娘の家に滞在中、札幌行の高速バスに乗って札幌観光をしました。
最初に訪れたのは札幌市時計台。
札幌は10年前、娘が一時住んでいたとき、市内見物をしています。
その時、2歳のK君と生まれて半年のMちゃんを連れて
大通公園周辺を歩きましたが、時計台は遠くから眺めただけでした。
今回は建物の中に入ってゆっくりと見学してきました。
2009/03/05札幌市内見物←宜しかったらそうぞ!
札幌市時計台(重要文化財)
時計台の正式名称は「旧札幌農学校演武場」で、
クラーク博士の提言により、農学校生徒の兵式訓練や
入学式・卒業式などを行う中央講堂として
1878年(明治11年)に建設されました。
完成した当初の演武場には時計塔はなく、
授業の開始や終了を告げる
小さな鐘楼が屋根の上にあっただけでしたが、
演武場の完成式に出席した黒田清隆開拓長官の指示で、
1881年(明治14年)6月に塔部分を新築し、
ハワード製の時打重錘振子式四面時計が設置されました。
1872年(明治5年)太陰暦から太陽暦に変更されたのを機に、
明治が終わるまでに、72もの西洋式時計塔が
建設されましたが、当時の姿のまま現在も時を刻んでいるのは、
札幌市時計台だけだそうです。
札幌市民がいかに時計台を大切にしてきたかが良くわかります。
1階は資料展示室になっていました。
これは創建した明治時代の街並みを写真と校舎を模型で再現したジオラマ。
現在は、ビルに囲まれ小さく見える時計台ですが、
時計塔の一番高い部分まではおよそ20m、5階建ての建物に相当する
そうですから、当時とすれば高い建物だったのでしょう。
仮学校は明治5年4月に開校。
生徒定員は官費生、私費生生合わせて100名。
卒業後は北海道開拓に従事することが義務付けられていました。
明治5年9月、仮学校に官立の女学校では日本で2番目に古い
官費生50名の女学校が開設。
卒業後は北海道在籍の者と結婚することが条件だったようです。
明治8年7月、札幌学校と改称。
明治9年9月、札幌学校は、札幌農学校と改称し、
日本で初めて学士号の授与権が付与された
高等教育機関となりました。
新渡戸稲造のノートのレプリカも展示されていましたが、
この時代に授業はすべて英語で行われていたというのですから驚きです。
北大と言えばクラーク博士。
1876年8月、初代教頭として札幌農学校開校式に臨み、
Boy,be ambitious!
Be Gentleman!
等の言葉を残し、1877年4月に帰国しました。
内村鑑三や宮部金吾など、近代日本の思想界、教育界をリードした、
多くの優秀な人材が巣立っていったのですね。
有島武郎が卒業生とは意外でした。
そういえば、昨年ニコセを訪れた時、バスガイドさんが
ニコセにある自らの農地(農場)を無償解放したと話していましたが、
東京生まれの有島武郎氏がなぜ、北海道に広大な農地を
持っているのかも疑問でした。
(ネットで調べて納得)
札幌の街と時計台の存在を全国の人に知らしめた
高階哲夫作詞作曲による名曲「時計台の鐘」
高階哲夫は、1896年(明治29年)富山県滑川町(現在滑川市)に生まれ
東京音楽学校を卒業後、ヴァイオリン演奏家、作曲家、教育者として
日本国中を駆け巡って洋楽の普及に努めるとともに、
児童楽劇、トーキー導入期の映画音楽、放送管弦楽団の育成を行うなど
現代の音楽芸術の基礎づくりに大きな功績を残した音楽家だそうです。
「時計台の鐘」入って妻の高階ます子(声楽家・アルト)が独唱し、
夫の哲夫がピアノ伴奏を務めてレコーディングされ、昭和6年に発売されました。
展示台からは、ます子が歌っている歌が流れ続けていました。
ヴァイオリン、自筆の楽譜、テスト盤レコード、
「ヴァイオリン奏法の秘訣」原稿など貴重な品々は
高階哲夫の遺族の方から寄贈されたものだそうです。
時計台を取り上げた歌と小説がこんなにあるとは驚きでした。
2階演武場は1899(明治32)年に、
初めて農学校卒業生に博士号を授与した際の祝賀会場を再現したもの。
現在は演奏会などの催しの場として利用されています。
クラーク博士像と一緒に記念撮影
ビデオによる時計台の塔時計機械の説明と兄弟時計の紹介
実物の時計と同じ仕組みの兄妹時計の展示
時計塔の中で動いている時計機械は1881年(明治14年)に付けられたもの。
電気を一切使わず、重りが下がる力を動力とする振り子時計です。
帰り、札幌駅に向かう途中に見た時計塔