宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』「追記」(その1):フォイエルバッハは、「ヘーゲル哲学」を、あるいはこれに代表される「哲学」一般を「人間学」に解消しようとした!

2024-09-23 15:12:03 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
「追記」(その1)(315-316頁)
(86)「ヘーゲル以後の哲学」である「リアリズム」には「2つの方向」がある:①「ポジティヴィズム」と②「ネガティヴィズム」!
★ヘーゲルの「観念論」に対抗する「ヘーゲル以後の哲学」である「リアリズム」には、「2つの方向」がある。すなわち①「ポジティヴィズム」(フォイエルバッハ―マルクスの系統)と②「ネガティヴィズム」(キェルケゴールに始まる「実存主義」の系統)だ。(金子武蔵氏)(314頁)
★「フォイエルバッハ―マルクスの系統」はヘーゲルの「絶対者は主体」という根本のテーゼを承認した上で、ただヘーゲル(「観念論」)とちがって、それを現実のうちに現実的に実現しようとする。(「リアリズム」①「ポジティヴィズム」の方向!)(315頁)

(86)-2 フォイエルバッハは、「ヘーゲル哲学」を、あるいはこれに代表される「哲学」一般を「人間学」に解消しようとした!ヘーゲルに反対するフォイエルバッハにおいても、「哲学」を「人間学」に解消するという主張を支え導いたものは、ヘーゲルだった!
★ヘーゲル(1770-1831)には「神を人間の位置にまでひきずりおろす」あるいは「人間を神の座にまでのしあげる」かに見えて、「そうでもない」という曖昧な点があった。(315頁)
☆フォイエルバッハ(1804-1872)はまさにこの点をついて、「ヘーゲル哲学」は「まだ神学の束縛をまぬがれぬものである」と難じた。そして「神がおのれの姿にかたどって人間を創造した」のではなく、逆に「人間がおのれの姿になぞらえて、即ちおのれのかくありたいという理想像として神を創造した」との立場にたつ。(315頁)
☆かくてフォイエルバッハは、「ヘーゲル哲学」を、あるいはこれに代表される「哲学」一般を、「人間学」に解消しようとした。(315頁)
☆フォイエルバッハは、「クリスト教」をもって「全人を肯定するもの」と解した。(315頁)

★ヘーゲルに反対するフォイエルバッハにおいても、このような主張を、即ち「哲学」を「人間学」に解消するという主張を支え導いたものは、実はヘーゲルだった。(315-316頁)
☆ヘーゲルは『精神現象学』の「啓蒙」の段階において、「『純粋透見』が『自己意識』の権利によって『信仰』の内容をスッカリ自分のうちに取り入れてしまう」と論じた。ヘーゲルのこの論が、フォイエルバッハの主張を支え導いた。(316頁)
★このようにフォイエルバッハは、一面においてヘーゲルに反対しながら、他面ヘーゲルに支えられて、「哲学」(「ヘーゲル哲学」)を「人間学」に解消しようとする。(316頁)

《参考》「現実の世界」に属さない「純粋意識」は、(1)「純粋透見」(純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる!(277-278頁)
☆(「現実の世界」に属さない「高次」の)「純粋意識」は(1)「純粋透見」(「否定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(「肯定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる。(277頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)について、「教養」を通じて得られた「精神」Geistあるいは「エスプリ」は、かかる「対立」が固定したものでなく、「いつも「反対に転換する」ことを見透かしている」から、それは(1)「純粋透見」であり、そうして「対立」を否定するものであるところからして、「自我」あるいは「主体」の働きだ。(277-278頁)
☆ヘーゲルは「自我」をもって「否定の働き」にほかならないと考える。(278頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)が「相互に転換する」以上、「もろもろの対立」は、「対立を越え包む超越的統一」に帰する。この「超越的統一」は本来的には「概念」だ。(278頁)
☆しかしこの「超越的統一」は、ここではまだ、「もろもろの対立」(①②③)という「現実」からかけ離れた「統一」にすぎぬものとしてとらえられているから、「概念」そのものでなく、「表象」の形式におけるものだ。これが(2)「信仰の天界」を与える。(278頁)
☆これに対して(1)「透見」(「純粋透見」)は、「自我の『否定の働き』」として「地上」にとどまる。(278頁)
☆かくて「教養の世界」は「現実の国」を含むとともに、(1)「透見の世界」と(2)「信仰の世界」を含む。(278頁)
☆こうして(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」は、a「教養と現実の国」(「現実の世界」)に続いて、b「信仰と純粋透見」という段階が設定される。(277頁)

★さてフォイエルバッハの「人間学」は「孤独なる自我」に関するものでなく、「『類』としての『共同存在』としての人間」に関するものだった。(316頁)
☆ただしこれとても、ヘーゲル『精神現象学』が、「宗教」をもって、「現実的精神」即ち「時代精神」の産物と見たことに導かれたものだ。(316頁)
☆ただフォイエルバッハの「人間学」においては、「ガイスト」(ヘーゲル)から「類」(フォイエルバッハ)へと、一層「現実的」になっている。(316頁)

《参考》「現実的精神」即ち「時代精神」の産物としての「宗教」(ヘーゲル)!
☆「宗教」と「現実的精神」wirklicher Geist が「無関係でない」ことについて、ヘーゲルは次のような例を示す。(228頁)
☆例(1)ギリシャにおいて「神像が人像として刻まれる」ようになった((CC)「宗教」B「芸術宗教」が成立した)のは、彼らが(ア)「自然に対して独立的――まだ十分ではないが――となった」ばかりでなく、(イ)「政治的にデモクラシーのもとにおいて自由人となった」という「ポリスの状態」を反映したものだ。(228頁)
☆例(2)ギリシャの「芸術宗教」においては、「宗教」と「芸術」の区別はないから、「悲劇」もまた「宗教」であるが、これ(「悲劇」)とても「ポリスにおける『家族のおきて』と『国家のおきて』との葛藤・相克、ないし調和」を表現したものにほかならない。(228頁)
☆例(3)((CC)「宗教」C「啓示宗教」の)「原始クリスト教」の誕生には、((BB)「精神」」A「真実なる精神、人倫」の)c「法的状態」のもとにおける「時代精神」の両面であるところの「不幸なる意識」と「幸福なる喜劇の意識」との関係が地盤をなしており、「原始クリスト教」はこのような「時代精神」(「現実的精神」)の産物にほかならない。(228頁)
☆例(4)そうして「クリスト教」の完成と解消には、「現実面」(※「現実的精神」)において((BB)「精神」C「道徳性」の)c「良心」的自己の立場の顕現することが必要だ。(228頁)
☆とにかく以上のようにヘーゲルは「宗教」と「現実精神」wirklicher Geist との関係を高調しているが、これは今日「宗教社会学」と呼ばれているもののイデーをすでにヘーゲルが抱いていたことを証明している。(228頁)

★むろん「認識論」においてフォイエルバッハは、ヘーゲルの『精神現象学』では「最低の段階」であった「感覚的確信」を「最高のもの」とし、これに応じて「直観」や「身体性」を尊んだ。(316頁)
☆しかしヘーゲルにおいても「感覚的確信」は「最低のもの」たるにとどまるのではなく、それを同時に「最高最深のもの」とする考えもあった。(316頁)

《参考》「最高最深のもの」としての「感覚的確信」(ヘーゲル)!
☆「個別的主体」の存在は、「受肉 incarnation 」の教義を強調するヘーゲルにおいて相当強く認められ主張されている。ヘーゲルは決して「個別者」を全然否定しているのではない。(95頁)
☆「感覚的確信」の考えというものは、じつはその裏には「キリスト教の受肉の教義」をもっている。「『この人間』も単なる人間でなく、神が肉を受けてなったもので、『絶対的な実在性』をもっているものだ」という「受肉の教義」と関係があることだが、かかるこの「個別者」はヘーゲルも認めている。(96頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」3「現代(あるいは絶対知)」(その3-2):ヘーゲル『精神現象学』の史的意義(続)!フォイエルバッハとキェルケゴール!

2024-09-23 07:29:05 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」3「現代(あるいは絶対知)」(その3-2)(311-314頁)

(85)-3 ヘーゲル哲学において「ドイツ観念論」の完成に至った「精神革命」は、「観念論」的であって、他の2つの革命(「産業革命」・「政治革命」)と十分に相即しない憾みがある!
★近代ヨーロッパ文化はルネッサンス以来「人間が自然の所有者であり、世界の主人である」という意識をもって進んできた。この意識が「3つの革命」(「産業革命」・「政治革命」・「精神革命」)によって成就された。そして「精神革命」を担当したのが「ドイツ観念論」であり、ヘーゲルの哲学は「ドイツ観念論」の完成だ。(311頁)
★ヘーゲル哲学において「ドイツ観念論」の完成に至った「精神革命」は、「観念論」的であって、他の2つの革命(「産業革命」・「政治革命」)と十分に相即しない憾みがある。(311頁)
☆その原因としては(ア)「宗教改革」以後における「ドイツ民族の経済的政治的な立ちおくれ」ということも考えられる。(311頁)
☆だがさらに(イ)ヘーゲル哲学が、「クリスト教」との因縁浅からぬものであったことこそ、原因としてあげるべきだ。「絶対知」の成立も、「良心の立場」を「クリスト教」と比較して、「両者が根本的に一つである」ということによっているが、これは一面においては「『クリスト教』を『主体』のうちに解消する」ことだが、他面においては「『主体』を『クリスト教』によって権威づける」ことでもある。(311頁)

《参考1》16~17世紀:ドイツ「宗教改革」と「宗教戦争」の時代!
☆1517年、ルターによる「宗教改革」が開始され、その後ドイツは旧教・新教に分かれて激しく対立し、三十年戦争(1618-1648)という「宗教戦争」の時代に突入する。その過程で「神聖ローマ帝国」は事実上解体し、「プロイセン」と「オーストリア」の二大領邦が生まれた。
☆ヨーロッパの「17世紀の危機」と呼ばれた時期、ドイツの「三十年戦争」(1618-1648)では、新旧両派の内戦に対し、デンマークとスウェーデンが新教側支援、スペインが旧教側支援で参戦。フランス・ブルボン朝はカトリックだが、反ハプスブルクの新教側についた。「三十年戦争」は国際的な戦争となりドイツは荒廃した。1648年ウェストファリア条約で、①プロテスタントの信仰の自由が確認され、②ドイツの各領邦の主権が認められ、ハプスブルク家の皇帝権は著しく弱体化した。(この条約は「神聖ローマ帝国の死亡診断書」と言われる)。神聖ローマ帝国は300余の緒領邦の連合体とされ、ドイツの国民国家としての統合は遅れることになった。
☆当時ヨーロッパでは、イギリス(Cf. 1642ピューリタン革命、1688名誉革命)、フランス(1624宰相リシュリュー、1643宰相マザラン、ルイ14世親政1661-1715)が国家としての統一を強化したが、ドイツは多数の領邦国家(ラント)に分裂していた。その領邦の中で大きな力を持ったのがプロイセンとハプスブルク家のオーストリアだった。
《参考2》18世紀、ドイツはプロイセンとオーストリアという二大国を中心に、他にバイエルンやザクセンなどの領邦国家に分裂する状態が続いた。またプロイセンではユンカーという土地貴族が農奴を搾取した。ドイツにおける近代国家の形成と市民社会の成立は大きく遅れていた。
《参考3》18世紀後半、フランスではアンシャンレジームに対し、1789年フランス革命が勃発、一気に王政廃止・共和政に向かった。プロイセンとオーストリアは1791年、フランス革命政府と開戦するが、フランス軍がライン川を越えてドイツに侵入し、占領地では「主権在民」・「封建課税と特権の廃止」などの社会変革を宣言、革命理念がドイツ内に持ち込まれることとなった。ヘーゲル(1770-1831)が21歳の時だ!
《参考3-2》「フランス革命戦争」(1791-1802)、それに続く「ナポレオン戦争」(1803-1815)は、ドイツ国家の統合を促した。当時ドイツには300以上の領邦国家があり、神聖ローマ帝国は形骸化し「モザイク国家」状態だった。ナポレオンの征服によってドイツの「国民国家」形成は大きく進む。1803年、帝国代表者会議はナポレオンの同意のもとに諸領邦すべてを潰し、中核領邦に統合した。バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンなどの南ドイツ諸邦が大幅に領土を拡大し、オーストリア、プロイセンの二大領邦に対抗する第三勢力を形成した。
《参考3-3》「アウステルリッツの戦い」(1805年12月、露墺と仏の戦い)で敗れると、1806年、バイエルンなど西南ドイツの16領邦は、ナポレオンを「後見人」として「ライン同盟」を結成し、神聖ローマ帝国から離脱。かくて「神聖ローマ帝国」は消滅した。
《参考4》 1806年10月、プロイセンは「イエナの戦い」(普露と仏の戦い)で大敗し、ナポレオンはプロイセンの首都ベルリンに入城。翌1807年ティルジット条約で、エルベ川以西はヴェストファーレン王国(ナポレオンの弟ジェロームが国王)、旧ポーランド領はワルシャワ大公国と、いずれもナポレオン直属の傀儡国家に組み込まれた。プロイセンは国土を半減させ、15万人のフランス軍駐留を受け入れ、賠償金として国庫収入の3倍の金額を課せられた。オーストリアも1809年「ヴァグラムの戦い」で敗れ、広大な領土を失い、プロイセンを上まわる賠償金を課せられた。
《参考4-2》プロイセンの改革(1807-1820)(ヘーゲル37-50歳)!
☆ナポレオンの支配によって、「貴族の封建的特権の廃止」、「内閣制度」、「営業の自由」、そして「人権と自由」など近代社会の理念がドイツに持ち込まれ、ナポレオンはドイツにおいて「国民国家」形成の「触媒」の働きをした。
☆プロイセンではナポレオン戦争での敗戦(1806)後、哲学者フィヒテは「ドイツ国民に告ぐ」と題するベルリンでの講演(1807-1808)でドイツの国民国家としての自覚を促した。また1807年から「プロイセン国制改革」が、シュタインとハルデンベルクによって進められた。改革は「農民解放」をはじめ、「内閣制」の確立、「地方自治」、「営業の自由」、「国民軍の創設」、「教育改革」など多岐にわたり、ナポレオン没落後、ウィーン体制下の1820年代初めまで続いた。

(85)-4 ヘーゲル哲学は「『絶対者』は『主体』である」という近代哲学の基本的なテーゼを証明しようとしたものとして近代哲学の完成だ!ヘーゲルへの反抗、すなわち「『観念論』に反対する」!「『Dasein(そこに現にあるもの)』でなくてはいかなるものをも承認しない」という「リアリズム」の立場!
★ヘーゲル哲学は(もとよりヘーゲルという個人の個性からくる偏りがあるが)、「『絶対者』は『主体』である」という近代哲学の基本的なテーゼを明確に自覚し、これを証明しようとしたものとして、明らかに近代哲学の完成だ。(311頁)
★したがって、ヘーゲル(1770-1831)以後の哲学者のうちで、オリジナルな思想をもった才能のある人々はみな「ヘーゲルへの反抗」において自己の思想を形づくったが、いずれも「『観念論』に反対する」ことを主目標にした。(311頁)
☆すなわち「『Dasein(そこに現にあるもの)』でなくてはいかなるものをも承認しない」というのが、「ヘーゲル以後の哲学」の基本特徴だ。この態度が「リアリズム」である。(311-312頁)
☆文芸の方面において、1830-40年頃を限界として「ロマンティスィズム」から「リアリズム」に移るのと同じことが、哲学の方面にもあったのだ。(312頁)

(85)-4-2 「ヘーゲル以後の哲学」である「リアリズム」は「2つの方向」を持つ:①「ポジティヴィズム」(フォイエルバッハ)&②「ネガティヴィズム」(キェルケゴール)!
★「ヘーゲル以後の哲学」の基本特徴である「リアリズム」は「2つの方向」を持つ。(312頁)
★一つは、ヘーゲルの「観念論」に反対し「リアリズム」の立場をとりながら、しかし「絶対者は主体である」というヘーゲルの根本思想そのものは認め、これを「現実」のうちに「現実に実現し定立する」、即ち「ポジット」しようとするものだ。これを私(金子武蔵氏)は「ポジティヴィズム」と名づける。その代表者がフォイエルバッハ(1804-1872)だ。(312頁)
★もう一つは「リアリズム」の立場をとりつつ、かつ「絶対者は主体である」とのヘーゲルの根本思想をも否定する。これを私(金子武蔵氏)は「ネガティヴィズム」と名づける。その代表者がキェルケゴール(1813-1855)だ。(312頁)

(85)-4-3 「ヘーゲル以後の哲学」である「リアリズム」①「ポジティヴィズム」:フォイエルバッハ、マルクスとエンゲルス、ユーティリタリアニズム(功利主義)、プラグマティズム、実証主義(コント)!
★フォイエルバッハから出たのがマルクス(1818-1883)とエンゲルス(1820-1895)だ。マルクスとエンゲルスの思想は非常にヘーゲルと違うが、しかしヘーゲルの根本思想そのもの(「絶対者は主体である」)はこれを認め、ただこれを「現実」のうちに「現実的に実現しようとする」ところから相違がでてきたのだ。(312頁)
☆なぜならもし「共産主義社会」が実現されるならば対「自然」的にも、対「人間」的にも、「人間の自由」を拘束すべきなにものもなく、「絶対者はまさに主体(※人間)となる」べきはずだからだ。(312頁)

