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春庭の映画論「越境者の声」2011年3月

2010-09-21 09:58:00 | 映画演劇舞踊
2011/03/09
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年3月>越境者の声(1)善き人のためのソナタ

 3月7日は朝から東京にも雪が降り続きました。雪の中、歯科と内科のハシゴ受診。咳の薬と抗生物質を処方されました。ちょっと咳が続くというだけでも、個人的にはとてもつらいのですが、様々な厄災のなかに身をおいている人も大勢いる世界で、風邪ごときでめげていてはならぬと心に鞭うちつつ、現実にはぐうたらとすごしております。
 地震や戦乱や政変の嵐の中に身を置く人々に思い寄せつつ何もできず、、、、寝転んでビデオなど見る日々。

 『善き人のためのソナタ』という映画、3月1日(火) 午前0:45~3:04(28日深夜)に放映されていたのをビデオをとっておいて見ました。2006年米アカデミー外国語映画賞受賞作。とてもいい映画でした。
 オーデンが『1939年9月1日』の中に、「私も、それらと同じく エロスと灰で出来ているのだが、同じ否定と絶望に 取り巻かれているのだが、肯定の炎を見せてやれるかもしれない」と、詩に書いた、その 「an affirming flame肯定の焔」がこの映画の中にも赤々と燃えているのを見ることができました。

 ベルリンの壁が崩される前の東ドイツDDR(Deutsche Demokratische Republikドイツ民主共和国)。名前とは裏腹に少しも民主的な国家ではなかったことは、他の社会主義国家と同じ。「民主主義人民共和国」というのが将軍様の独裁国であったりするのは、現在でも続いています。

 1984年。DDR国中に秘密警察と密告者が送り込まれ、国家に刃向かおうとする人々を監視していた時代の話です。この映画の中で燃える焔となったのは、一曲のピアノ奏鳴曲「善き人のためのソナタ」
 以下、ネタバレのあらすじ&感想なので、未見の方はご注意を。
 
 『善き人のためのソナタ』の主要登場人物は6人。閉鎖社会の典型的なタイプの人とも言えます。
 一人は主人公ヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)。国家保安省シュタージに忠実にこつこつと下積みの仕事を続け、国家の安寧のために働いてきました。自分の仕事の正しさに疑いを持つこともなく、横暴な上司のもとでも、命令に従ってきました。

 もうひとりの主人公は劇作家ドライマン(セバスチャン・コッホ)。少しでも西側の思想に共感するような作風であれば、即座に粛正され、作品の発表ができなくなるという東ドイツ社会で、巧妙な作風によって粛正を免れてきましたが、国家保安省は次のターゲットをドライマンに決めます。さまざまな罠が仕掛けられ、シュタージはドライマンが西側思想に通じている作家である証拠をつかもうとします。

 そのシュタージ側のふたりが、この映画の敵役です。ヴィースラー大尉の上司にあたるのがグルビッツ部長。国家に忠実な役人のようでいて、実は自分自身の出世や保身にしか興味がないのはいずこの国でも変わりない。そのまた上司は、ブルーノ・ハムプフ大臣。こういう大物は、国家体制が変わっても上手く泳ぎ切って、どっこい生き延びってことが、映画のラストにでてきます。

 シュタージのターゲットにされ、運命を曲げられた人が演出家のイェルスカ。あらゆる職業につくことを禁じられ、生ける屍のようになっている。
 ヒロインのクリスタ=マリア・ジーラントは、ドライマンの恋人。女優であり続け、舞台で演じることが彼女にとっての生きること。しかし、イェルスカの次のターゲットであるドライマンの家に盗聴器がしかけられたあと、細心の注意をはらって、国家の罠に嵌るまいとしているドライマンに対し、弱みの多いクリスタは、彼女の肉体を手に入れようとして権力をふりかざす大臣によって非情な運命に陥ります。クリスタは、女優生命のため、また自己の身体的依存のために、大臣や国家の権力に屈服してしまう弱い人間です。でもその弱さを持つからこそ人が人であるのかもしれず、信念を曲げないドライマンに対して、クリスタは弱い側に立ち負けてしまう人間性の代表なのかもしれません。

 盗聴担当のヴィースラー大尉は、命じられたことに忠実に毎日ドライマンの家の音に耳を傾け、報告書を書いていきます。しかし、聞き続けるうち、彼の心の中に変化が起きてきます。クリスタとドライマンがふたりで、あるいは仲間と語り合う音楽や文学、これがほんとうに国家の安全を破壊するものだというのだろうか。ドライマンは国家体制への反逆者の疑いをかけられて当然の人物なのか。

