリズム」には「2つの方向」がある:①「ポジティヴィズム」と②「ネガティヴィズム」!
★ヘーゲルの「観念論」に対抗する「ヘーゲル以後の哲学」である「リアリズム」には、「2つの方向」がある。すなわち①「ポジティヴィズム」(フォイエルバッハ―マルクスの系統)と②「ネガティヴィズム」(キェルケゴールに始まる「実存主義」の系統)だ。(金子武蔵氏)(314頁)
★「フォイエルバッハ―マルクスの系統」はヘーゲルの「絶対者は主体」という根本のテーゼを承認した上で、ただヘーゲル(「観念論」)とちがって、それを現実のうちに現実的に実現しようとする。(「リアリズム」①「ポジティヴィズム」の方向!)(315頁)
(86)-2 フォイエルバッハは、「ヘーゲル哲学」を、あるいはこれに代表される「哲学」一般を「人間学」に解消しようとした!ヘーゲルに反対するフォイエルバッハにおいても、「哲学」を「人間学」に解消するという主張を支え導いたものは、ヘーゲルだった!
★ヘーゲル(1770-1831)には「神を人間の位置にまでひきずりおろす」あるいは「人間を神の座にまでのしあげる」かに見えて、「そうでもない」という曖昧な点があった。(315頁)
☆フォイエルバッハ(1804-1872)はまさにこの点をついて、「ヘーゲル哲学」は「まだ神学の束縛をまぬがれぬものである」と難じた。そして「神がおのれの姿にかたどって人間を創造した」のではなく、逆に「人間がおのれの姿になぞらえて、即ちおのれのかくありたいという理想像として神を創造した」との立場にたつ。(315頁)
☆かくてフォイエルバッハは、「ヘーゲル哲学」を、あるいはこれに代表される「哲学」一般を、「人間学」に解消しようとした。(315頁)
☆フォイエルバッハは、「クリスト教」をもって「全人を肯定するもの」と解した。(315頁)
★ヘーゲルに反対するフォイエルバッハにおいても、このような主張を、即ち「哲学」を「人間学」に解消するという主張を支え導いたものは、実はヘーゲルだった。(315-316頁)
☆ヘーゲルは『精神現象学』の「啓蒙」の段階において、「『純粋透見』が『自己意識』の権利によって『信仰』の内容をスッカリ自分のうちに取り入れてしまう」と論じた。ヘーゲルのこの論が、フォイエルバッハの主張を支え導いた。(316頁)
★このようにフォイエルバッハは、一面においてヘーゲルに反対しながら、他面ヘーゲルに支えられて、「哲学」(「ヘーゲル哲学」)を「人間学」に解消しようとする。(316頁)
《参考》「現実の世界」に属さない「純粋意識」は、(1)「純粋透見」(純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる!(277-278頁)
☆(「現実の世界」に属さない「高次」の)「純粋意識」は(1)「純粋透見」(「否定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(「肯定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる。(277頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)について、「教養」を通じて得られた「精神」Geistあるいは「エスプリ」は、かかる「対立」が固定したものでなく、「いつも「反対に転換する」ことを見透かしている」から、それは(1)「純粋透見」であり、そうして「対立」を否定するものであるところからして、「自我」あるいは「主体」の働きだ。(277-278頁)
☆ヘーゲルは「自我」をもって「否定の働き」にほかならないと考える。(278頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)が「相互に転換する」以上、「もろもろの対立」は、「対立を越え包む超越的統一」に帰する。この「超越的統一」は本来的には「概念」だ。(278頁)
☆しかしこの「超越的統一」は、ここではまだ、「もろもろの対立」(①②③)という「現実」からかけ離れた「統一」にすぎぬものとしてとらえられているから、「概念」そのものでなく、「表象」の形式におけるものだ。これが(2)「信仰の天界」を与える。(278頁)
☆これに対して(1)「透見」(「純粋透見」)は、「自我の『否定の働き』」として「地上」にとどまる。(278頁)
☆かくて「教養の世界」は「現実の国」を含むとともに、(1)「透見の世界」と(2)「信仰の世界」を含む。(278頁)
☆こうして(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」は、a「教養と現実の国」(「現実の世界」)に続いて、b「信仰と純粋透見」という段階が設定される。(277頁)
★さてフォイエルバッハの「人間学」は「孤独なる自我」に関するものでなく、「『類』としての『共同存在』としての人間」に関するものだった。(316頁)
☆ただしこれとても、ヘーゲル『精神現象学』が、「宗教」をもって、「現実的精神」即ち「時代精神」の産物と見たことに導かれたものだ。(316頁)
☆ただフォイエルバッハの「人間学」においては、「ガイスト」(ヘーゲル)から「類」(フォイエルバッハ)へと、一層「現実的」になっている。(316頁)
《参考》「現実的精神」即ち「時代精神」の産物としての「宗教」(ヘーゲル)!
☆「宗教」と「現実的精神」wirklicher Geist が「無関係でない」ことについて、ヘーゲルは次のような例を示す。(228頁)
☆例(1)ギリシャにおいて「神像が人像として刻まれる」ようになった((CC)「宗教」B「芸術宗教」が成立した)のは、彼らが(ア)「自然に対して独立的――まだ十分ではないが――となった」ばかりでなく、(イ)「政治的にデモクラシーのもとにおいて自由人となった」という「ポリスの状態」を反映したものだ。(228頁)
☆例(2)ギリシャの「芸術宗教」においては、「宗教」と「芸術」の区別はないから、「悲劇」もまた「宗教」であるが、これ(「悲劇」)とても「ポリスにおける『家族のおきて』と『国家のおきて』との葛藤・相克、ないし調和」を表現したものにほかならない。(228頁)
☆例(3)((CC)「宗教」C「啓示宗教」の)「原始クリスト教」の誕生には、((BB)「精神」」A「真実なる精神、人倫」の)c「法的状態」のもとにおける「時代精神」の両面であるところの「不幸なる意識」と「幸福なる喜劇の意識」との関係が地盤をなしており、「原始クリスト教」はこのような「時代精神」(「現実的精神」)の産物にほかならない。(228頁)
☆例(4)そうして「クリスト教」の完成と解消には、「現実面」(※「現実的精神」)において((BB)「精神」C「道徳性」の)c「良心」的自己の立場の顕現することが必要だ。(228頁)
☆とにかく以上のようにヘーゲルは「宗教」と「現実精神」wirklicher Geist との関係を高調しているが、これは今日「宗教社会学」と呼ばれているもののイデーをすでにヘーゲルが抱いていたことを証明している。(228頁)
★むろん「認識論」においてフォイエルバッハは、ヘーゲルの『精神現象学』では「最低の段階」であった「感覚的確信」を「最高のもの」とし、これに応じて「直観」や「身体性」を尊んだ。(316頁)
☆しかしヘーゲルにおいても「感覚的確信」は「最低のもの」たるにとどまるのではなく、それを同時に「最高最深のもの」とする考えもあった。(316頁)
《参考》「最高最深のもの」としての「感覚的確信」(ヘーゲル)!
☆「個別的主体」の存在は、「受肉 incarnation 」の教義を強調するヘーゲルにおいて相当強く認められ主張されている。ヘーゲルは決して「個別者」を全然否定しているのではない。(95頁)
☆「感覚的確信」の考えというものは、じつはその裏には「キリスト教の受肉の教義」をもっている。「『この人間』も単なる人間でなく、神が肉を受けてなったもので、『絶対的な実在性』をもっているものだ」という「受肉の教義」と関係があることだが、かかるこの「個別者」はヘーゲルも認めている。(96頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」
Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」