★さて「資本主義と社会主義との対立」はしばらく別とするならば、「ユーティリタリアニズム(功利主義)」、「プラグマティズム」、「実証主義(コント)」は、「絶対者が主体である」ことを「現実に実現しようとする」ものとして――ただし「革命的」にでなく「改良主義的」に「現実に実現しようとする」ものとして――やはり「リアリズム」①「ポジティヴィズム」の系統に属する。(312-313頁)

《参考1》「ユーティリタリアニズム(功利主義)」は近代イギリスに発達した倫理・政治思想の一つ。人間は利己的であるが、道徳・政治の理想として「最大多数の最大幸福」をめざせば社会は「進歩」すると唱えた。J. ベンサム(1748-1832)、またベンサムを修正したJ. S. ミル(1806-1873)によって唱えられた。

《参考2》「プラグマティズム」(実用主義)は19世紀末から1930年代にかけてアメリカで有力だった哲学。その称はギリシア語pragma(実践・行為)に由来する。C. S. パース(1839-1914)、W. ジェームズ(1842-1910)、J. デューイ(1859-1952)らが代表者で、論者により強調点に差異があるが、「認識の形而上学的な基礎づけ」を排し、「認識の妥当性」を「行為の効果」に求め、「真理と価値」の追求を「社会的協働」の中に求めるところに特質がある。
《参考2-2》論理実証主義、分析哲学などとの対話のなかで「ネオ・プラグマティズム」(R. ローティ、クワイン、グッドマン、パトナムら)も提唱された。伝統的なプラグマティズムは「経験」に焦点を当てるが、ローティは「言語」に重点を置く。例えば「自己」(the self)は、「信念と欲求から成る、中心を欠いた網目(web)」と見なされる。

《参考3》「実証主義」はコント(1798-1857)が標榜した。科学的方法と経験的事実に基づく知識の追求を重視する。 実証主義の基本原則は、観察可能な事実にのみ基づき、形而上学的な推測や神学的な説明を排除することだ。 コントは、科学的な方法で社会の法則を発見する「社会学」を唱えた。

(85)-4-4 「ヘーゲル以後の哲学」である「リアリズム」②「ネガティヴィズム」:キェルケゴールの実存主義!キェルケゴールは「絶対者は主体である」とするヘーゲル哲学に、したがってまた近代哲学の基本的動向に根本的に反抗するものだ!
★「ヘーゲル哲学」は「クリスト教」を「克服」するごとく見えて、またそれに「依存」するものだ。(313頁)
☆①フォイエルバッハ―マルクスが(「クリスト教」の)「克服」の方向をとらえて、ヘーゲルの根本思想(「絶対者は主体である」)をリアリスティックの発展させたのに対して、②「クリスト教」への「依存」の方向をとらえたのがキェルケゴールだ。(313頁)

★(「クリスト教」の)①「克服」の方向、いいかえるならば、「絶対者は主体である」ということがヘーゲル哲学にとって本来的であるというところからすれば、②キェルケゴールはヘーゲル哲学に、したがってまた近代哲学の基本的動向に根本的に反抗するものだ。つまりキェルケゴールは、ヘーゲル哲学の「クリスト教」への「依存」の方向をとる。(313頁)
☆ただしかしキェルケゴールの思索の態度はやはり「リアリズム」だ。即ち、ヘーゲル哲学によれば「『人間』はすべて『神の子』たるの権威を具える」が、しかし人間を「精神」として「全般的」にみた場合には、このことが成り立つとしても、「個々の人間の内面」をよくよく熟視するならば、人間に「『神の子』たるの権威」に値するものはなく、あるのはただ「不安・憂愁・倦怠・罪・悪魔的なものなど」だけだというのが、キェルケゴールの「実存主義」の出発点だった。(313頁)

☆つまりキェルケゴールは、ヘーゲル哲学の「クリスト教」への②「依存」の方向、いいかえれば②「人」の「神」への「依存」の方向をとらえ、これを「リアリスティック」な態度で極限まで推し進めようとした思想家であるということができる。

(85)-4-5 「ヘーゲル以後の哲学」である「リアリズム」の「2つの方向」、すなわち①「ポジティヴィズム」(「絶対者は主体である」という根本のテーゼを承認)(フォイエルバッハ―マルクスの系統)と②「ネガティヴィズム」(キェルケゴールに始まる実存主義の系統)を統合することこそが、現代哲学の課題だ!
★「ヘーゲル以後の哲学」である「リアリズム」は「2つの方向」を持つ。すなわち①「ポジティヴィズム」(フォイエルバッハ)と②「ネガティヴィズム」(キェルケゴール)だ。(312頁)
☆「リアリズム」の「2つの方向」のうち①フォイエルバッハ―マルクスの系統は、「絶対者は主体である」という根本のテーゼを承認し肯定して、これを「現実的」(Cf.「観念的」)に実現しようとした。この系統は「ポジティヴィズム」と呼ぶことができる。(広い意味では「実証主義」・「功利主義」・「実用主義」・「器具(道具)主義」もこのうちに含めることができる。)(313-314頁)

《参考》「器具(道具)主義」は科学理論を、観察可能な現象を組織化・予測するための道具・装置であると見なす。観察可能な「現象」の背後にある観察不可能な隠れた「実在」の真の姿は知りえないとする。(この点で「科学的実在論」と対立する。)「道具主義」は、「観察不可能な対象」について語ることは「形而上学」の役割であるとする。

☆「リアリズム」の「2つの方向」のうち②キェルケゴールに始まる「実存主義」は「絶対者は主体である」というテーゼに反抗するものだから、「ネガティヴィズム」だ。(314頁)

★「ヘーゲル以後の哲学」である「リアリズム」の「2つの方向」、すなわち①「ポジティヴィズム」(フォイエルバッハ―マルクスの系統)と②「ネガティヴィズム」(キェルケゴールに始まる「実存主義」の系統)の「結合」こそが現代哲学の課題だろうかと思う。(金子武蔵氏)(314頁)

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」3「現代(あるいは絶対知)」(その3)『精神現象学』の史的意義!「絶対者は主体である」:「産業革命」・「政治革命」・「精神革命」!

2024-09-16 17:30:17 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」3「現代(あるいは絶対知)」(その3)(310-311頁)
(82)ヘーゲル『精神現象学』は「絶対者は主体である」or「実体は主体である」ことを証明しようとした!
★ヘーゲル『精神現象学』の史的意義を、それ以後の思想史との連関において、以下一言する。(金子武蔵氏)(310頁)
★さて『精神現象学』は「絶対者は主体である」or「実体は主体である」ことを証明しようとしたものだ。(310頁)

《参考1》ヘーゲル『精神現象学』「序論」において示されているヘーゲル哲学の根本的な命題は「実体は主体である」ということだ。(88頁)
☆この命題「実体は主体である」を証明するのが『精神現象学』全体を通ずる課題だ。(88頁)
☆これをもっとも手近な範囲において実行しようというのが、(A)「意識」(or「対象意識」)の段階のねらいだ。(Cf.  (B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階。)(88頁)

《参考2》ヘーゲル哲学の根本的な命題である「実体は主体である」という命題(テーゼ)を証明しようとするならば、「物」というものが、じつは「対象的に存在するもの」ではなくて「主体」であることor「自己」であることor「概念」であることを証明しなくてはならない。(89頁)
☆「主体」は、ヘーゲルにおいては「概念」のことであり、「概念」は最も「自己」的なものであり、「概念」は「自己」であるとさえ言われる。(89頁)

《参考3》(A)「意識」(「対象意識」)の段階はなぜⅠ「感覚」から始まるのか?(Cf. Ⅱ「知覚」、Ⅲ「悟性」。)それは「感覚」が最も直接的な、最も自然的な意識の形態だからだ。「物」をさえまだつかんでいないⅠ「感覚」から始めて、次に「物」をとらえるⅡ「知覚」に移り、これから(B)「自己意識」にまで移って行って、「実体は主体である」、「実体は自己である」、「実体は概念である」ということを証明しようとする。(Cf. (A)「意識」(「対象意識」)の段階、(B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階!)(90頁)

《参考4》「自然的意識」は同一律・矛盾律を厳密に守ろうとする。普通の「自然的意識」が、それ(同一律・矛盾律)を墨守せんとしながら、じつは「そうはできないのだ」ということを証明しなければ、ヘーゲルの「弁証法的知識」すなわち「絶対知」、言いかえれば「実体は主体である」という証明はできない。がまさにそれを実行しようとするのがこの(「知覚」における)「錯覚」の段階だ。(105頁)

《参考5》まず「力」という言葉がなぜでるのか?(109頁)
☆「知覚」の段階において「個別と普遍」、「一と多」、「即自と対他」、「自と他」といった対立が、互いに他に転換して切りはなすことのできないものであることが、明らかになった。(109頁)
☆それら諸対立のなかで、「一と多」という対立は、両者が切り離せないから、「一」の方もすぐ「多」になり、「多」の方もすぐ「一」になるという相互転換を意味した。(109頁)
☆したがって「一」というものは「多」となっておのれをあらわすべきものであり、「多」もまた「一」が外にあらわれて呈する姿にほかならないので「一」に還帰する。(109頁)
☆かくて「一と多との対立」は、「力」と「その力が外に現れた『外化あるいは発現』」の対立にほかならない。この意味で「一と多とが切りはなせない」というのは、「物」がもはや「物」でなく「力」になったことだ。(109頁)
☆「知覚」段階では「物」を知覚していたのに対して、「一」が「多」と互いに他に転換するという点から見れば、そこには「物」的でない、「制約されない普遍性」すなわち「力」がある。このような意味で、「物」とはじつは「力」なのだ。(109頁)

《参考5-2》両者(「認識主観」と「認識客観」)は「根柢において同一のもの」の表現であり、両者を超えた「統一」がある!「対象意識」の立場(「B」や「C」を「意識する」)が、「自己意識」(「自己Aを意識する」)にうつってゆく!(123頁)
☆「無限性」は「概念」即ち「自己」にほかならないので、「対象意識」の段階から「自己意識」の段階にうつる。(123頁)
☆「無限性」の概念から我々の「意識」を考えてみよう。まず普通に「意識」するというのは「自己を意識する」のではなく、「対象を意識する」ことだ。(123頁)
☆ところが「無限性」からいうと、「対立」は「相互に他に転換」する。したがって「認識主観」は「客観」へ、「認識客観」は「主観」へというように、両者(「認識主観」と「認識客観」)は「根柢において同一のもの」の表現であり、両者を超えた「統一」がある。そしてその「統一」が二分して「対立」し、「相互転換」して「統一」にかえる。このような「無限性」の運動において「対象意識」は成立する。(123頁)
☆「BがCを意識する」あるいは「CがBを意識する」というのは、「BもCもA(同一のもの)のあらわれ」だから、(「C」が)「B」を、また(「B」が)「C」を「意識する」ことではなく、「自己Aを意識する」ことだ。つまり「対象意識」の立場(「B」や「C」を「意識する」)が、「自己意識」(「自己Aを意識する」)にうつってゆく。(123頁)

《参考5-3》「悟性認識の対象」は「物の内なるもの」ではあっても、それは「主体としての、自己の内なるもの」とは別のものではない!「対象の内なるもの」と「主体としての内なるもの」とは同じものだ!(123頁)
☆言いかえると、「悟性」は「物の内なるもの」をつかむが、その「内なるもの」とは「無限性」であり、しかして「無限性」とは「根柢の統一が対立分化し、その対立がまた統一にかえる」という「運動」だから、「悟性認識の対象」は「物の内なるもの」ではあっても、それは「主体としての、自己の内なるもの」とは別のものではない。(123頁)
☆「対象の内なるもの」と、「自己としての内なるもの」つまり「主体としての内なるもの」とは同じものだ。(123頁)

《参考5-4》「対象意識」も真の本質からいうと「自己意識」だ!「実体は主体である」!(124 頁)
☆このようにして「対象意識」は「自己意識」に転換してゆく。「対象意識」も真の本質からいうと「自己意識」だ。かくて「実体は主体である」というヘーゲルの根本テーゼが出てくる。(124 頁)

(82)-2 「産業革命」・「政治革命」・「精神革命」は、「絶対者は主体である」(or「実体は主体である」)という同じ共通の精神(「時代精神」)によって成り立った!
★ヘーゲル『精神現象学』が証明しようとした「絶対者は主体である」or「実体は主体である」という命題は、広い見地からすると、すでに「ドイツ観念論」が近代を完結させ、現代に転換させた「精神革命」であることを
意味する。(310頁)

★「近代を完結させ、現代に転換させる」というこの「転換」を成就したものには3つの革命がある。すなわち「産業革命」・「政治革命」・「精神革命」である。これらはけっきょく根本においては「絶対者は主体である」(or「実体は主体である」)という同じ共通の精神(「時代精神」)によって成り立ったものだ。(310頁)
☆「産業革命」はイギリス人が担当して経済面において、「政治革命」はフランス人が担当して政治面において、「精神革命」はドイツ人が担当してイデオロギー面において成就したが、けっきょくは同じ「時代精神」(※「絶対者は主体である」or「実体は主体である」)の表現である。(310-311頁)
☆近代ヨーロッパ文化はルネッサンス以来「人間が自然の所有者であり、世界の主人である」という意識をもって進んできた。この意識がこの「3つの革命」によって成就された。(311頁)
★「精神革命」を担当したのが「ドイツ観念論」であり、ヘーゲルの哲学は「ドイツ観念論」の完成だ。(311頁)

《参考1》「観念論」idealism
☆理論的にせよ実践的にせよ、「観念あるいは観念的なもの」を「実在的あるいは物質的なもの」に優先するとみなす立場を「観念論」といい、「実在論」あるいは「唯物論」に対立する用語として使われる。
☆「観念論」は、「物質」ではなく「観念的」なもの(イデア・理念・意識など)が根本的本質だとする考え方。①生滅変転の「現象界」に対し永劫不変の「イデア界」の優位を主張する「プラトンの客観的観念論」、②近代では「物」の存在を「知覚」に解消しようとする「バークリーの主観的観念論」、③経験的世界は超越論的主観により構成されるとする「カントの超越論的観念論」など多様に存在する。「観念論」は主として認識論上の語で,倫理的な局面では「理想主義」と呼ばれる。また存在論・世界観上は別に「唯心論」の語を与えることもある。

《参考2》「観念論」という用語法の成立とその背景!(『日本大百科全書(ニッポニカ) 』坂部恵)
☆「観念論者」idealistの語が最初に用いられたのは、17世紀末のライプニッツにおいてだといわれるが、そこでは「観念論者」の語は、「唯物論者」エピクロスに対して、プラトンを形容する語として導入された。すなわち、「物質」を実在とするエピクロスに対して、「イデアないし形相」を真の実在とし、事物の本質規定とみなすプラトンの立場が「観念論」的とされた。
☆しかし中世このかた、こうしたプラトン主義の立場は、「唯名論」(普遍論争 における「唯名論」、すなわち普遍者実在論or実念論or概念実在論に対する「唯名論」)との対比において「実在論」あるいは「形相論」として特徴づけられるのが一般的だった。
☆「観念論」の用語は、近世哲学での新たな人間中心的認識論の登場に伴って導入されてきた。これ以後、「観念論」の用語は「外界あるいは物質的世界」の実在を認めるか認めないかをめどとして使われるようになる。

《参考3》バークリーの「主観的観念論」!(坂部恵)
☆「存在するとは知覚されること」という命題において、「外界ないし物質的世界の実在」を「否定」し、認識のすべてを「人間の観念」に還元したバークリーの立場が、18世紀には「観念論」を代表した。

《参考4》カントの「超越論的・批判的観念論」!(坂部恵)
☆カントは、「外界ないし物質的世界」としての「自然」を、「空間・時間、純粋悟性概念(カテゴリー)」など人間の「認識主観」の「ア・プリオリ(先天的)な認識の諸形式」に従って構成され、その限りで客観的妥当性をもつ「現象」とみなす「超越論的観念論」の立場を打ち出した。カントの「超越論的観念論」は、「数学的自然科学」の普遍性を救いつつ、認識の有効性の範囲を「批判的」に限定する意図から出たものであり、「現象」の背後に「物自体」を想定する。
☆カントは「超越論的観念論は経験的実在論にほかならない」とするなど、バークリーの「主観的観念論」とは一線を画した。

《参考5》「ドイツ観念論」の3人の哲学者:「倫理的観念論」(フィヒテ)、「美的観念論」(シェリング)、「絶対的観念論」(ヘーゲル)!(坂部恵)
☆カントの「物自体」の考えを批判し、むしろカントの唱道した「実践的・自律的主体としての人間」を宇宙そのものの展開の根本原理としての「自我」にまで高めたフィヒテの立場は、主体の自発性・自律・自由を重んずるゆえに「倫理的観念論」として特徴づけられる。
☆また美的創造や美的直観に自然世界の展開の究極をみたシェリングの立場は、「美的観念論」とよばれる。
☆さらに自然的、歴史的を含めた世界の展開を「観念」あるいは「絶対的精神」の弁証法的自己展開とみなすヘーゲルの立場は「絶対的観念論」とよばれる。
☆以上3人の哲学者によって展開された「ドイツ観念論」の哲学においては、「観念」のもつ「プラトン」以来の「原型」ないし「規範」の意味がいずれも強く表面に出されており、「観念論」はここでは「理想主義」の訳語をあてられることがまれではない。

《参考6》観念論への批判!(坂部恵)
☆近世以降の「観念論」は、つねに実証科学の展開と結び付いた「唯物論」と対抗関係に置かれてきた。19世紀の「実証主義的・科学主義的唯物論」、マルクス主義の「弁証法的唯物論」などが「観念論」批判の主要な潮流であった。

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」3「現代(あるいは絶対知)」(その2):「良心的自己」において、「啓示宗教」の「対象性・表象性」は剥奪され、「絶対知」が成立!