 ヴィースラーの変化を決定的にしたのが、イェルスカがドライマンの誕生日プレゼントとして贈ったピアノ曲でした。楽譜をプレゼントされたドライマンは恋人クリスタに演奏して聞かせます。当然、その曲の調べはヴィースラーの耳にも届きます。美しいピアノソナタの調べ。この調べを国家は禁止し、西側の悪しき堕落として断罪しようとしている。ヴィースラーの盗聴報告書はしだいに変化していきます。
 ついに、国家体制がドライマンに襲いかかる決定的な日。ヴィースラーは、体制維持側ではなく、良心の側に立って行動することを選びます。 

 東西ドイツの合併後、ドライマンの著作『善き人のためのソナタ』が本屋の店頭に並びます。その本の扉には、献辞が書かれています。ヴィースラーが書き続けた盗聴報告書の署名である記号に感謝のことばが捧げられていたのです。
 ラストシーン。東西ドイツ合併後も大物然として生き延びる大臣に対し、ヴィースラーら、下っ端役人はしがない生活を続けています。『善き人のためのソナタ』という本が発売になったことを知ったヴィースラーは本を購入し、店員から「贈り物用の本ですか」と尋ねられ、「いや、私のための本だ」と答えます。

 ヴィースラーは、一曲のソナタに心うたれ、自分の良心に従って行動しました。ヴィースラーもまたひとりの「エロスと灰で出来ている」しがない人間です。その彼も「同じ否定と絶望に取り巻かれているのだが、肯定の炎を見せてやれるかもしれない」というオーデンの詩を生きました。オーデンの詩は1939年のドイツリンツ近郊生まれの男が行った悪業について書き残しましたが、この国家的な悪行とは、1989年まで続いた東側の国家にもありました。スターリンのソ連にもチャウシェスクのルーマニアにも。
 ヴィースラーは、ソナタを聞いて後、自分の信念にしたがって肯定の焔を燃やしました。

 今、世界のどこかで燃やされている肯定の焔。燃え続ける炎もあるでしょうし、国家の巨大な圧力の前に消えかかる炎もあるでしょう。しかし、ソナタを聞いたヴィースラーのように、心に焔を掲げ続ける人が必ずいる、ということが人の社会にとっての大きな希望です。

 壁が崩れる前、東から西への越境は命がけでした。多くの人が壁から外へ越境することに失敗して命を落とし、また、越境しなかった者にとっても、壁の崩壊後の人生は決してたやすいものとはなりませんでした。ヴィースラーは壁から西側に出ることなく、おそらくしがない勤務を死ぬまでこつこつと続けるのでしょう。
 しかし、彼の魂の越境、一曲のソナタを聞くことによって、自分の信じるものの側へ越境したヴィースラーは、「私のための本だ」という誇りに満ちた表情を残します。
 彼は魂の越境者として、自分を認めることができたのです。

<つづく>
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2011年03月11日


ぽかぽか春庭「冬の小鳥」
2011/03/11
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年3月>越境者の声(2)冬の小鳥

 『冬の小鳥』『トロッコ』の2本立てを飯田橋のギンレイホールで見ました。

 『冬の小鳥』映画の冒頭、9歳のジニは父親に新しい服や靴、大きなケーキを買ってもらい、父親の背中に顔を寄せて幸福な思いをしています。大好きな父といっしょにすごす時間が、永遠に続くような気がしながら。しかし、父の顔は巧妙に画面には現れません。顔のない「父」の背中に、観客は不安を感じます。

 父はジニをカトリック系孤児院に放り込み、二度と戻っては来ませんでした。ジニは必ず父が迎えに来ると信じ、孤児院のシスターや仲間の孤児達にも心を開きません。
 ただ、同じ年頃と思われたスッキと共に死にかけた小鳥を守ろうとするそのときだけ、ジニは心を取り戻したかのように見えました。

 ルコント監督作品『冬の小鳥』は、イ・チャンドンが制作を担当し、2006年にフランスと韓国で結ばれた<映画共同製作協定>の第1号作品として完成しました。2009年カンヌ国際映画祭に特別招待され、2009年東京国際映画祭では「アジアの風部門最優秀アジア映画賞」を、2010年ソウル国際女性映画祭では「第1回アジア女性映画祭ネットワーク賞」を受賞しています。

 脚本は監督自身によってフランス語で書かれました。ルコント監督は少女時代、韓国のカトリック系養護施設に入り、その後、フランスのプロテスタント系の牧師一家に引き取られた経験を持ちます。脚本は「ほとんどが創作」だそうですが、自身が韓国カトリック系児童施設からフランスへ養女として渡ったという経験を、「9歳のときの気持ちのままに表した」と、インタビューで述べています。フランスで教育を受け、韓国語はすっかり忘れてしまったルコント監督ですが、イ・チャンドンのプロデュースを得て、韓国語の映画として見事な演出を行っています。韓国からフランスへ越境していった監督の声が9歳の視点となって生き生きと再現されています。
 以下、ネタバレを含みます。未見の人はご注意を。

