昨夜遅く、同級生からの電話で用を話し終えた後、「明日朝、コーヒーに行か
ないか?」と誘われた。久しぶりだったので誘いに乗った。
所で今朝、喫茶店で同級生たちの様子などを聞くことになった。彼はずっと地元で
暮らしているのでいろいろ詳しい。長く地元を離れていたわたくしは、覚えていない人
が多い。それはそれでよいのだがとにかく話が長い、くどい。
よく電話してくる元同僚の先輩の話もグダグダと長くてしつこい。
歳をとるとこうなるという見本のようなものである。
”打てば響く”という会話ができなくなった。”打って”も一向に”響かない”
”打たれて”も”響かせ”られない。悲しいけれど、頭の回転も感性も劣化したのだと
自覚せざるを得ない。
話し方や文の書き方は性格にもよるのだろうけれど、わたくしの場合は「もう少しは
ましだったのに・・」と怠けて過ごした年月を実感する。
もう「響かない太鼓」を抱えて会話するしかないようだ。
確かに私も同じ事を感じることがあります。
同級生、幼馴染は思い出話に花を咲かせているうちは楽しいが、
話が尽きた時、それ以外に話が発展しなくなる事があります。
>頭の回転も感性も劣化したのだと自覚・・とおっしゃいますが、
決してそればかりではないのでは?
それぞれに歩んだ人生が違う訳で、響き方が違って当然のことでは無いでしょうか。
相手もちょっと自分とは違うな、と気づいた時に響かなく
なってしまうのでしょうね。
気転や感性が劣化いているのは事実でしょうが、「そればかりではないのではないか」と慰めていただいているようで少し励みになりました。
確かに境遇が違えば「響きあう」どころか「逃げたく」なることもあります。
まだ学生だった頃、中学の同窓会があって、出席したことがありました。
たまたま隣の席の人が<結婚、出産、離婚>を経験したというので親のすねをかじっていたわたくしは驚いて
それ以降、高校のも含めて同窓会には一切出席しなくなりました。
この年齢になって、地元に戻ってきてやっとかつての同級生たちと付き合えるようになりました。
ここまで生きてくると、もちろん「学歴」より「経験」で、あの同級生とも<うまく調子を合わせられる>ような気がします。”響きあえる”とまではいかないでしょうけれども。
でも「打てば響く」会話ができる仲の人がいると楽しいですね。