2024-09-14 15:04:43 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」3「現代(あるいは絶対知)」(その2)(307-310 頁)
(81)「絶対実在」が「主体」のそとに放置されるならば、「知識」はとうてい「絶対性」を得て「絶対知」となることはできない!
★さて「絶対実在」の問題が残っている。(307頁)
☆これを具体的いうと、「実行型の良心」と「批評型の良心」との間に「和らぎ(ヤワラギ)」が成り立つのも、そとから「神」が「愛の手」を差し伸べることによってだったが、かく「絶対実在」が「主体」のそとに放置されるならば、「知識」はとうてい「絶対性」を得て「絶対知」となることはできない。(307-308頁)

《参考1》①「実行型の良心」と②「美魂型・批評型の良心」とのいずれもが「非」であるとしても、またいずれにも「もっとも」なところがあるという理由で、ヘーゲルにおいては「高次の立場」即ちここでは「絶対精神」の立場、すなわち③「和らぎ」(Versöhnung)としての良心の立場への飛躍が要求せられる。(302頁)
《参考2》「和らぎ」(「やわらぎ」)の「しかり」は、各自独立なる人格のあいだに「神が顕現する」ことにほかならないとヘーゲルはこの段階の終わり((BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」)において言っている。(303頁)

(81)-2 《「絶対実在」あるいは「宗教」の方で、「自己」の方にまでおりてきてくれる》ことがすでに成就されている:「啓示宗教」と「良心的自己」!
★ところで「絶対実在」をとらえるものは「宗教」だ。「宗教」は「絶対実在」を「自己」として意識する。(308頁)
☆だが「最高の宗教」である「クリスト教」でも「対象性」・「表象性」をまぬがれることができない。そこで《「絶対実在」あるいは「宗教」の方で、「自己」の方にまでおりてきてくれる》ことが必要だ。(308頁)
☆しかし《これ》はすでに成就せられている。(308頁)
☆《「絶対実在」あるいは「宗教」の方で、「自己」の方にまでおりてきてくれる》ことがすでに成就されていることは、「啓示宗教」(Cf. (CC)「宗教」C「啓示宗教」)と「良心的自己」(Cf. (BB)「精神」」C「自己確信的精神、道徳性」」c「良心、美魂、悪とその赦し」)を比較してみれば、明らかとなる。ヘーゲルはそう考えている。(308頁)

(81)-3 同じことを、一方で「啓示宗教」が「客体的」にあるいは「表象」の面で言い、他方で「良心的自己」(※「和らぎ」)が「主体的」にあるいは「概念的」に言う!
★「良心的自己」(※「和らぎ」)と「啓示宗教」とを比較してみると両者は実質的には全く同じものだ。同じことを、一方で「啓示宗教」が「客体的」にあるいは「表象」の面で言い、他方で「良心的自己」が「主体的」にあるいは「概念的」に言うかに違いがあるだけだ。(308頁)

(81)-3-2  ①「受肉」は《「個別的個人」が同時に「絶対的実在」である》ことを語る!「クリスト教」(「啓示宗教」)の「受肉」の教義は、「良心的自己」における「実行型の良心」のもつ「自己確信」を、「表象的」に「神話的」に表現したものだ!
★①「クリスト教」(「啓示宗教」)の第1の特徴は「受肉」だ。「受肉」とは《「神」が「賤しい大工の子」となる》ことだから、したがって「受肉」は《「個別的個人」が同時に「絶対的実在」である》ということを語っている。(308頁)
☆したがって「すべて個人が神の子として権威をもつべき」はずだが、「クリスト教」では「ひとりイエス・クリストのみがかかる権威をもつ」かのように観じている。(308頁)

★①-2 ところで「良心」(「良心的自己」)の立場は「抽象的な道徳法則」を心得ているほかに、(「実行型の良心」において)「個々一々のものの場合にのぞんでは何をなすべきか」を知っている。「良心」の立場にして初めて「決断し実践する」ことができるから、「この」個人が「絶対者」としての意義をもつのであって、「イエス・クリスト」のみが「絶対者」としての意義をもつのではないということがハッキリ示されている。(308-309頁)

★①-3 つまり「クリスト教」(「啓示宗教」)の「受肉」の教義は、「良心的自己」における「実行型の良心」のもつ「自己確信」を、「表象的」に「神話的」に表現したものだ。

(81)-3-3  ②「クリスト教」における「堕罪」ないし「楽園の喪失」という「善悪の対立」は、「良心的自己」の立場では「実行型の良心」と「美魂型の良心」の対立として「主体的」・「内面的」に了解されている!
★②第2に「クリスト教」は《「神の子」と「人の子」の対立》あるいは《「善」と「悪」との対立》のあることを、「堕罪」ないし「楽園の喪失」によるというような「神話」的な形で説くが、しかし「良心」(「良心的自己」)の立場においても、「実行型の良心」と「観想型あるいは批評型の良心」(「美魂型の良心」)との対立     があったのだから、およそ《「善」と「悪」との対立》(「善悪の対立」)の避くべからざるものであるということも、ここでは「主体的」・「内面的」に了解されている。(309頁)

《参考1》☆①「実行型の良心」は「ひとりよがりの『信念』」に「『義務』の『普遍性』」をマントとしてかぶせているだけだ。(※つまり「実行型の良心」は同時に「悪心」になる。)(300頁)
☆これに対して②「美魂型・批評型の良心」は、たしかに「公共性」の立場をとりはするものの、そうすることのできるのは、「自分ではなにひとつ『実行』しない」からであり、しかも「『主観的・個人的』な意見をあたかも『客観的・公共的』なもの」であるかのように装っているからだ。(300頁)

《参考2》ヘーゲルにおいては、①「実行型の良心」も②「美魂型の良心」もいずれも、改まらなくてはならない。(300頁)
☆①「実行型の良心」は自分の「罪」を告白すべきだ。なぜなら「実行」する段になると、何らかの形で「自分の意志」を満足させざるをえないのはもちろんだが、同時に「他人の意志」をも尊重しなくてはならず、そうでなくては「実行」も、まして「仕事」は成就されないからだ。(300-301頁)
☆これに対して②「美魂型・批評型の良心」は、一方で①「実行型の良心」に対して、その「罪」を赦すべきだ。なぜなら①「実行型の良心」に「個別的な主観的な」点があるとしても、自分で実際やろう(行動しよう)とすれば、そうならざるをえないものなのだし、また他方で②「批評すること」自身も、それが「自分のメリット(功績)」と考えられているかぎり、「個別性」をまぬがれえないからだ。(301頁)
☆かくて①「実行型の良心」は自分の「罪」を認め告白し、②「美魂型・批評型の良心」は「実行型」の「罪」を赦さなくてはならないことになる。(301頁)

(81)-3-4  ③「クリスト教」において「『神の子』イエス・クリストが十字架について死ぬ」ことによって「やわらぎ」に達すると「表象的」に物語られることは、「良心的自己」の立場では「実行型の良心」が「罪」を告白し、「美魂型の良心」が「罪」を赦すことにおいて、「主体的」・「内面的」に了解されている!
★③第3に「クリスト教」では、「善悪の対立」あるいは「『神の子』と『人の子』の対立」は、「『神の子』イエス・クリストが十字架について死ぬ」ことによって「やわらぎ」に達すると「表象的」に物語られる。この「やわらぎ」も「良心的自己」の立場では、「実行型の良心」と「観想型あるいは批評型の良心」(「美魂型の良心」)とのあいだに、一方(「実行型の良心」)が「罪」を告白し、他方(「美魂型の良心」)が「罪」を赦すことにおいて「主体的」「内面的」に了解せられうるものとなっている。(301頁)

(81)-4 「良心的自己」において、「啓示宗教」がまだまぬがれることのできなかった「対象性」・「表象性」は、おのずと剥奪され、ここに「絶対知」は成立する!
★かくて「啓示宗教」(Cf. (CC)「宗教」C「啓示宗教」)と「良心的自己」(Cf. (BB)「精神」」C「自己確信的精神、道徳性」」c「良心、美魂、悪とその赦し」)とを比較してみれば、「啓示宗教」がまだまぬがれることのできなかった「対象性」・「表象性」は、おのずと剥奪せられるのだから、ここに「絶対知」は成立する。(309頁)
☆「絶対知」の成立とともに、「人間」は「神の子」としての権威を具えるものになる。これは『精神現象学』の序文に《「絶対者は主体である」(Cf. 「実体は主体である」)ということが『精神現象学』の証明しようとする命題である》と提唱されたゆえんだ。(309頁)

《参考》「力」は「物の内なるもの」だが、その「内なるもの」は「主体的なる自己としての内なるもの」と同じものである! (88-90頁)
(あ)ヘーゲル哲学の根本的な命題:「実体は主体である」!この命題を証明するのが『精神現象学』全体を通ずる課題だ!  
☆ヘーゲル『精神現象学』「序論」において示されているヘーゲル哲学の根本的な命題は「実体は主体である」ということだ。この命題「実体は主体である」を証明するのが『精神現象学』全体を通ずる課題だ。(88頁)
☆これをもっとも手近な範囲において実行しようというのが、(A)「意識」(or「対象意識」)の段階のねらいだ。(Cf.  (B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階。)(88頁)
☆「実体」とは、基本的・常識的な意味は「物」Ding ということだ。(88頁)
☆いろんな性質をもつ「物」において、その性質は哲学的には「属性」であり、文法的には「述語」である。「物」(Ex. 白墨)は「主語」あるいは「実体」である。(88頁)
(い) ヘーゲル哲学の根本的な命題である「実体は主体である」を証明しようとするなら、「物」が「対象的に存在するもの」ではなくて、「主体」or「自己」or「概念」であることを証明しなくてはならない!
☆ヘーゲル哲学の根本的な命題である「実体は主体である」という命題(テーゼ)を証明しようとするならば、「物」というものが、じつは「対象的に存在するもの」ではなくて「主体」であることor「自己」であることor「概念」であることを証明しなくてはならない。(89頁)
☆「主体」は、ヘーゲルにおいては「概念」のことであり、「概念」は最も「自己」的なものであり、「概念」は「自己」であるとさえ言われる。(89頁)
(う) (A)「意識」(or「対象意識」)の段階Ⅱ「知覚」の段階:「物」がじつは「物」ではなくして「力」である!「力」は「物の内なるもの das Innere 」だが、その「内なるもの das Innere 」は、じつは「主体的なる自己としての内なるもの」と同じものであり、かくて (B)「自己意識」の段階に移っていく!
☆「物」が「対象的に存在する」のでなく、「自己」・「主体」・「概念」であることを証明する必要がある。この課題を引き受けるのが(A)「意識」(or「対象意識」)の段階だ。(Cf.  (B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階。)(89頁)
☆(A)「意識」(or「対象意識」)の段階(Ⅰ「感覚」、Ⅱ「知覚」、Ⅲ「悟性」)の中心はⅡ「知覚」、Ⅲ「悟性」のところだ。Ⅱ「知覚」の段階において、「物」がじつは「物」ではなくして「力」であることが証明される。(89頁)
☆「力」は「感覚せられる外的なもの」ではなく、「物の内なるもの das Innere 」である。
☆その「内なるもの das Innere 」は、直接的には「物における内なるもの」だが、じつは「主体的なる自己としての内なるもの」と同じものであることが証明される。かくて (B)「自己意識」の段階に移っていく。(89頁)
(え)「実体は主体である」、「実体は自己である」、「実体は概念である」!
☆ (A)「意識」(「対象意識」)の段階はなぜⅠ「感覚」から始まるのか?(Cf. Ⅱ「知覚」、Ⅲ「悟性」。)それは「感覚」が最も直接的な、最も自然的な意識の形態だからだ。「物」をさえまだつかんでいないⅠ「感覚」から始めて、次に「物」をとらえるⅡ「知覚」に移り、これから(B)「自己意識」にまで移って行って、「実体は主体である」、「実体は自己である」、「実体は概念である」ということを証明しようとする。(Cf. (A)「意識」(「対象意識」)の段階、(B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階!)(90頁)

(81)-5 体系総論である『精神現象学』!
★『精神現象学』(1807 )において「絶対知」の成立を明らかにしたのち、ヘーゲルは自分の哲学体系の主要部門である「論理学」と「自然哲学」と「精神哲学」(特に「歴史哲学」)を概観し、予告する。これは『精神現象学』が体系総論であることからくる当然のことだ。(309-310頁)
☆ただしそこに説かれている内容は、もはや『大論理学』(1812-1816)や『エンチュクロペディー』(1817)に
関することなので、今は立ち入らない。(金子武蔵氏)(310頁)

《参考》「絶対精神」についての一般的説明:ヘーゲルによれば「精神」の本質は、その「内部」ではなく「外部」にある。すなわち「精神」は「根拠を持たない」。「外部」とは「主観的」・「客観的」なそれぞれ視点で見られる領域である。「主観的」・「客観的」両方の領域を通して「外部」の情報を熟知した上で、初めて「精神」が両方の領域の影響を受けることなく展開し、またそれを自覚・吟味できる。そのようになった状態の「精神」が「絶対精神」だ。
☆「絶対精神」は、「客観的」・「主観的」な全てのあらゆる視点からの思考を含む。ヘーゲルの目的は「哲学の体系」を構築し、そこから「過去と未来」をすなわち「現実の全て」を哲学的に理解できることだった。それらを成せるのは「絶対精神」である。
☆そしてヘーゲルは「絶対精神」が歴史を支配していると考えた。

《参考》ヘーゲル『精神現象学』のこれまでの経過を回顧してみよう。(304頁)
☆段階①《「感覚」→「知覚」→「悟性」》の運動によって「対象意識」が「自己意識」に転換すること。(304頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界

☆段階②「自己意識」に《「欲望」→「主奴」→「自由」》の運動のあること。(304頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》(B)「自己意識」orⅣ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」

☆段階③「自由」(※「無限性」)によって「自己意識」が再び「対象意識」に転換して、「理性」の「あらゆる実在である」という「確信」のえられること。(304頁)
☆段階④この「確信」を「実証」すべく、「理性」は「観察」し「行為」すべきであり、そうすることによって「社会」のうちに安住しうるようになること。(304頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》(C)(AA)「理性」orⅤ「理性の確信と真理」A「観察的理性」(※「観察」)、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(※「行為」)(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(※「社会」)(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)

☆段階⑤「社会」のうちに安住しえたとき人間は「人倫の国」に住むが、これはやがて「法的状態」に移行して「教養」の苦悩が到来すること。(283頁)
☆段階⑤-2 しかしこの「教養」の苦悩を通じて「道徳的確信」のえられること。(283頁)

☆おおよそこのようなこと(①②③④⑤⑤-2)によって、すでに「絶対知」が成立している。(283頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》((C)「理性」)(BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)
Cf. ヘーゲル自身の「良心的道徳」(※(BB)「精神」C「自己確信的精神、道徳性」c「良心、美魂、悪とその赦し」における「赦し」or「やわらぎ」)にあっては、その展開は不十分ではあるが、すでに「絶対精神」が顕現し「絶対知」に到達している。(304頁)

☆段階⑥しかしまだ「宗教」(※(CC)「宗教」A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)が残っている。そのかぎり「意識」(※(A)「意識」、(B)「自己意識」、(C)(AA)「理性」・(BB)「精神」)がまだ「神という超越者」、したがってまた一般に「他者」を負うていることは否定できない。そこでヘーゲルは((C)「理性」)(CC)「宗教」において宗教の諸形態についての展開を行い、それらの完成であるところの(CC)C「啓示宗教」が(BB)Cc「良心道徳」(「悪とその赦し」or「やわらぎ」)と実質において同じであることを証明し、もって「啓示宗教」を「良心道徳」のうちに摂取し、かくして(DD)「絶対知」が真に成立することになる。(304-305頁)
☆この(DD)「絶対知」の成立こそは、ヘーゲルにとっては「現代」の「時代精神」が渇望している課題だ。(305頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》((C)「理性」)(CC)「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」
Cf. 《『精神現象学』目次》((C)「理性」)(DD)「絶対知」