2011/04/02
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年4月>越境者の声(3)遙かなる絆

 3月に「越境者の声」シリーズ「善き人のためのソナタ」「冬の小鳥」をUPしました。震災により掲載を中断していたシリーズの続きです。『遙かなる絆』『トロッコ』『トイレット』を紹介します。

 2009年に5月に放映され、そのときちょうど中国赴任中であったために見ることができなかった連続ドラマ『遙かなる絆』。
 3月20日12時から6時まで、6話一挙放映というのをやっていたから、続けて見ていました。何もする元気がでないとき、没頭できるドラマ、現実逃避とわかっていても、ありがたいひとときでした。
 6時間も続くドラマを一気に見続けることなど,他の時期だったら出来なかったかも知れないので、「地震酔い」のめまいで片付け事もできないからと、いいわけにしてドラマを見ることができたので、めまいもよい時間を与えてくれたと思うことにします。

 2009年ちょうど中国の長春市に赴任していたとき、「今日本では、長春ロケが画面に多く出てくるドラマが放映されている」と聞きました。同僚の一人は、中国人の知り合いから海賊版のDVDを手に入れて見ていて、貸してくれると言われたのですが、私はどうも海賊版というところに引っかかってしまい、仕事の忙しさにもかまけて貸して貰うこともせずに終わりました。2009年12月に再放送があったのですが、12月30日31日という忙しいときで見逃してしまい、最終回だけ見ることができました。2011年3月、ようやく6話全部を見たのです。

 吉林大学とか長春長距離バスターミナルとか、知っている場所もロケされていて、なつかしく思いながら見ました。戦災孤児帰国事業が始まる前の1970年に自力帰国を果たした城戸幹さんの半生を描いたドラマ。幹さんの娘、城戸久枝さんが執筆したノンフィクション『あの戦争を遠く離れて』が原作です。原作は第39回大宅壮一ノンフィクション賞および第30回講談社ノンフィクション賞を受賞しています。

 城戸幹さんは、満州で軍人の息子として生まれ、敗戦後の混乱の中、家族とはぐれ中国人養母に養育されました。農村の中国人に労働力としてのみ扱われた残留孤児も多かった中、養母は実の母のように愛情を持って幹さんを育て、高校まで出してくれました。しかし日本人孤児であることから、大学に合格することができず、文化大革命のさなか、自力で実の両親を捜し出し、日中国交回復以前に独力帰国を果たした方です。実の両親が故郷でご存命中に帰国できたことは幸運でしたが、国交回復後に帰国した残留孤児にはさまざまな援助が与えられたのに、幹さんは独力で日本での人生再スタートをせねばならず、帰国後の苦労も並大抵のことではありませんでした。

 娘の久枝さんは、中国に留学し、お父さんの友人たちや養母の親戚に取材して、幹さんの激動の半生をノンフィクションにまとめました。1976年生まれの城戸久枝さんは徳島大学に在学中、長春市にある吉林大学に国費留学しています。1996年前後のことかと思います。

 私が最初に中国に単身赴任をしたのが1994年。開放改革のうねりが押し寄せ、中国が大きく変貌していく最初の頃でした。ちょうど同じころの中国を体験したのだろうと身近に感じます。 
 中国の残留孤児を主人公とした小説に、山崎豊子のベストセラー小説『大地の子』があります。NHKのドラマになったとき、私は1994年に行われた長春ロケに参加し、エキストラ出演をした思い出があります。

<つづく>
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2011年04月03日


ぽかぽか春庭「国境を越える絆」
2011/04/03
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年4月>越境者の声(4)国境を越える絆

 最初の1994年中国赴任の思い出、長春市残留孤児の孫玉蘭さんとの出会いがありました。彼女の訪日のためにささやかながら尽力したことなども思い出します。
 孫さんは私を市内のレストランに招き、「厚生省(当時)の残留孤児訪日肉親捜しの名簿に載せて貰っているが、いまだに訪日の予定が聞かされていない。日本に帰国したら厚生省に連絡して、いつ訪日できるのか調べて欲しい」という切実な訴えを寄せました。
 彼女は残留孤児の中でも養父母に恵まれ、大学教育まで受けさせてもらったと言っていました。長春市内でも恵まれた生活をしている階層の方でしたが、「現在の生活に不自由はないけれど、私は日本人なので、子や孫の教育のことを考えると、これからは日本で生活したいと思う」とおっしゃっていました。