(82) 《精神》における(イ)「実体性の段階」、(ロ)「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、(ハ)「実体性恢復の段階」!「弁証法的知識」すなわち「絶対知」、言いかえれば「実体は主体である」という証明!(※(59)-9“《参考》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』において「実体」について言及された主な箇所一覧!”の再録)
《参考1》ヘーゲルは「自分の哲学の精神史的必然性」を説明する。そこには「3つの段階」が区別される。それは《精神》における(イ)「実体性の段階」、(ロ)「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、(ハ)「実体性恢復の段階」である。(62頁)
《参考1-2》(イ)《精神》の「実体性の段階」:「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代!(63頁)
☆「実体性」とは「普遍的・全体的・絶対的なもの」のことだ。これに対して「部分的・個別的・相対的・有限的なもの」は(「実体」に対する)「属性」にあたる。「属性」は「実体」に依存するだけで、「実体」からの独立性をもたない。(63-64頁)
☆「有限的・相対的・個別的・部分的なもの」は、すべて「絶対的・全体的・普遍的なもの」に依存しているという状態が「実体性の段階」だ。
☆これは具体的には「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代だ。すなわち人間がキリスト教において「絶対的普遍的」なものに帰依し、それを信仰している段階だ。
「かつて人間は思想と表象との広大なる富をもって飾られた天国を所有していて、ありとしあらゆるものは光の糸によってこの天国に繋がれ、この糸によってその意義をえていた。人間のまなこも『この』現在に停滞することなく、光の糸をたどって現在を越えて神的なる実在を、いわば彼岸の現在を仰ぎ見ていた。」(ヘーゲル)
《参考1-3》『精神現象学』の本文でヘーゲルが「(イ)《精神》の「実体性の段階」:「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代」について述べるのは、『精神現象学』が「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」の3段階から成りたっているという見方からすれば「(B)自己意識」の最後の段階である「不幸なる意識」においてだ。(63-64頁)
☆また『精神現象学』が「Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性、Ⅳ自己確信の真理性、Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知」の8つの段階から成りたっているという見方からすれば、ヘーゲルが「(イ)《精神》の「実体性の段階」について述べるのは、「Ⅶ宗教」のうちの最高のものである「絶対宗教」(※「啓示宗教」)においてである。(64頁)
《参考1-4》「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(62-66頁)
・(イ)《精神》における「実体性の段階」、すなわち「中世キリスト教」の信仰の時代!
・(ロ)《精神》における「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、すなわち「ルネッサンス」から「啓蒙」の時代!
・(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場!
・(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場:「悟性の反省」の媒介の意義を十分に認めたうえで「実体性」=「直観され表象された全体」を恢復する。
《参考1-5》ヘーゲルは現代を、(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」と考える。これには2通りあるとヘーゲルは言う。すなわち(A)「直接知」の立場と(B)「絶対知」の立場だ。(65頁)
☆(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場:これは(ロ)「反省・媒介の段階」すなわち「ルネッサンス」・「啓蒙」の時代の「有限性」の立場を嫌悪するのあまり、「悟性」を抹殺して直接に「絶対性」の立場へ逆転しようとする立場!「永遠なもの・絶対的なもの・無限なもの」を「悟性」を媒介することなく、直接的に「感情・情緒」といったもので捉えることができると考える。かくて「悟性」とか「反省」を全く軽蔑する!「ロマンティスィズム」の立場!(65頁)
☆(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場:「悟性の反省」の媒介の意義を十分に認めたうえで「実体性」=「直観され表象された全体」を恢復する!「定立」と「反定立」とを区別した上で「統一づける」という「思弁的理性の立場」!(65頁)

《参考2》「悟性の立てる規定」は「それとは反対の規定」を呼び起こし、「定立」(テーシス)が「反定立」(アンチテーシス)に転じないわけにいかない。こうして一つの思惟規定に対し、反対の思惟規定が立てられ、これら二つの思惟規定が「互いに他に転換する」ことによって「統一づけ」られる。(67頁)
《参考2-2》この「統一づけ」は2つあるとヘーゲルは考える。一つは(悟性的な)「定立」と「反定立」とを区別した上で「統一づける」という「思弁的理性の立場」だ。(67頁)
☆もう一つは「定立」と「反定立」の区別を全然なくして「統一づける」という「神秘主義の立場」だ。だがこれは、「直接知」の立場にほかならない。これは最初の「実体性の立場」に簡単に帰ってしまうものだ。(67頁)
☆これではいけないのであって(悟性的な)「定立」と「反定立」とを統合しはするけれども、どこまでも悟性的な区別を認めた上での統一であることが必要だ。真の理性は悟性的理性だ。これが「思弁的理性の立場」からの(悟性的な)「定立」と「反定立」の「統一」だ。(67頁)
《参考2-3》このようにして、最初に「直観され表象される具体的な《全体》」(「統一」)がありこれが「悟性」によって「分割」され(「定立」と「反定立」)、その「分割」を通じて「統一」が再び恢復され、その「恢復された統一」において初めて「真の真理」が実現される。(67頁)
《参考2-4》このことをヘーゲルは次のように述べる。(68頁)
「《生き生きとした実体》は真(マコト)は『《主体》であるところの有(※存在)』であって、換言すれば『《自分自身を定立するという運動》、または《自分自身の他者となること(※悟性的諸規定)と自分自身とを媒介し調停する働き》であるかぎりにおいてのみ、真に現実的であるところの有(※存在)』である。
・かかる実体は《主体》であるから、①全く純然たる否定の働きであり、だからこそ単純なるものを分割して二重にする働き(※悟性的諸規定の付与)ではあるけれども、それでいて②《相互に交渉なきこの差異項とその対立》(※悟性的諸規定)とを再び否定しもする。
・《真理》とはかかる《再興される同一》または《他在(※悟性的諸規定)のうちから自分自身への『還帰』(反省)》にほかならないのであって、《根源的なる統一》または《無媒介の統一》そのものではない。
・《真理》とは《おのれ自身となる過程》であり、《終わりを目的として予め定立して初めとなし、そうしてただ実現と終わりとによってのみ現実的であるところの円周》である。」(68頁)
《参考2-5》「根源的統一」というものは「真理」でなく、「一度分割されることを通じて再興された統一」が初めて「真理」である。こういう「弁証法」Dialectic が無限に繰り返されてゆくところに、「《真理》が《主体》である」というゆえんがあり、また「絶対知」が成立をみるというわけだ。(68頁)
《参考2-6》「悟性の反省」(※悟性的諸規定を与えること)は、たしかに「人間」を「普遍的・全体的・絶対的なもの」から「個別的・部分的・相対的なもの」に導き、したがって実生活においても個人の悦楽や幸福を求めさせることになる。(Cf. 《世間知》《専門知識》を得て実利を得ること?)(68頁)
☆「悟性の反省」は「ただ漠然と直観せられ表象せられ情感せられている《全体》」(※これが「実体」だ!)を、「明確なる《思惟規定》」、しかも「自我一般のもつところの《思惟規定》」にまで分割し分析し、最初の「直観や表象」のまぬがれえなかった「個人性や主観性」を洗い落とすところに積極的意義をもつ。(68-69頁)
《参考2-7》ただ「悟性」の欠点は、個々の「思惟規定」に執着して動きのとれないところにあるが、しかし固執も極限まで行けばかえって「反対の規定」を喚起するから、それはおのずと「理性」となって最初の「全体性」が恢復せられ(「規定」の「統一」がなされ)、しかも「悟性」の与えるものは「自我一般」の「思惟規定」であるから、その「統一」はもはや「実体」ではなくして「主体」である。(69頁)
《参考2-8》「悟性の反省」の「媒介」を通ずることによって、「実体」は「主体」となる。じつは「実体」を「主体」に転換させることこそが『精神現象学』の目的だ。(69頁)

《参考3》「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場:「主語」たる「サブスタンス」(「実体」)そのものが、我々の「主観」と同じように「生けるもの」、「自分自身で自分自身の内容を反省し、それを深めてゆく」!(73頁)
☆「普通の認識」に対して、「真の絶対知の立場」においては、「主語」は「不動の実体」というものではない。「絶対知」における「主語」は「存在的・客体的なもの」ではない。(73頁)
☆「絶対知の立場」においては「主語」たる「サブスタンス」(「実体」)そのものが、我々の「主観」と同じように「生けるもの」、「自分自身で自分自身の内容を反省し、その反省を自分自身で深めてゆく」ものである。(73頁)
☆そういうところに初めて「真の哲学的認識」が出てくるとヘーゲルは言う。(73頁)
☆ヘーゲルでは、文法上の「サブジェクト」(Cf. 「主語」)に当るものが、我々人間と同じような「サブジェクト」(Cf. 「主体」・「主観」)だ。「サブジェクト」は、「自分は何々である」という判断を、自分自身で行う。(73頁)

《参考4》ヘーゲル『精神現象学』「序論」において示されているヘーゲル哲学の根本的な命題は「実体は主体である」ということだ。(88頁)
☆この命題「実体は主体である」を証明するのが『精神現象学』全体を通ずる課題だ。(88頁)
☆これをもっとも手近な範囲において実行しようというのが、(A)「対象意識」(or「意識」)の段階のねらいだ。(Cf.  (B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階。)(88頁)
《参考4-2》「実体」とは、基本的・常識的な意味は「物」Ding ということだ。(88頁)
☆「物」(Ex. 白墨)は「性質」(Ex. 白い・一定の重さ・一定の比重・味など)をもつ。それらいろんな性質が「属性」だ。(88頁)
☆いろんな性質をもつ「物」において、その性質は哲学的には「属性」であり、文法的には「述語」である。「物」(Ex. 白墨)は「主語」あるいは「実体」である。(88頁)
☆「物」は性質をもっている。(Ex. 「この牛は白い」or「この馬は黒い」。)「実体」は直接的には「物」Dingである。(88-89頁)
《参考4-3》ヘーゲル哲学の根本的な命題である「実体は主体である」という命題(テーゼ)を証明しようとするならば、「物」というものが、じつは「対象的に存在するもの」ではなくて「主体」であることor「自己」であることor「概念」であることを証明しなくてはならない。(89頁)
☆「主体」は、ヘーゲルにおいては「概念」のことであり、「概念」は最も「自己」的なものであり、「概念」は「自己」であるとさえ言われる。(89頁)

《参考5》 (A)「対象意識」(「意識」)の段階はなぜⅠ「感覚」から始まるのか?(Cf. Ⅱ「知覚」、Ⅲ「悟性」。)それは「感覚」が最も直接的な、最も自然的な意識の形態だからだ。「物」をさえまだつかんでいないⅠ「感覚」から始めて、次に「物」をとらえるⅡ「知覚」に移り、これから(B)「自己意識」にまで移って行って、「実体は主体である」、「実体は自己である」、「実体は概念である」ということを証明しようとする。(Cf. (A) 「対象意識」(「意識」)の段階、(B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階!)(90頁)
《参考5-2》「概念」という点からいうと(A) 「対象意識」(「意識」)Ⅲ「悟性」の段階において、「法則」というものが出てくる。「法則」は「主体としての概念」の「客観的な存在的形式」をとったものだ。(90頁)

《参考6》「認識主観」と「認識客観」は「根柢において同一のもの」の表現であり、両者を超えた「統一」がある!「対象意識」の立場(「B」や「C」を「意識する」)が、「自己意識」(「自己Aを意識する」)にうつってゆく!(123頁)
《参考6-2》「悟性」は「物の内なるもの」をつかむが、その「内なるもの」とは「無限性」であり、しかして「無限性」とは「根柢の統一が対立分化し、その対立がまた統一にかえる」という「運動」だから、「悟性認識の対象」は「物の内なるもの」ではあっても、それは「主体としての、自己の内なるもの」とは別のものではない。「対象の内なるもの」と、「自己としての内なるもの」つまり「主体としての内なるもの」とは同じものだ。(123頁)
《参考6-3》このようにして「対象意識」は「自己意識」に転換してゆく。「対象意識」も真の本質からいうと「自己意識」だ。かくて「実体は主体である」というヘーゲルの根本テーゼが出てくる。(124 頁)

《参考7》「人倫」の見地をいれると、「他者(※対象or他我)を意識する」のは「自己を意識する」ことであり、「自己を意識する」のは「他者(※対象or他我)を意識する」ことであるというのも、非常に充実した意味をもってくる。(135頁)
☆「《自己意識》の全き自由と自立とを具えた《両項の統一》であるところの《精神》というこの《絶対的実体》」、換言すれば「『我々なる我』であり『我なる我々』であるところの《精神》」とヘーゲルが述べるように、「無限性」は「精神」であり、その「精神」は「我々なる我」、「我なる我々」である。(135頁)
☆ヘーゲル『精神現象学』の「精神」は根本的には「人倫的生活」と分離しえない。(135頁)
☆したがって、この「無限性」を本来の「対象意識」(天文学者が月を観測して惑星の軌道を考えるというような「対象意識」)にもってくると、それは本来的には成り立たない。(135頁)
☆「『私が机を意識する』ということは『私を意識する』ことであり、『私を意識する』ことは『机を意識する』ことである」というのは、変なものではないかという「疑惑」が残る。だが「人倫的関係」をいれると、少なくともある程度までは、この「疑惑心」は解ける。(135頁)

《参考8 》翻って考えてみると、「序論」においてヘーゲル『精神現象学』の目的は、「反省」の媒介を尊重しつつ「実体性を恢復する」ことだと述べた。(155頁)
《参考8-2》ところで「実体性の立場」とは「個人が独立性を主張せずに絶対者に帰依し、あたかも(個人が)実体に対する属性のごとくそれ(実体)に帰属している」というものだ。(155頁)
☆したがって「実体性の立場」とは「信仰の立場」だ。(155頁)
☆「中世クリスト教」のもとにおける「人間」が、「日々の糧」も「能力」も「才能」も「神の与え給うところのもの」であると感じて「感謝」し、「貪らず所有を喜捨寄進」し、また「なにごとについても教会の指示を仰いで生活」していたということは「実体性の立場」にほかならない。(155頁)
《参考8-3》実をいうと「実体性の立場」が、「恢復せらるべき、また分析せらるべき全体」として『精神現象学』のかくれた前提だ。(155頁)
☆この観点からすれば「感覚」・「知覚」・「悟性」という(A)「対象意識」の諸段階も、また(B)「自己意識」の諸段階も、じつは「反省」の分析によって定立せられたものにほかならない。(155頁)
《参考8-4》(B)「自己意識」の最後の段階である「不幸なる意識」(クリスト教)において「実体性が恢復された」が、これはいいかえると「実体が主体となった」ことを意味する。(155頁)
☆「不幸なる意識」(中世カトリック教orクリスト教)を通ずることによって、「理性という絶対知」が到達せられた。(155頁)
《参考8-5》「反省の媒介」にはまだ不十分なところがある。その不十分を補うのが、今後の叙述((C)(AA)「理性」・(BB)「精神」・(CC)「宗教」・(DD)「絶対知」)の目的だ。(155頁)

《参考9》☆さて歴史哲学的にいって『精神現象学』の全体を通じて、「実体性」の段階と「反省」の段階と「実体性恢復」という3段階の区別が重要だ。(191頁)

《参考10》歴史哲学的には、『精神現象学』のうちにはいつも「実体性の段階」と「反省の段階」と「実体性恢復の段階」とがある。「観察の段階」((C)(AA)「理性」A「観察的理性」)も背後に「実体性の段階」として「中世クリスト教」を負うている。しかしまさにここにヘーゲルの特色もまた弱点もある。(金子武蔵氏)(163頁)
《参考10-2》「近代的理性」がその誕生の背後に負うている「実体性」は「信仰」だが(「実体性の段階」)、これに「反省」が加えられ(「反省の段階」)、「分裂」が生じ、いろんな段階が定立される。(C)(AA)「理性」1「観察」も、2「行為」も、3「社会」も、またそれぞれの小区分も、かくして生じたものにほかならない。(金子武蔵氏)(192頁)
《参考10-3》「反省」(「反省の段階」)によって生じた「分裂」を通じて「恢復されるもの」は再び「実体的なもの」だが(「実体性恢復の段階」)、この「恢復せらるべき実体性」(ヘーゲルの「目標」!)は究極的には「クリスト教」だ。(C)「理性」(DD)「絶対知」のすぐ前に、(CC)「宗教」C「啓示宗教」があるのは、このためだ。(金子武蔵氏)(192頁)

《参考11》ヘーゲル『精神現象学』は、「もっとも直接的な意識」であるⅠ「感覚」から始めて、哲学知であるⅧ「絶対知」にまで到達せんとするものとして、ヘーゲル哲学の①「認識論的序説」だ。(220頁)
《参考11-2》しかしヘーゲルは、人間の「意識」がもつ「社会性と歴史性」を高調するので、「個人意識の発展」は「世界精神の史的発展」を実体として背負うことになり、その結果として『精神現象学』は②「歴史哲学」としての意義を具える。(220頁)
《参考11-3》さらに一般に、「絶対」は「相対」を離れたものでなく、「相対」における「現象」をほかにして「絶対」のなんたるかを示し得ないという理由によって、『精神現象学』はそれ自身すでに③「精神哲学」・「哲学概論」の意義を持つ。(220-221頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」3「現代(あるいは絶対知)」(その1):「対象」は「内なるもの」にほかならない!「対象」が「主観」へまでおりてきてくれる!

2024-09-13 12:18:53 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」3「現代(あるいは絶対知)」(305-314 頁)
(80)ヘーゲルは「宗教」は「『絶対実在』を『自己』として認識する」ことであるとする!「宗教」として「最高のもの」は「啓示宗教」(「クリスト教」)である!
★さて(CC)「宗教」(A「自然宗教」・B「芸術宗教」・C「啓示宗教」)では、ヘーゲルは「宗教」は「『絶対実在』を『自己』として認識する」ことであるから、「宗教」として「最高のもの」は、「受肉の教義」をもって特徴とする「クリスト教」という「啓示宗教」・「絶対宗教」であると述べた。(305頁)

《参考1》今までは「表象性」の立場、「対象意識」の立場、「即自存在」の立場において「絶対知」を成就した「古代」を、その「宗教」((CC)「宗教」A「自然宗教」B「芸術宗教」C「啓示宗教」)を中心として、述べてきた。(金子武蔵氏)(255頁)
☆これからは「絶対知」を「自己意識」あるいは「対自存在」の立場において実現していく「中世から近代へ」の運動すなわち《 (BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」Ⅱ「啓蒙」Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」》について述べる。(金子武蔵氏)(255頁)
☆そして最後に「2つの立場が綜合される現代」すなわち《 (DD)「絶対知」》について述べる。(金子武蔵氏)(255頁)
☆「絶対知」を「自己意識」あるいは「対自存在」の立場において実現していく「中世から近代へ」の運動((BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」C「自己確信的精神、道徳性」)の出発点は、「ローマ帝国」の時代、ヘーゲルが(BB)「精神」A「人倫」の段階の《c「法的状態」》と呼ぶものだ。そしてこれにはギリシャの「ポリス」即ち (BB)「精神」A「人倫」の段階の《a「人倫的世界」b「人倫的行為」》が前提となっている。(255頁)

《参考2》《「宗教」の「古代的」系列》と《「道徳」の「近代的」系列》との綜合:《「現代」の「絶対知」》!(225頁)
☆(CC)「宗教」の方向は「表象性」・「客体性」の方向であって、ここにはA「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」という「古代的」系列がある。(225頁)
☆「道徳」の方向は「思惟性」・「主体性」の方向であって(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」という「近代的」系列がある。(225頁)
☆そうしてこれら2つの系列(「古代的」系列と「近代的」系列)を綜合する(DD)「絶対知」は「反省を媒介として恢復された実体性」としての(四)3「現代」にほかならない。(225頁)

《参考2-2》(CC)「宗教」において、「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階、次いで「エジプトの宗教」は(B)「自己意識」の段階のあけぼの、そして「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は本来の(B)「自己意識」の段階にあたる!(227-228頁)
☆ヘーゲルにおいては「宗教」には「東方」と「西方」との区別があり「東方の宗教」(A「自然宗教」)が(A)「対象意識」の段階にあたるのに対し、「西方」の宗教である「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は(B)「自己意識」の段階にあたるとされる。(227頁)

《参考2-3》(C)「理性」において、(BB)「精神」から(CC)「宗教」をへて(DD)「絶対知」にまで至る運動には、普通のいい方をすると「道徳」と「宗教」という2つの方向があり、ヘーゲル『精神現象学』のテキストでは外形上、「道徳」((BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」)から「宗教」((CC)「宗教」)へ連続して進むとなっているが、むしろ「道徳」と「宗教」の2つの方向はそれぞれ独立のものとして相互に並行して進み、そうして最後に(DD)「絶対知」において両者(「道徳」と「宗教」)が綜合されるのだ。(金子武蔵)(225頁)

《参考2-4》『ヘーゲルの精神現象学』後半:《 (C)「理性」:(BB)「精神」(Ⅵ)、(CC)「宗教」(Ⅶ)、(DD)「絶対知」(Ⅷ)》の「史的叙述」!(DD)「絶対知」は《「絶対実在」を「自己」として意識するC「啓示宗教」》の「表象性」を剥奪して成立する!(224-225頁)
☆((C)「理性」)(BB)「精神」は最初A「人倫」(a「人倫的世界」b「人倫的行為」c「法的状態」)であるが、やがてその直接的統一が破れて、B「教養」の段階(Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」)において分裂に陥り、これが最後にC「道徳性」の段階(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心」)において、とくにc「良心」において克服される。(224頁)

《参考2-4-2》☆終点は(DD)「絶対知」であるが、これは《「絶対実在」を「自己」として意識するC「啓示宗教」》のまだまぬがれことのできない「表象性」を剥奪することによって成立する。(224頁)
☆しかしC「啓示宗教」からの「表象性」の剥奪が、(a)「自己」の側からのみするものであるときには(DD)「絶対知」も「主観的」たるをまぬがれないから、むしろ(b)「対象」の側からするものであるべきだが、実はこれはすでに成就されている。(224頁)
《参考2-4-3》☆C「啓示宗教」からの「表象性」の剥奪が(b)「対象」の側からなされているとは、
「対象」は①「自体存在」の側面と②「対他存在」の側面と③《両者(①②)を包含する「内なるもの」あるいは「普遍者」》という3つの側面(①②③)を具えているが、最初の①「自体存在」を究極まで押し詰めたものは(C)(AA)「理性」A「観察」であり、また②「対他存在」の側面は(BB) B「教養」Ⅱ「啓蒙」の有用性の立場であり、さらに③《両者(①②)を包含する「内なるもの」あるいは「普遍者」》は(BB)C「道徳性」c「道徳性の良心」であるが、この「良心」においてすでに「対象」自身が「自己」となっているということだ。(224頁)
☆そこでヘーゲルは(CC)「宗教」C「啓示宗教」と「良心道徳」((BB)「精神」C「道徳性」c「良心」)とを比較して両者が実質的には同一であり、したがって「啓示宗教」の「表象性」が克服されるという観点から、(DD)「絶対知」の成立を説く。(224頁)
《参考2-4-4》一般にヘーゲルにとって「知識」は、「直接性あるいは表象性」→「媒介性」→「イデー(理性的知識)」という順序をとって成立する。(225頁)

(80)-2 「啓示宗教」の「表象性」・「対象性」を剥奪することによって「絶対知」が成立する!
★さて(CC) 「宗教」は「『絶対実在』を『自己』として認識する」が、その「最高のもの」である「クリスト教」or「啓示宗教」にしても、「宗教」である以上、「表象性」をまぬがれえないから、これを剥奪しなくてはならない。そこにはじめて真の「絶対知」が誕生する。(305頁)
☆けだし「表象性」は「対象性」であって、「絶対知」の成立を妨げるからだ。(305頁)

★「啓示宗教」の「表象性」・「対象性」を剥奪するということも、これを「主観」の方からばかりやったのでは「主観的」になってしまって、本当の意味の「絶対知」は来ない。(305頁)
☆むろん「主観」の方から行うことも必要であり、そこにヘーゲル『精神現象学』の全体を通じて、(B)「自己意識」(orⅣ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)の立場がもつ意義がある。(305-306頁)

《参考1》②「スケプシス主義」(「懐疑主義」)は、①「ストア主義」がないがしろにする「個別的特殊的のもの」に目をそそぎ、これを「否定」し、もっと「自由」を「現実的」に実現しようとする。(147頁)
《参考1-2》②「スケプシス主義」はいつもすべてを「否定」してゆく。しかし「否定」してゆくには、「否定せられるもの」がなくてはならないわけで、「否定せられるもの」がいつも「向こうから現れて」くれねばならない。(148頁)
☆そこで②「スケプシス主義」は、「絶対の自由」すなわち「アタラクシアの自由」に到達したようでありながら、じつは「個別」や「特殊」にやはり依存する。(148頁)
☆すなわち②「スケプシス主義」は「感覚を否定」し、「知覚を否定」するといいながらそれに依存し、「支配隷従のおきては相対的のものにすぎぬとして否定」するといいながらそれに依存する。かくてここに②「スケプシス主義」が「アタラクシア」(無関心)(「心の平静」)を完全に実現しえぬゆえんがある。(148頁)
《参考1-3》②「スケプシス主義」において、「人間」は「自己矛盾」を痛切に自覚し、一方で「普遍的」でありながら、他方で「個別的」のものに纏綿(テンメン)される(からみつかれる)という「矛盾」を自覚する。(148頁)

《参考2》しかしこの②「スケプシス主義」の「矛盾」、すなわち一方で「普遍的」でありながら、他方で「個別的」のものに纏綿されるという「矛盾」は、「同一の自己意識」に属するから、これを「統一」づけようとする新しい段階が生じる。これが③「不幸なる意識」(クリスト教的意識)だ。(148頁)
☆「不幸なる意識」(クリスト教的意識)とは、「個別的可変者」(人間)と「普遍的不変者」(神)との「分裂」からおこる「不幸」を克服していない意識だ。(150頁)

《参考2-2》(1)「純粋意識」の段階としての「中世カトリック教の意識」(「不幸なる意識」)は、「帰依・信仰」の段階だ。まだ「概念」の立場に至っていない。「人間の誰しもが『人の子』であると同時に『神の子』である」ことは知られているが、それは「ボンヤリとわかっている」にすぎず、「やはり『神の子』はイエスだけである」と個別的感覚的に考える。それは「概念あるいは思惟Denken」と「感覚」との中間にとどまった「帰依An-dacht」という態度だ。すなわち「思惟そのもの」には到達せず、「思惟にむかっているにすぎぬ段階」だ。(151頁)
☆「音楽を奏しミサの儀式を行じて、クリストを憧憬する」という中世人の宗教意識!(151頁)
☆ここでは「普遍的なもの」(※神)はけっきょく「個別的のもの」(※人間)としてとらえられているから、おのずと「聖墓を恢復しようとする運動」も生じる。すなわち「クリストの聖墓がトルコ人に占領されているから、ぜひ恢復しようという十字軍の運動」がおこる。(151頁)

《参考2-3》「中世カトリック教」の意識(「不幸なる意識」)の(2)「現実意識」の段階!「この『地上』も決してけがれたものでなく、『神聖なる神意』の表現として清浄なものである」!だが「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」はなお消え失せていない!(152-153頁)
☆「『神』を『精神』として内面的にとらえよう」とする努力によって、(a)「『人間』も罪を負う『人の子』であるとともに『神の子』である」という自覚がえられ、(b)「『神』も『人間の形態 Gestalt』をもったもの」であり、いな(c)「『人間』にかぎらず『形態をもつもの』はすべて『神』の現れである」ところから、(d)「この『地上』も決してけがれたものでなく、『神聖なる神意』の表現として清浄なものである」ことになる。(152頁)
☆そうなると「欲望し享楽するというような現実的活動」も「決してけがれたものでない」とされる。(152頁)
☆「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」はすでに解決されているといってもよいかのように思われる。(152頁)
☆だが「中世カトリック教」のこの(2)「現実意識」の段階においては、「分裂」はすでに解決されているわけではない。①なるほど「人間」はいろいろと「享楽することができる。しかしこれは(「人間」の)「自分の力」によることではない。「日々のパン」も「野原の羊」も「それからとった着物」などはすべて、「神」から与えられたものだ。①-2だから「彼岸的なもの」(「神」)が別にあり、「人間」である自分自身には十分な「現実性」はなく、十分の「力」もないということになる。(152頁)
☆また②「労働」していろいろの「欲望」を充足するには「才能や努力」がいるが、これらも「神」によって与えられたものである。(152-153頁)(Cf.  神の「gift」=「才能」!)
☆かくて「永遠の聖なる神」と「みにくき個別的自己」(「人間」)との「分裂」はまだ十分に克服されていない。(153頁)
☆もっとも、日々のパンも神が賜うたものであるから「人間」は神に感謝し、そうして「神」は食物や才能をも人間に与えるというように、「『神』と『人』との間に『相互承認即ち完全なやわらぎ』が成り立つ」ように思われる。しかし「人間」には(ア)「『神』に感謝しているから、これぐらいなことはやってもよいだろう」というように、「神への感謝」を「誇り」・「功徳」にするという「私」(※私情)(※「個別性」)があり、また(イ)「人間」の「欲望や享楽の意志」には「個別性」が残っていることは明らかである。しかも他方「神」は「個別性」を超えた、したがって「普遍的絶対的」のものだから、「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」はなお消え失せていない。(153頁)

《参考2-4》「中世カトリック教」(「不幸なる意識」)における(3)「現実意識の自己否定」の段階!(153-154頁)
☆「中世カトリック教」の(2)「現実意識」の段階における、「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」を克服するには、(3)「現実意識の自己否定」が必要だ。(153頁)
☆ここでヘーゲルは「中世の禁欲主義(アセティスィズム)」を生かそうとする。(153頁)
☆ヘーゲルは「アセティスィズム」が「『個別性の否定』即『普遍性の定立』ということによって『絶対者とのやわらぎ』を得させる」ことについて述べる。(153頁)
☆「中世の禁欲主義(アセティスィズム)」は(a)「労働」によって獲得した所有物を投げすて「喜捨」し「寄進」する(※「個別性の否定」)のみならず、(b)なにごとについても「教会」に相談し(※「普遍性の定立」)、その指示を仰ぎ、(b)-2 「自分では決定せず」、即ち「自分の意志を放棄」し、したがって「自己のすべてを放棄する」が(※「個別性の否定」)、(c)これは「単なる否定」にとどまるのではなく、「『個別性の否定』即『普遍性の定立』ということによって『絶対者とのやわらぎ』を得させる」。(※これこそ「中世カトリック教」の意識のの段階の(3)「現実意識の自己否定」の段階だ!)(153頁)
☆「中世カトリック教」において、「絶対者とのやわらぎ」が「免罪」Ablassというかたちであらわれてくる。(153頁)
☆「免罪」はがんらい「懺悔」contritio および「告白」confessio と結びついたものだ。なにか「罪」を犯したときには、悔恨し「懺悔」しなくてはならないが、これをさらに「僧侶」に告白することが要求される。このとき「僧侶」はそれぞれの「罪」に応じて「祈り」とか「喜捨」とか「巡礼」とか(「※「禁欲主義」の「禁欲」の諸内容に相当する)を課す。これらを果たすことによって「免罪」absolutio が宣告される。ヘーゲルはこの「免罪」ということを生かして一般に、「禁欲」を通じて「罪」が赦され「神とのやわらぎ」が成立するという意味に用いる。(153-154頁)
☆むろん「免罪」を行うものは「教会」・「神」である。「免罪」は、「天」からくるものであって「自分」でうるものではない。したがって充実した権能をもつのは「教会」や「神」であって、「信者」ではない。(154頁)
☆しかし「教会」や「神」が充実した権能をもつのは、「個別者」が「帰依」するからだ。例えば「信者」が「喜捨」するからこそ立派な「寺院」(「教会」)も建つ。(154頁)
☆かくて「禁欲主義(アセティスィズム)」によって、「個人」がかえって「絶対的自由」を獲得する。すなわち「個別」(※「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(※「神」or「教会」)を実現し、「主体」(※「個人」・「信者」)が「客観」(※「神」or「教会」)に転換するとき、「自己意識」(※「個人」・「信者」)は「対象意識」(※「神」or「教会」)に結びつく。(154頁)
☆この結びつきにおいて「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの「絶対知」の根本的境地だ。この意味で「免罪」というのは「教会や神」がゆるすのではなく、「絶対」の機能をもつようになった「自己意識」が自己自身でゆるすことになる。それで「中世のアセティスィズム(禁欲主義)」があって初めて「近世的な理性」が生まれることができると、ヘーゲルは考えている。(154頁)
☆このようにして今や、(A)「(対象)意識」から、(B)「自己意識」をへて、両者の統一としての(C)「理性」の段階にまでたどりついた。(154頁)

(80)-3  かくて(A)「対象意識」(「意識」)の方から「啓示宗教」の「表象性」・「対象性」を剥奪し「絶対知」に至る!
★「啓示宗教」の「表象性」・「対象性」を剥奪することによって「絶対知」が成立するが、これを「主観」((B)「自己意識」)の方からばかりやったのでは「主観的」になってしまって、本当の意味の「絶対知」は来ない!かくて(A)「対象意識」(「意識」)の方から「啓示宗教」の「表象性」・「対象性」を剥奪し「絶対知」に至る、つまりこの場合(A)「対象意識」(「意識」)の方が重大な意義をもつ。!(305-306頁)

★当面の「クリスト教」についていえば、「神」の方で「人間」にまでおりてきてくれることが必要だ。(306頁)
☆しかし(A)「対象意識」といっても、ヘーゲルでは「弁証法的」なものであって、おのずと(B)「自己意識」の側面をも含むものだから、けっきょくのところ(A)「対象意識」の方が重要だということだ。(306頁)

(80)-4 「『対象』の方で『主観』までおりてきてくれる」という意味で、どうして「クリスト教」の「表象性」が剥奪されうるのか?ヘーゲル『精神現象学』においてこれまでに述べられたことはすべて「対象性」の克服にほかならなかった!「対象」はじつは「内なるもの」にほかならない、すなわちすでにここに「『対象』の方で『主観』へまでおりてきてくれる」ということが成り立つ!
★それでは「『対象』の方で『主観』までおりてきてくれる」という意味で、どうして「クリスト教」の「表象性」が剥奪されうるのか?(306頁)
★ヘーゲルによると『精神現象学』においてこれまでに述べられたことはすべて「対象性」のこのような克服にほかならなかった。(306頁)
☆即ちいったい「対象」には①「自体」の面と、②他のものと関係しているという「対他」の面と、さらに③「自」と「他」とを「綜合」した面という3つがある。(306頁)
★このことに応じて、(A)「対象意識」の段階において①「感覚」と②「知覚」と③「悟性」とが展開され、最後の③「悟性」において、すでに「対象」がじつは「内なるもの」にほかならないことが明らかにされた。すでにここに「『対象』の方で『主観』へまでおりてきてくれる」ということが成り立つ。(306頁)

《参考1》「知覚」の段階を以下3つに分けてみてゆく。イ「物」、ロ「錯覚」、ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」。(100-101頁)
☆「物」は本来「矛盾」したものだ。それを「綜合」した立場がとられなくてはならない。しかし「矛盾の綜合」は「感覚(or知覚)を超えた叡知」にしてはじめてできる。真の真理は「感覚」(or「知覚」)を超えた「叡知」にしかつかめないが、それが「悟性」だ。(107頁)
☆「物」の矛盾(「知覚」の段階)は、すでに述べたように、「一でありながら多くの性質をもつ」という意味において「一と多との矛盾」だ。(107頁)
☆さらに「物」の矛盾(「知覚」の段階)は、「自と他との矛盾」でもある。「一つの物」は「一つの物」だが、その物がその物であるのは、なにかの「限定」による。その限定はその物のもつ限界だ。しかし「一つの物」だけでは「限定」はありえない。「他の物」があって、それとの関係において初めて「限定」は成立する。それゆえ「一つの物」は「他の物」との関係を含む。ここに「即自」と「対他」との矛盾がある。(107頁)
☆「一つの物」といってもその物だけでは「一つの物」とはいえず、「他の物」があって初めてその物であるから、「即自」と「対他」とはどこまでも「同一物」に帰属する。ある「物」は「即自的」であるが、まさにそのかぎりにおいて同時に「対他的」だ。けっして「即自」と「対他」は切り離すことができない。(107頁)

《参考2》「物的な普遍性」に対して、「物」を超えて背後に、その奥にあるもの、「内なるもの」(「無制約的普遍性」)をつかまなくてはならない!「知覚」の段階から「悟性」の段階へ!
☆しかし矛盾を矛盾としている立場はまだ感覚的(or知覚的)だ。「矛盾対立の彼方にある『内なるもの』」をつかんで初めて我々は本当の「真理」をとらえることができる。それはもう「感覚」(or「知覚」)のよくするところではない。それは「無制約的普遍性 unbedingte Allgemeinheit」、もはや「物」的でないところの普遍性だ。「知覚」はまだ「物的な普遍性」を離れえない。あるいは「性質」はまだ「感覚的な普遍性」だと言っても同じことだ。(108頁)
☆「知覚」段階の「物的な普遍性」に対して、「物」を超えて背後に、その奥にあるもの、「内なるもの」(「無制約的普遍性」)をつかまなくてはならない。だがそれは、それはもはや「知覚」のなし得るところではない。そういう「超感性的なもの」をつかむのは「悟性」だ。そういうわけで「知覚」が「悟性」に移って行く。(108頁)

《参考3》「知覚」の段階において「個別と普遍」、「一と多」、「即自と対他」、「自と他」といった対立が、互いに他に転換して切りはなすことのできないものであることが、明らかになった。(109頁)
☆それら諸対立なかで、「一と多」という対立は、両者が切り離せないから、「一」の方もすぐ「多」になり、「多」の方もすぐ「一」になるという「相互転換」を意味した。したがって「一」というものは「多」となっておのれをあらわすべきものであり、「多」もまた「一」が外にあらわれて呈する姿にほかならないので「一」に還帰する。かくて「一と多との対立」は、「力」と「その力が外に現れた『外化あるいは発現』」の対立にほかならない。(109頁)
☆この意味で「一と多とが切りはなせない」というのは、「物」がもはや「物」でなく「力」になったことだ。「知覚」段階では「物」を知覚していたのに対して、「一」が「多」と互いに他に転換するという点から見れば、そこには「物」的でない、「制約されない普遍性」すなわち「力」がある。このような意味で、「物」とはじつは「力」(※「内なるもの」)なのだ。(109頁)

(80)-5  ③「悟性」では「内なるもの」としての「対象」を、真に「内なるもの」として、つまり「主体」あるいは「自己」として受けと取られないので、まだなにか「対象的なもの」であるかのように考えられていた!ヘーゲルは《 (B)「自己意識」は、(A)「対象意識」のうちに契機として含まれる》立場をとり、《「感覚」→「知覚」→「悟性」の運動》を徹底化する!第1に「頭蓋論」、第2に「啓蒙」の「有用性」の立場、第3に「自体性」(※第1「感覚」)と「対他性」(※第2「知覚」)とを包括した《「普遍者」あるいは「内なるもの」》を徹底させたものは「道徳性」、特に「良心的自己」だ!
★③「悟性」において、すでに「対象」がじつは「内なるもの」にほかならないことが明らかにされた。もっともこの「内なるもの」は、本当をいうと、すでに「自己」であり「主体」ではあっても、全体の立場がまだ(A)「対象意識」であるために、③「悟性」では「内なるもの」を真に「内なるもの」として、つまり「主体」あるいは「自己」として受けと取られないので、まだなにか「対象的なもの」であるかのように考えられていた。(306-307頁)
☆だから《「感覚」→「知覚」→「悟性」という運動》だけでは不十分で、「その後の運動」が必要となった。(307頁)
☆「その後の運動」というとすぐ(B)「自己意識」が考えられる。しかしヘーゲルは(B)「自己意識」よりも、(A)「対象意識」の方を重く見て、《 (B)「自己意識」は、(A)「対象意識」のうちに契機として含まれる》立場をとる。「対象」はじつは「内なるもの」にほかならないが、そのうちなるものが「主体」あるいは「自己」であることを明らかにするために、ヘーゲルは「その後の運動」として、《「感覚」→「知覚」→「悟性」の運動》を徹底化する。(307頁)

★(ア)第1に《「感覚」あるいは「自体存在」》の面を『精神現象学』全体において究極まで徹底させたのは「観察」((C)(AA)「理性」orⅤ「理性の確信と真理」A「観察的理性」)であり、そのうちでも「頭蓋論」である。(307頁)

《参考》「観察的理性」:「理性が物であり、物が理性である」!ヘーゲルは「精神物理学」的立場や「唯物論」にもその意義を認めようとしている!「唯物論」(or「頭蓋骨論」or「精神や理性が物である」)は「結合」の一面だけを見て、「分離」の面を全然、忘れている!(186頁)
☆(A)「『観察的理性』は『頭蓋骨』において『精神』の表現をみる」。「頭蓋論」(「骨相術」)は、根本的にいうと「理性が物であり、物が理性である」ということにその根拠を持つ。この根拠によって立つものが「観察的理性」にほかならないのだから、「頭蓋論」は「観察的理性」の極限であり完成だ。(186頁)
☆(B)「理性が物であり、物が理性である」というときの「物」は、「からだ全体」であってもよいし、また「物質的生産力」のごときものであってもよい。ここでヘーゲルは「精神物理学」的立場や「唯物論」にもその意義を認めようとしている。(186頁)
☆(C)しかし「精神や理性が物である」のは「無限判断」の「肯定面」において成立することにすぎない。「無限判断」には、もう一つ「否定面」がある。「無限判断」は「肯定判断」であると同時に「否定判断」だ。(186頁)
☆しかも「結合」においても「分離」においても「無限」だ。(186頁)
☆「否定面」からすると、「精神・理性・自己」に対する「物」、その極限としての「骨」は、「分離」したものだが、この「分離」の面を「頭蓋骨論」(「骨相術」)は忘れていると、ヘーゲルは言う。(186頁)
☆即ち、たしかに「唯物論」(or「頭蓋骨論」or「精神や理性が物である」)も成り立ちはするが、それは「結合」の一面だけを見て、「分離」の面を全然、忘れている。(186頁)

★(イ)第2に《「知覚」あるいは「自と他との関係」》の側面を『精神現象学』全体において究極まで徹底させたのは《「啓蒙」の「有用性」の立場》だ。(307頁)
《参考1》「啓蒙」の主張は、①「理神論」と②「感覚的唯物論」と③「相対論」・「功利主義」との3つだったが、最後のもの(③「相対論」・「功利主義」)は、最初の2つ(①「理神論」と②「感覚的唯物論」)の「綜合」だった。だから「啓蒙」の立場はけっきょく、③「相対論」・「功利主義」に、つまり③「有用性」の立場に帰着する。(292頁)
☆そこでこの③「有用性」の立場から「『有用なもの』の世界」が立てられることになるが、人間はこの③「相対性」(「相対論」)・「有用性」を自覚的に駆使する。これは結局のところ、「世界」は「自己に対するもの」、「自己のためにあるもの」ということを意味する。かくてそこに「絶対自由」の立場が生じる。「フランス革命」はこの「絶対自由」の立場を「現実化」したものにほかならない。(292頁)

《参考2》☆終点は(DD)「絶対知」であるが、これは《「絶対実在」を「自己」として意識するC「啓示宗教」》のまだまぬがれことのできない「表象性」を剥奪することによって成立する。(224頁)
☆しかしC「啓示宗教」からの「表象性」の剥奪が、(a)「自己」の側からのみするものであるときには(DD)「絶対知」も「主観的」たるをまぬがれないから、むしろ(b)「対象」の側からするものであるべきだが、実はこれはすでに成就されている。(224頁)
《参考2-2》☆C「啓示宗教」からの「表象性」の剥奪が(b)「対象」の側からなされているとは、
「対象」は①「自体存在」の側面と②「対他存在」の側面と③《両者(①②)を包含する「内なるもの」あるいは「普遍者」》という3つの側面(①②③)を具えているが、最初の①「自体存在」を究極まで押し詰めたものは(C)(AA)「理性」A「観察」であり、また②「対他存在」の側面は(BB) B「教養」Ⅱ「啓蒙」の有用性の立場であり、さらに③《両者(①②)を包含する「内なるもの」あるいは「普遍者」》は(BB)C「道徳性」c「道徳性の良心」であるが、この「良心」においてすでに「対象」自身が「自己」となっているということだ。(224頁)
☆そこでヘーゲルは(CC)「宗教」C「啓示宗教」と「良心道徳」((BB)「精神」C「道徳性」c「良心」)とを比較して両者が実質的には同一であり、したがって「啓示宗教」の「表象性」が克服されるという観点から、(DD)「絶対知」の成立を説く。(224頁)

★(イ)-2 第2の《「知覚」あるいは「自と他との関係」》の側面を『精神現象学』全体において究極まで徹底させたのは《「啓蒙」の「有用性」の立場》だが、「古代」においてこれに応ずるものは「喜劇」の意識だ。(307頁)

《参考》「ポリス」において、「人間」が、「家族」の一員でも「国家」の一員でもない「独立の個的自己」に目覚めてくると、それが「喜劇」の生まれる時代だ。(247頁)
☆「喜劇」は、B「芸術宗教」c「精神的芸術品」の第3段階だ。(247頁)
☆「喜劇」では、あらゆるものが「個的自己」のためにある。かくて「自然」は「人間」が生活のために利用する「手段」、着物や住居を作るための「材料」にすぎず、なんら「神秘的」なものではないし、また「国家のおきて」・「家族のおきて」といってもなんら格別「神聖不可侵」のものではなくなる。(247頁)
☆このことを「国家のおきて」について具体的に明らかにするために、ヘーゲルはアリストファネスの喜劇『騎士』という作品をもち出して論じる。喜劇『騎士』は、アテナイ人が「国家」を「私利私欲」のために利用していたことを暴露した作品だ。(247-248頁)

★(ウ)第3に「自体性」(※第1「感覚」)と「対他性」(※第2「知覚」)とを包括した《「普遍者」あるいは「内なるもの」》を徹底させたものは何かというと「道徳性」、特に「良心的自己」にほかならない。(Cf. (BB)「精神」 C「自己確信的精神、道徳性」a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)(307頁)
☆つまり、すでに「悟性」の立場においても、「対象」が「内なるもの」であることが明らかにされた。しかし「悟性」はまだ(A)「対象意識」のうちに属しているために、「内なるもの」が「対象的」なものとして受けとられて、まだ「自己」であることが明らかでなかったのだが、その後の運動により、《「悟性」のとらえる「内なるもの」》が「自己」にほかならぬことが、「良心」の立場において完全に証明された。(307頁)

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「鶯を雀歟(カ)と見しそれも春」、「うぐひすの啼(ナ)くやちいさき口明て(アイテ)」他:『蕪村俳句集』尾形仂(ツトム)校注・岩波文庫(1989)

2024-09-10 15:07:36 | Weblog
★「鶯を雀歟(カ)と見しそれも春」(『蕪村句集』7)
のんびりした春。木の枝に「雀」がいた。ところがホーホケキョと鳴いた。「そうか鶯だったのだ。」蕪村はのんきだ。

★「うぐひすの啼(ナ)くやちいさき口明(アイ)て」(『蕪村句集』12)
鶯は小さな鳥だ。少し離れた位置から見ている。口が小さい。鳴いている時、その小さな口があく。かわいい。よく観察している。

★「梅咲(サイ)て帯買ふ室(ムロ)の遊女かな」(『蕪村句集』29)
春の始まり。どこか心浮き立つ。「帯」が華やか。「遊女」もハレの世界に属す。「室」は播州室の津で港の遊女町として知られた。

★「古寺(フルデラ)やほうろく捨(スツ)るせりの中」(『蕪村句集』45)
古寺の春。せりが青い。割れた古いほうろくが捨ててある。古さと新しい春の対照。「ほうろく」は物を煎るのに使う素焼の平たい鍋。

★「折釘(ヲリクギ)に烏帽子(エボシ)かけたり春の宿」(『蕪村句集』51)
春ののんびりした感じ。日常的な緩慢さと安心。

★「薬盗む女やは有(アル)おぼろ月」(『蕪村句集』55)
「薬盗む女」は中国の伝説における羿(ゲイ)の妻・嫦娥(ジョウガ)。羿(ゲイ)が西王母から請い得た不老不死の薬を盗み月へ逃げ月の仙女となった。(淮南子(エナンジ))蕪村はおぼろ月に、月の美しい仙女をさがす。蕪村も美人に弱い。Cf.1 月岡芳年「月百姿(ツキヒャクシ)嫦娥奔月(ジョウガホンゲツ)」(1886) Cf.2 月面探査機「嫦娥6号」が月の裏側で岩石などのサンプルを採取し地球に帰還したと中国政府が発表(2024)

★「橋なくて日暮(クレ)んとする春の水」(『蕪村句集』55)
川が流れるが橋もなく広々している。春の夕暮れ。Cf. 蘇東坡「春宵一刻値千金」(『詩集』春夜)



※「嫦娥奔月」(月岡芳年画)

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(or道徳)」、へ「ロマンティスィズム」(その6):ヘーゲル『精神現象学』のこれまでの経過の回顧!

2024-09-10 06:52:44 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」へ「ロマンティスィズム」(その6)(304-305頁)
(79)ヘーゲル『精神現象学』のこれまでの経過の回顧:(A)「意識」(「対象意識」)→(B)「自己意識」→(C)(AA)「理性」(「理性の確信と真理」)→(C) (BB)「精神」→(C)(CC) 「宗教」→(C) (DD)「絶対知」!
★ヘーゲル『精神現象学』のこれまでの経過を回顧してみよう。(304頁)
★段階①《「感覚」→「知覚」→「悟性」》の運動によって「対象意識」が「自己意識」に転換すること。(304頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界

★段階②「自己意識」に《「欲望」→「主奴」→「自由」》の運動のあること。(304頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》(B)「自己意識」orⅣ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」

★段階③「自由」(※「無限性」)によって「自己意識」が再び「対象意識」に転換して、「理性」の「あらゆる実在である」という「確信」のえられること。(304頁)
★段階④この「確信」を「実証」すべく、「理性」は「観察」し「行為」すべきであり、そうすることによって「社会」のうちに安住しうるようになること。(304頁)

Cf. 《『精神現象学』目次》(C)(AA)「理性」orⅤ「理性の確信と真理」A「観察的理性」(※「観察」)、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(※「行為」)(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(※「社会」)(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、

《参考1》(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階の目標は次の通りだ。(156頁)
☆「精神」をその「現象」に即して、「本来の『精神』」にまで高めようとするものがヘーゲル『精神現象学』である。このさい①「現象」が「認識」の段階であるところからしては、『精神現象学』は「絶対知」に到るまでの「意識経験の学」として「認識論」であり、また②「絶対知」の出現が「時代」に媒介せられているところからしては、『精神現象学』は「歴史哲学」を含む。(156頁)
☆「精神」は本来的にはⅧ「絶対知」であるが、それに比較的近い段階(Ⅵ「精神」)では、「精神」は「我なる我々」あるいは「我々なる我」として、広い意味における「社会的」なものである。つまりそれは「人倫の国」において成立する。(157頁)

《参考2》さて当面の段階たる(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階は、「対象意識と自己意識の統一」であり、この意味において「あらゆる実在」でありながら、これがまだ「確信」たるにとどまって「真理」となっていない状態にある。この状態が「始点」である。(157-158頁)
☆そして「確信」を「真理」にまで高めるところに、この段階の運動が成立する。(158頁)

《参考3》「自己としての内なるもの」(「主体的なるものとしての内なるもの」、「実体はじつは主体である」という場合の「主体」)、すなわちこの「自己」・「主体」は、ヘーゲルでは「概念」とも言われる。(111頁)
☆この「主体」としての「概念」に、「対象」の側において対応するものが「法則」だ!(111頁)
☆ヘーゲルは「法則」とは「互いに対立した二つの契機をつねにふくむ」と考える。(Ex. 「引力と斥力」、「陰電気と陽電気」、「空間と時間」など。)即ち「法則」の内容は「弁証法的に対立したもの」とヘーゲルは考える。(111頁)
☆さて「弁証法」とは「対立したもの」が「区別され分離されている」と同時に、「相互に転換し統一をかたちづくる」ことだ。「弁証法」的に考えると「対立」は「静的」なものでなく「動的」なものだ。(111頁)
☆ところが「法則」では、そういう「動的」な点がはっきりしていない。そもそも「法則」は「主体」としての「概念」(「動的」な「内なるもの」)を、「存在的なもの」・「対象的なもの」・「静的なもの」として定立することによって成り立つものだからだ。「法則」の立場は「対象的存在的」だ。(111頁)
☆かくて「法則」では「互いに外的のもの・没交渉のもの」が関係づけられる。この関係づけは「量」の見地からからのみなすことができる。(111頁)

《参考4》「法則」は「対立するものの統合」として本来的には「概念」だが、しかし「概念」自身ではなく、「観察的理性」の「対象的」把握によって「対象」化されたものだ。「対象」化されるから「概念」の諸「契機」は、生命を失い固定される。そこで「法則」においては、「固定された契機」の「綜合」、したがってそれら「固定された契機」の「数量的関係」のみが問題になる。(167-168頁)
☆「観察」とは、「記述」が「標識の指示」(本質的なもの)を通じて「法則」を得ることだが、①「記述」の段階では、たとえば、陽電気はガラス電気、陰電気は樹脂電気というようにイメージを描いて「表象」されるが、②「標識の指示」(本質的なもの)をへて、③「法則」が定立されるようになると、かかる「表象」から純化されて、「概念」的に思考せらるべき陰電気と陽電気となり、これらの相対立した「契機」の間に「法則」が立てられる。(168頁)
☆また「自由落下の法則」(落下距離=時間の2乗×重力加速度×1/2)では、「時間」と「空間」という相対立した「契機」の間に「法則」的関係が定立せられる。(168頁)
☆さてこのさい、「法則」がじつは「概念」であるところからすれば、「陽電気と陰電気」、「空間と時間」など「対立した契機」は相互に他に転換して帰一し、そうして「統一」がまた「対立」に分裂するという「無限性」の生ける精神的運動が行われるべきはずだ。(168頁)
☆だが「観察的理性」なるものは、「理性」が「対象意識」の形式をとったものであるために、それぞれの「項」がそれぞれ「独立のもの」として固定せられてしまい、したがって「内面的な質的な規定」がではなく、ただ「量的な規定」だけが問題になり、かくて「数量的関係」を提示することが「法則」定立の課題となる。(168頁)
☆ヘーゲルは、「近代科学」における「法則」が、諸契機の間の「数量的関係」を規定することをもって課題とするという事実を、以上のように解釈している。(168頁)

《参考5》「理性」は、「対象意識」と「自己意識」の「綜合」であり「統一」である。(187頁)
☆そこでおのずから「理性」自身が、一方では「対象意識」に即して展開される。そこに「観察」の問題が生じる。(A「観察的理性」!)(187頁)
☆これに対して、他方で「自己意識」の側面においても、「理性」は展開されなくてはならない。そうしなくては「理性」のもっている「確信」を「真理」にまで高めることはできない。かくて「行為」の問題が出てくる。(187頁)

《参考6》「精神」(「理性」)は、「対象的に見られる」ものでなく、むしろ「働きとしてのみ存在する」から、1「観察」(A「観察的理性」)に対して、さらに2「行為」(B「理性的自己意識の自己自身による実現」)が問題となる。(193頁)
☆「行為」即ち「行為的理性」は(イ)「快楽(ケラク)」(個別態)→(ロ)「心胸(ムネ)」(特殊態)→(ハ)「徳」(普遍態)と運動(展開)する。これ(個・特・普)はヘーゲルの「考え方、論理の運び方」でもある。(193-194頁)
☆論理的にいうと、(A)「対象意識」における《「感覚」→「知覚」→「悟性」》という運動、および(B)「自己意識」における《「欲望」→「承認」→「自由」》という運動が、(C)「理性」2「行為」(B「理性的自己意識の自己自身による実現」)においては、《 (イ)「快楽(ケラク)」(個別態)→(ロ)「心胸(ムネ)」(特殊態)→(ハ)「徳」(普遍態)という運動(展開)》となってくりかえされている。(193-194頁)

《参考7》さて(A)「意識」、(B)「自己意識」の段階を経て、(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階が生じたそのとき、「理性」は「あらゆる実在である」という確信を持っており、そのかぎり「観念論」の立場をとる。(283頁)
☆だがこの「理性」はまだ「確信」にすぎず、「無内容」で、「『内容』を『対象』から受け取る」ほかはないところからしては「経験論」の立場をとる。したがって「理性」は最初には「観察」に従事せざるをえない。(「観察的理性」!)(283頁)
☆「観察的理性」に「実践面」において相応ずるものが「純粋透見」だ。(283頁)
☆即ち「観察」の段階((C)(AA)「理性」orⅤ「理性の確信と真理」のA「観察的理性」)では、ルネッサンス以後の「近代科学」において働く「理性」が問題として取り上げられたが、ここ(B「教養」の世界)では現実の「実践的生活」において働く「理性」(「純粋透見」)が問題とされている。(283頁)

★段階⑤「社会」のうちに安住しえたとき人間は「人倫の国」に住むが、これはやがて「法的状態」に移行して「教養」の苦悩が到来すること。(283頁)
★段階⑤-2 しかしこの「教養」の苦悩を通じて「道徳的確信」のえられること。(283頁)
★おおよそこのようなこと(①②③④⑤⑤-2)によって、すでに「絶対知」が成立している。(283頁)

《参考》ヘーゲル自身の「良心的道徳」(※(BB)「精神」C「自己確信的精神、道徳性」c「良心、美魂、悪とその赦し」における「赦し」or「やわらぎ」)にあっては、その展開は不十分ではあるが、すでに「絶対精神」が顕現し「絶対知」に到達している。(304頁)

Cf. 《『精神現象学』目次》((C)「理性」)(BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)

★段階⑥しかしまだ「宗教」(※(CC)「宗教」A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)が残っている。そのかぎり「意識」(※(A)「意識」、(B)「自己意識」、(C)(AA)「理性」・(BB)「精神」)がまだ「神という超越者」、したがってまた一般に「他者」を負うていることは否定できない。そこでヘーゲルは((C)「理性」)(CC)「宗教」において宗教の諸形態についての展開を行い、それらの完成であるところの(CC)C「啓示宗教」が(BB)Cc「良心道徳」(「悪とその赦し」or「やわらぎ」)と実質において同じであることを証明し、もって「啓示宗教」を「良心道徳」のうちに摂取し、かくして(DD)「絶対知」が真に成立することになる。(304-305頁)
★この(DD)「絶対知」の成立こそは、ヘーゲルにとっては「現代」の「時代精神」が渇望している課題だ。(305頁)

Cf. 《『精神現象学』目次》((C)「理性」)(CC)「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」
Cf. 《『精神現象学』目次》((C)「理性」)(DD)「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(or道徳)」、へ「ロマンティスィズム」(その5):「やわらぎ」における「絶対精神」の顕現、「絶対知」への到達!

2024-09-09 13:32:36 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」、へ「ロマンティスィズム」(その5)(303-305頁)
(78)ヘーゲルの「良心的道徳」=「やわらぎ」(Versöhnung)(C「道徳性」の第3段階c「悪とその赦し」)は各自独立なる人格のあいだに「神が顕現する」ことだ!
★「和らぎ」(「やわらぎ」)の「しかり」は、各自独立なる人格のあいだに「神が顕現する」ことにほかならないとヘーゲルはこの段階の終わり((BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)において言っている。(303頁)

《参考》①「実行型の良心」と②「美魂型・批評型の良心」とのいずれもが「非」であるとしても、またいずれにも「もっとも」なところがあるという理由で、ヘーゲルにおいては「高次の立場」即ちここでは「絶対精神」の立場、すなわち③「和らぎ」(Versöhnung)としての良心の立場への飛躍が要求せられる。(302頁)

★そこ(「和らぎ」の「しかり」)に「宗教」的雰囲気、ことに「クリスト教」的雰囲気の漂っていることは、おのずと明らかだ。(303頁)
☆だからヘーゲル『精神現象学』の叙述は、ここ(BB)「精神」(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」)から、(CC)「宗教」に移り、その立場でA直接的な東方の「自然宗教」から、Bギリシャの「芸術宗教」をへて、Cクリスト教という「啓示宗教」までの展開を行っている。

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄)!(CC)「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」 

(78)-2 「良心道徳」(「やわらぎ」)と「クリスト教」(「啓示宗教」)はじつは同じものだ!
★しかし「良心道徳」(「やわらぎ」)((BB)「精神」C「自己確信的精神、道徳性」c「悪とその赦し」)と「クリスト教」((CC)「宗教」C「啓示宗教」)とは、実質的にまで別のものではない。(303頁)
☆「良心道徳」(「やわらぎ」)と「クリスト教」(「啓示宗教」)はじつは同じものだ。(303頁)
☆両者の違いは、ただ「表象性・客体性」(「クリスト教」or「啓示宗教」)と「思惟性・主体性」(「良心道徳」or「やわらぎ」)という形式上の相違にあるにすぎない。(303頁)
☆まさにこのことの証明において(DD)「絶対知」は成立を見る。(303頁)

(78)-3 ヘーゲルの「良心的道徳」=「やわらぎ」(Versöhnung)(C「道徳性」の第3段階c「悪とその赦し」)においてすでに「絶対精神」が顕現し「絶対知」に到達している!
★『精神現象学』(1807)を書いた当時のヘーゲルにとっては、「現代」は「ルターの宗教改革」(Cf. 1517『95ヶ条の論題』)から始まるのではなく、「フランス革命」(Cf. 1789バスティーユ牢獄の襲撃)を境として始まる。(303頁)
☆したがって(BB)「精神」のC「自己確信的精神、道徳性」は、ことにそのc「悪とその赦し」or「やわらぎ」は「現代」のものだ。(303-304頁)
☆むろん細かくいえば、①C「自己確信的精神、道徳性」において、カントのa「道徳的世界観」は矛盾の巣窟だし、②それをうけたシュレーゲルの「アイロニー」はb「ずらかし」・「ごまかし」にすぎないし、③またc「良心、美魂、悪とその赦し」におけるヤコービの「実行型の良心」も、シュライエルマッヘルやノヴァーリスの「美魂型の良心」も、せっかく「ローマの法的状態((BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」c「法的状態」)以来の近代においてなされた媒介」(Cf. (BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」・Ⅱ「啓蒙」a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂」)を放棄して「直接知」にかえろうとするものすぎないから、①②③いずれも不完全だ。(304頁)

★しかし、これらのあやまりを通じて「『個』と『普』」、「『自』と『他』」、「『連続』と『非連続』」、「『主』と『客』」などを「区別しつつ統一づける」ヘーゲル自身の「良心的道徳」(※(BB)「精神」C「自己確信的精神、道徳性」c「良心、美魂、悪とその赦し」における「赦し」・「やわらぎ」)にあっては、その展開は不十分ではあるが、すでに「絶対精神」が顕現し「絶対知」に到達している。(304頁)

Cf. 「人格」と「人格」との間には、「結合あるいは肯定」のほかに「分離あるいは否定」・「否定の隔たり」があり、「連続」のほかに「非連続」がある。ところがこの「非連続」の面を忘れてしまって、「連続」の面だけみてとり、そして「他人」のうちに「自分自身の満足」を求めようとするのが「快楽(ケラク)」の段階だ。かくて「快楽(ケラク)」とはあからさまに言えば男女間の「愛欲」だ。(196頁)

《参考1》《精神》における(ハ)「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場は、(ロ)「反省・媒介の段階」すなわち「ルネッサンス」・「啓蒙」の時代の「有限性」の立場を嫌悪するのあまり、「悟性」を抹殺して直接に「絶対性」の立場へ逆転しようとする立場だ。(65頁)
☆つまり人間が「永遠なもの・絶対的なもの・無限なもの」を「悟性」を媒介することなく、直接的に「感情・情緒」といったもので捉えることができると考える。かくて「悟性」とか「反省」を全く軽蔑する立場だ。
☆それは「ロマンティスィズム」の立場だ。ノヴァーリス(1772-1801)、シュレーゲル(1772-1829)、シュライエルマッヘル(1768-1834)などだ。(65頁)

《参考2》「道徳的世界観」(カント)は矛盾だらけだから、それが「具体的」に働くときにはb「ずらかし」という C「道徳性」の第2段階が生ずることになる。(296頁)
☆「道徳的世界観」(カント)はまだ「抽象的」で3つの矛盾がある。①「『道徳』と『自然』」あるいは①-2「『道徳』と『幸福』(※「自然」に由来する欲求)」との矛盾。(「神の存在」の要請!)②「理性」と「感性」との矛盾。(「霊魂の不死」・「神の存在」の要請!)③「道徳法則」が「抽象的」なので「具体的状況」のもとでの「多数の義務」の間の矛盾。(「神の存在」の要請!)(296頁)
☆「ずらかし」(Ver-stellung)とは「物を置くべきところに置かず、置きちがえる」ことである。(296-297頁)
☆C「道徳性」の第2段階のb「ずらかし」とは、「一度こうだと言ったのに、すぐにそうではないと言って、反対から反対へずるずる動かすこと」をさす。(Cf. ①「『道徳』と『自然』」あるいは①-2「『道徳』と『幸福』」との矛盾。②「理性」と「感性」との矛盾。③「具体的状況」のもとでの「多数の義務」の間の矛盾。)(297頁)
☆つまりb「ずらかし」とは、「道徳的世界観」(カント)の3つの「要請」における3つの「対立」・「矛盾」( ①②③)において、一方から他方へ、他方からもとの一方へと、ずるずる動くことを指す。(297頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(or道徳)」、へ「ロマンティスィズム」(その4-2):ヘーゲルの人間肯定的なヒューマニスティックな態度!

2024-09-07 14:46:41 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」へ「ロマンティスィズム」(その4-2)(301-303頁)
(77)C「道徳性」の第3段階(続々):c「良心」③「やわらぎ」(Versöhnung)=「絶対精神」=「絶対知」(そのd)! ヘーゲルは、「対立」のいずれの方にも「もっとも」なところがあるというわけで、「対立」を「綜合」させる!
★①「実行型の良心」と②「美魂型の良心」のいずれを「もっとも」とし、「対立」を「綜合」し「結合」させ、③「和らぎ」としての良心(即ち「絶対精神」)について語るヘーゲルの筆法は、これまでにもつねにみられた。(301頁)
★[例1]:すでに「ずらかし」から「良心」の段階に移るに際しても、(ア)「道徳」と「幸福」、(イ)「理性」と「感性」、(ウ)「義務」の「単一」と「数多」などの「対立」の、一方から他方へ、他方からまたもとの一方へというように転々動揺せざるをえないということが、いずれの方にも「もっとも」なところがあるというわけで「対立」を「綜合」させることになった。(301頁)  

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄)!(BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」

《参考1》「道徳的世界観」(カント)は矛盾だらけだから、それが「具体的」に働くときにはb「ずらかし」という C「道徳性」の第2段階が生ずることになる。(296頁)
☆「道徳的世界観」(カント)はまだ「抽象的」で3つの矛盾がある。①「『道徳』と『自然』」あるいは①-2「『道徳』と『幸福』(※「自然」に由来する欲求)」との矛盾。(「神の存在」の要請!)②「理性」と「感性」との矛盾。(「霊魂の不死」・「神の存在」の要請!)③「道徳法則」が「抽象的」なので「具体的状況」のもとでの「多数の義務」の間の矛盾。(「神の存在」の要請!)(296頁)
☆「ずらかし」(Ver-stellung)とは「物を置くべきところに置かず、置きちがえる」ことである。(296-297頁)
☆C「道徳性」の第2段階のb「ずらかし」とは、「一度こうだと言ったのに、すぐにそうではないと言って、反対から反対へずるずる動かすこと」をさす。(Cf. ①「『道徳』と『自然』」あるいは①-2「『道徳』と『幸福』」との矛盾。②「理性」と「感性」との矛盾。③「具体的状況」のもとでの「多数の義務」の間の矛盾。)(297頁)
☆つまりb「ずらかし」とは、「道徳的世界観」(カント)の3つの「要請」における3つの「対立」・「矛盾」( ①②③)において、一方から他方へ、他方からもとの一方へと、ずるずる動くことを指す。(297頁)

《参考1-2》C「道徳性」の第2段階、b「ずらかし」はもちろん「虚偽」を含む。(297頁)
☆しかしヘーゲルは、「『知覚』のまぬがれえぬ『錯覚』」、「『事そのもの』についての『誠実』が陥らざるをえぬ『欺瞞』」の場合と同じように、C「道徳性」の第2段階のb「ずらかし」にもやはり積極的意義を認めている。(297頁)
☆すなわち、b「ずらかし」によって、「対立」の一方から他方へ、他方からもとの一方へと動くのは、「対立したもの」が「切り離されえない統一したもの」であることを自覚させるゆえんとなるからだ。(297頁)
☆かくてC「道徳性」の第2段階、b「ずらかし」においておのずと「統一をつかむ意識」が出てくるが、これがC「道徳性」の第3段階c「良心」にほかならない。(297頁)

★[例2]:「教養」の段階における①「国権」と「財富」、②「善」と「悪」、③「高貴」と「卑賎」などについての相互疎外の場合も同様であり、ヘーゲルは、いずれの方にも「もっとも」なところがあるというわけで「対立」を「綜合」させる。(301頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄)!(BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」

《参考2》「現実の世界」に属さない「純粋意識」は、(1)「純粋透見」(純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる!(277-278頁)
☆(「現実の世界」に属さない「高次」の)「純粋意識」は(1)「純粋透見」(「否定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「活動」の側面)と、(2)「信仰」(「肯定的な純粋意識」すなわち純粋意識の「内容」の側面)の両面からなる。(277頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)について、「教養」を通じて得られた「精神」Geistあるいは「エスプリ」は、かかる「対立」が固定したものでなく、「いつも「反対に転換する」ことを見透かしている」から、それは(1)「純粋透見」であり、そうして「対立」を否定するものであるところからして、「自我」あるいは「主体」の働きだ。(277-278頁)
☆ヘーゲルは「自我」をもって「否定の働き」にほかならないと考える。(278頁)
☆「もろもろの対立」(①「国権」と「財富」、②「高貴」と「下賤」、③「善」と「悪」との対立)が「相互に転換する」以上、「もろもろの対立」は、「対立を越え包む超越的統一」に帰する。この「超越的統一」は本来的には「概念」だ。(278頁)
☆しかしこの「超越的統一」は、ここではまだ、「もろもろの対立」(①②③)という「現実」からかけ離れた「統一」にすぎぬものとしてとらえられているから、「概念」そのものでなく、「表象」の形式におけるものだ。これが(2)「信仰の天界」を与える。(278頁)
☆これに対して(1)「透見」(「純粋透見」)は、「自我の『否定の働き』」として「地上」にとどまる。(278頁)
☆かくて「教養の世界」は「現実の国」を含むとともに、(1)「透見の世界」と(2)「信仰の世界」を含む。(278頁)
☆こうして(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」は、a「教養と現実の国」(「現実の世界」)に続いて、b「信仰と純粋透見」という段階が設定される。(277頁)

★[例3]また「精神的な動物の国」における「事そのもの」についての「誠実」なる意識がおかさざるをえない相互「欺瞞」の場合もまた同様であり、いずれの方にも「もっとも」なところがあるというわけで、ヘーゲルは「誠実」と「欺瞞」との「対立」を「綜合」させる。(301-302頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄)! (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)

《参考3》「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)は、同時に「欺瞞」である。すなわち「仕事」(「事」)という言葉で「誠実」で「客観的・普遍的・公共的」な成果だけが意味されているかと思うと、実はそうではなく例えば「単なる自己満足としての主観的活動」であってもいいし、「他人にキッカケを与えるだけのもの」でもいいし、また自分の「優越欲」を満足させたり、自分の「寛大さ」を他人に「見せびらかす」という「主観的動機」を含んだものでもあるのだから、「ゴマカシ」のあることは明らかだ。(211頁)

《参考3-2》 (C)(AA)「理性」C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(「社会」)a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」において、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)が、同時に「欺瞞」であることが明らかにされた。(211頁)
☆しかし今度は逆に「欺瞞」が積極的意義をもつことになる。なぜなら例外なく皆が皆お互いに「ごまかしあい」をしているということは「事そのもの」(「仕事」)が①単なる「成果」(「客観的・普遍的・公共的」な成果)でもなければ、単なる「活動」(「自己満足としての主観的活動」)でもなく、②単に「個人的なもの」にすぎぬのでもなければ、単に「公共的なもの」にすぎぬのでもなく、③単に「客観的なもの」でもなければ、単に「主観的なもの」でもなく、すなわち「事そのもの」(「仕事」)は、このように対立する(①②③)両面を含んだものであり、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)において、同時に例外なくみながみなまぬがれえぬ「欺瞞」は、「このような対立(①②③)を越え包む」ところに「真の現実」の成立することを暗示しているからだ。(211頁)
☆「みながみな欺瞞をまぬがれえぬ」ということは、「一段と高まり深まるべきこと」を「意識」に要求している。それはちょうど(A)「対象意識」において「『知覚』が同時に『錯覚』なることをまぬがれえないのは、『一と多』、『自と他』などの対立を越えた無制約的普遍性をとらえる『悟性』にまで高まることを要求した」のと同じだ。(212頁)
☆「対立したもの」のどちらも「切り離してはいけない」のであって、それらをある「全体的なもの」の「契機」として捉えなくてはならないことに気づくことができるようになると、そこに「実体的全体性」が「主体化」されつつ「恢復」されることになる。(212頁)
☆かくて(C)(AA)「理性」C「社会」(「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」において、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」と「欺瞞」は「切り離してはいけない」のであって、いまや「実体的全体性の回復」に向かっている。(212頁)

《参考3-3》第1に、なぜ「『精神』的な動物の国」なのか?すでにこの「社会」の段階では人間はもう「個別が普遍、普遍が個別である」ことを自覚しているから、ここには「我なる我々」あるいは「我々なる我」という「精神」の概念が相当な発展に達しているから、このさいの「社会」は「『精神』的な国」である。(207頁)
☆第2になぜ「『動物』の国」なのか?それはまだ「生の直接的な『個別性』」が残っているからだ。「純粋に精神的な国」が実現せられるならば、「快楽(ケラク)」から出発した運動にとっての目標である「人倫の国」に到達したことになるが(ただいまの段階も「人倫の国」という「実体性」の「恢復」を目的としている)、まだそこまでは達していない。だから「社会」のただいまの段階は「『動物』の国」だ。「世路」(「世の中」)の場合と同じように、まだ「市民社会」の段階にある。(207頁)

(77)-2 ここには、「人間心理の機微を見逃さないヘーゲルの鋭さ」があることは、否めない!
★ヘーゲルの筆法は、今の場合も同様で、「対立」するいずれの方にも「もっとも」なところがあるというわけで、「対立」を「綜合」させる。①「実行型の良心」と②「美魂型の良心」のいずれを「もっとも」とし、「対立」を「綜合」し「結合」させ、かくて③「和らぎ」(Versöhnung)としての良心(即ち「絶対精神」)についてヘーゲルは語る。(302頁)
☆いかに「良心」的「普遍」的「公共」的であろうとしても、いざ「実行」するという段になると、この①「実行型の良心」においては、どうしても「個別性」・「主観性」に偏らざるをえない。(302頁)
☆そうかといって②「美魂型・批評型の良心」においては、「行為」せず「批評」のみをこととするが、これは一見極めて「公共」的「普遍」的「客観」的のように見えながら、それでいて「実行」を伴わない「現実バナレ」のした「主観」的「個人」的意見をもって是とするという態度をとることをまぬがれえない。(302頁)
☆①「実行型の良心」と②「美魂型・批評型の良心」とのいずれもが「非」であるとしても、またいずれにも「もっとも」なところがあるという理由で、ヘーゲルにおいては「高次の立場」即ちここでは「絶対精神」の立場、すなわち③「和らぎ」(Versöhnung)としての良心の立場への飛躍が要求せられる。(302頁)
☆ここには、「人間心理の機微を見逃さないヘーゲルの鋭さ」があることは、否めない。(302頁)

(77)-3 ヘーゲルのように「対立」し合ういずれをも「もっとも」だとするのでなく、「『悪』を『悪』としてあくまでもしりぞける」態度!「対立」しあういずれかを選択しようとし、あくまでも「善」を徹底しようとする態度もまた可能だ:これがルター、ことにカルヴァンのとった態度だ!またキェルケゴールのごとき人が出現せざるをえなかった!
★しかしヘーゲルのように「対立」し合ういずれをも「もっとも」だとするのでなく、「『悪』を『悪』としてあくまでもしりぞける」態度、即ち「『悪』の存在を凝視することを怠らない」のみか「進んで『悪』をえぐりだす」けれども、しかし「『悪』は『悪』としてあくまでもこれをしりぞけようとする」態度も可能だ。(302頁)
☆いいかえると「対立」し合ういずれをも「もっとも」だとするのではなく、「対立」しあういずれかを選択しようとして、あくまでも「善」を徹底しようとする態度もまた可能だ。(302頁)
☆そのような態度をとるときには、「人間」には、「絶対的な自己否定」が要求される。(302頁)
☆ルター、ことにカルヴァンのとった態度はこのようであったし、また歴史的にいってヘーゲルの後に、キェルケゴールのごとき人が出現せざるをえなかった理由もここにあった!(302頁)

(77)-4 ヘーゲルの人間肯定的なヒューマニスティックな態度!ヘーゲルの「楽天性」!
★ヘーゲルは「対立」し合ういずれをも「もっとも」だとして「綜合」し、「高次の立場」に上昇しようとする。(302頁)
☆この場合、「綜合」してから後に、「人間がとるべき態度」が具体的にいって「どのようになるか」に「問題」のあることはこれをしばらくおくとしても、いずれも「もっとも」だとするところには、「ヘーゲルの人間肯定的なヒューマニスティックな態度」、いいかえると「『人性』をもって『神性』にほかならずとする態度」、つまり普通に「楽天性」と呼ばれているところの態度がある。(金子武蔵)(303頁)

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(or道徳)」、へ「ロマンティスィズム」(その4):①「実行型」と②「美魂型」の良心の結合である③「和らぎ」!

2024-09-06 22:56:24 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」へ「ロマンティスィズム」(その4)(299-301頁)
(76)C「道徳性」の第3段階(続々):c「良心」③「やわらぎ」(Versöhnung)=「絶対精神」=「絶対知」(そのa)!②「美魂型の良心」(「美魂」の立場)は②-2「批評」する立場だ!
★さてヘーゲルは①「実行型の良心」と②「美魂型の良心」との「結合」の必要を説く。(299頁)
★この「結合」をはかるために、ヘーゲルは②「美魂」の立場をもって②-2「批評」する立場と考える。すなわち②「美魂」としての「良心」は、なにひとつ「『外面』にあらわれた『行動』」はこれをなさないにしても、「『内面』に『思い』をいだく」のは事実であり、「『思い』において他人の行動を『批評』する」ことは否定できないからだ。(299頁)
☆それで②「美魂」の立場(「美魂型の良心」)とは、実際には自分ではなにひとつ「行為」せずに②-2「批評」ばかりする立場だ。つまりEx. ナポレオンがああいう大事業を成就したのは「名誉欲」や「権力欲」のためだというように、「あら探し」ばかりする。(299-300頁)
☆こんなふうに②「美魂型の良心」が②-2「批評」ばかりするのは、たしかに「普遍性」の立場にたつからではあるが、しかし「個別性」がないわけでない。(300頁)
☆すなわち②-2「批評」する立場は 一方で(「名誉欲」や「権力欲」のためだというように)「個別性」の方面に目をつけているし、他方で「批評」という「個人的主観的」な頭の中の仕事を、ひとかどの「客観的」な仕事のように「人に認めてもらおう」とする。(300頁)

★なおこの論法は、「事そのもの」についての「誠実」が同時に「欺瞞」であるのと同じだ。(300頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄):(C)(AA)「理性」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」

《参考》(C)(AA)「理性」C「社会」の最初の段階の「精神的動物の国」において、「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)が、同時に「欺瞞」であるとはどういうことか?ヘーゲルが「事そのもの」(「仕事」)について例をあげて説明しているのでそれを参考にしてみよう。(208頁)
☆「欺瞞」①:「仕事」(「事」)は「客観的・普遍的(※間主観的)成果」であるとされているのに、「お前のやったことは、もうほかでやっている」などと批判されると、その「仕事」(「事」)は「主観的・個人的活動」にすぎないと言い逃れする。そこには「欺瞞」(「ゴマカシ」)がある。(209頁)
☆例えば、ある人が、「仕事」(「事」)を「誠実」に遂行し自分が「客観的・普遍的な成果」をあげたと信じ、それを声明するために、それを学術雑誌や学会で発表する。ところが別の人が、その人に向かって「お前のやったことは、もうほかでやっている」と言って、他の論文を指摘したりする。その「成果」を発表した男は言う。「ああそうですか。それはそうでしょうが、僕は別に(a)『成果』をあげようと思って研究しているのではない。また(b)『地位』をえたり、(c)『名声』をはくしたり、まして(d)『金』をかせごうと思って研究しているのではない。ただ研究することが面白いからやっているんだ。」この発言には「欺瞞」があることは明らかだ。(209頁)
☆「欺瞞」②:あるいは(「誠実」であるはずの)「仕事」(「事」)における、次のような「欺瞞」もある。「俺の論文がヒントになって、あの男はこのことを発見したんだ。だからあいつが成功したのは俺が知恵をつけてやったからだ」という自慢話はよくあることだ。だが「客観的・普遍的な功をあげる」ことが本来、「事」(「仕事」)であり「事業」であるはずなのに、「他人が成果をあげるのにキッカケを作ってやったこと」さえもひとかどの「事」(「仕事」)とされる。ここに「欺瞞」があるのは明らかだ。(209-210頁)
☆以上は論文の「作者」あるいは「行為者」の側の「欺瞞」(①②)だが、発表された論文を「批評する」という「仕事」(「事」)をする側の「欺瞞」について見てみよう。(210頁)
☆「欺瞞」③④⑤⑥:「哲学の論文」でも「小説」でも、「批評する人」は、「自分は『学会などの水準をあげる』ために、また『日本人の良識を高める』ために『誠実』に『仕事』(『事』)を遂行している。正しいものを正しいとし、優れたものを優れたものとしてやっているんだ」と言うだろう。(210頁)
☆だがこの「批評」という「仕事」(「事』」)の「誠実」なはずの遂行が、実はしばしば同時に「欺瞞」である。③他人の学術上の論文の誤りを指摘する時には「あいつよりも俺の方がよく知っている」という「自慢」がある。あるいは④「普段威張っている大学の先生ともあろうものが、こんなものも知らぬとはけしからん」という「優越意識」もある。あるいは⑤若い人の論文の若干の傷を見逃してやるとき、自分がいかに「寛容」・「寛大」か「ヒューマニスト」であるかを「誇示する」意識がはたらいている。また⑥作品を批評してやった作家がその後有名になった時、「あの作家は俺が見いだしてやったのだ」と「満足」を感じる、またそんな「満足」が味わえるから批評家をやっていることもある。(210頁)

(76)-2 C「道徳性」の第3段階(続々):c「良心」③「やわらぎ」(Versöhnung)=「絶対精神」=「絶対知」(そのb)!「行為するもの」(①「実行型の良心」)も、「批評するもの」(②「美魂型・批評型の良心」)もいずれも「良心」でなく「悪心」だ!
★かくて①「実行型の良心」も②「美魂型の良心」もいずれも不十分であり、矛盾をまぬがれえない。(300頁)
☆①「実行型の良心」は「ひとりよがりの『信念』」に「『義務』の『普遍性』」をマントとしてかぶせているだけだ。(※つまり「実行型の良心」は同時に「悪心」になる。)(300頁)

《参考》C「道徳性」の第1段階a「カントの道徳」は「汝の意志の格率Maxime が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という定言命法、わかりやすくいえば、「例外を求めるな」という「抽象的命令」をくだすだけで、「個々の場面」にのぞんでどうしたらよいかは、これを教えない。(297-298頁)
☆ところでb「ずらかし」(C「道徳性」の第2段階)の運動を通じたc「良心」(C「道徳性」の第3段階)は、「個々の場合」にどうしたらよいかということを、もうちゃんと心得ているから、このc「良心」の段階(C「道徳性」の第3段階)になって、「主体」は初めて「行為」することができる。(298頁)
☆しかし「これがおれの義務だ」とか、「これが良心の命ずるところだ」などといっても、それは自分の行為や意見に「良心性」というレッテルをはるにすぎない。(298頁)
☆だから「実行」する時には「『個別性』への偏り」があらわとなり、そこに「良心」は同時に「悪心」になる。(298頁)

★これに対して②「美魂型・批評型の良心」は、たしかに「公共性」の立場をとりはするものの、そうすることのできるのは、「自分ではなにひとつ『実行』しない」からであり、しかも「『主観的・個人的』な意見をあたかも『客観的・公共的』なもの」であるかのように装っているからだ。(300頁)

★ヘーゲルでは「行為するもの」(①「実行型の良心」)も、「批評するもの」(②「美魂型・批評型の良心」)もいずれも「良心」でなく「悪心」だ。(300頁)
☆なお参考までに、ゲーテの場合は「行為するもの(①)は決して良心をもっていない。批評するもの(②)よりほかに、だれも良心をもっていない」と言っている。(300頁)

★ヘーゲルにおいては、①「実行型の良心」も②「美魂型の良心」もいずれも、改まらなくてはならない。(300頁)
☆①「実行型の良心」は自分の「罪」を告白すべきだ。なぜなら「実行」する段になると、何らかの形で「自分の意志」を満足させざるをえないのはもちろんだが、同時に「他人の意志」をも尊重しなくてはならず、そうでなくては「実行」も、まして「仕事」は成就されないからだ。(300-301頁)
☆これに対して②「美魂型・批評型の良心」は、一方で①「実行型の良心」に対して、その「罪」を赦すべきだ。なぜなら①「実行型の良心」に「個別的な主観的な」点があるとしても、自分で実際やろう(行動しよう)とすれば、そうならざるをえないものなのだし、また他方で②「批評すること」自身も、それが「自分のメリット(功績)」と考えられているかぎり、「個別性」をまぬがれえないからだ。(301頁)
☆かくて①「実行型の良心」は自分の「罪」を認め告白し、②「美魂型・批評型の良心」は「実行型」の「罪」を赦さなくてはならないことになる。(301頁)

(76)-3 C「道徳性」の第3段階(続々):c「良心」③「やわらぎ」(Versöhnung)=「絶対精神」=「絶対知」(そのc)!①「実行型の良心」と②「美魂型・批評型の良心」との間に成立する③「和らぎ」としての「良心」!
★こうして①「実行型の良心」と②「美魂型・批評型の良心」とは、お互いに「もっともだ、しかり、そうだJa(yes)」という気持ちをもつことによって③「和らぎ」(Versöhnung)(Cf. お互いに共同のおやじの息子Sohnというような仲のよい関係)が成立する。(301頁)
☆この③「和らぎ」(Versöhnung)としての「良心」において、「神」があらわれている。③「和らぎ」としての「良心」こそは「絶対精神」にほかならない。(301頁)

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