 私は、帰国後、厚生省の担当部署に電話をしました。孫さんは次回の訪日調査団のメンバーに入っていることがわかりました。中国の教え子(孫さんの知り合い)に電話をして、訪日できることを連絡しました。
 「玉蘭」は、中国人女性によくある名前なので、同姓同名の人もいるかもしれませんが、たぶん、この人。
http://www.kikokusha-center.or.jp/kikokusha/mihanmei/kiturin/09202.htm

 孫さんは1994(平成6)年11月の残留孤児肉親捜し訪日団の一員として来日しました。
 来日時には、日本の父母への思いを綴った漢詩を記者会見で披露し、大きく新聞にも取り上げられました。私はその漢詩が載った新聞記事を切り抜き、大切にとっておいたのですが、整理整頓が苦手なために、その切り抜きがどこかに行ってしまいました。朝日新聞天声人語(白井健策)が1994年11月22日のコラムで孫玉蘭さんについて書いていることは検索できたのですが、肝心の記事はまだ見つけられません。

 このとき孫さんは肉親と面会できませんでしたが、こののち孤児対策方針の変更があり、肉親が名乗り出なかった人も日本に帰国できるようになったので、日本に帰ったのではないかと思います。厚労省に問い合わせをすれば、帰国後の日本名なども判明できるのかもしれません。日本での第二の人生がよい日々であったことを祈ってやみません。

 2008年12月に長春ロケが行われた『遙かなる絆』は、私が中国で3度目の赴任中の2009年に日本で放映されましたから、ロケを見ることもドラマを見ることもなかったのですが、2011年3月の再放送は、心の絆が何より欲しかった3月に見ることができました。親子の絆をテーマにして、中国と日本の国境を越えて心をつなぎ合わせたドラマでした。城戸久枝と城戸幹の父娘の絆。そして孫玉福(城戸幹中国名)と養母付淑琴との母息子の絆。

 国境を自力で越え、日本人としてのアイデンティティを求めて苦闘した幹さんも、父の育った大地に立つために日本から中国へ留学した久枝さんも、国境を越えることは国境をつなぐことなのだと感じさせてくれました。
 城戸久枝を演じた鈴木杏も、深い愛情をたたえた岳秀清(養母役)も、とてもよかった。

 東北関東大震災で、各国の人々が国境を越えて援助を申し出てくれました。特に原発事故放射能漏れは、一国の事故が国境も何も関係なく、全地球の災難となるのですから事態は深刻です。国境を越えた防災の協力が重要なことがよくわかりました。
 人と人の絆は、地球の線の上に引かれた国境とは関係なく、心をつないでいると信じています。

<つづく>
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2011年04月05日


ぽかぽか春庭「トロッコ」
2011/04/05
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年4月>越境者の声(5)トロッコ

 日本映画学校と並ぶ映画専門学校であった日活芸術学院は、2011年4月が最後の入学式。この入学生が卒業した後は、専門学校としての歴史を閉じることが決定しています。今後は、2011年4月に映像芸術学科が新設された城西国際大学に吸収合併の形になり、日活の名を冠した映画学校は消えます。 
 一方、日本映画学校は、2011年4月に「日本映画大学」として、新たな出発を果たします。

 佐藤忠男は、初代学長としてのインタビューで次のように語っています。
 「これまでに私は2万数千本の映画を見たと思うが、日本とアメリカとヨーロッパだけでなく、世界を知りたいという願いが増大して、機会をとらえては日本で公開されていないアジアやアフリカの映画も見ようと努力した。いま世界は映像文化で互いを理解し合う方向に向かっている。そこで映画は世界を結びつける文化として大きな役割をはたさなければならない。しかし現状ではそれはハリウッド映画の世界制覇で終わりかねない。将来の映像文化は、小国や途上国の映画の美点からも学んで、世界の多様な文化のそれぞれの良さが生かされるようなかたちで世界を結びつけるものでなければならないのではないか。批評家としての私は、私のこの理想に向かってまだいくらかでも貢献できるだろうか。それが私の仕事だ」

 つづけて、日本映画学校の出身者にふれ、「昨年(2010)の日本映画では、「悪人」「十三人の刺客」「踊る大捜査線3」「トロッコ」などがこの学校の卒業生の監督作品である」と、佐藤忠男は言挙げする。
 川口浩史は、日本映画学校5期卒業生。『トロッコ』が初の監督作品です。

 『冬の小鳥』は見ようと思って見に行ったのですが、『トロッコ』は、『冬の小鳥』の2本立ての映画上映なので、ついでに見たのです。ついでではありましたが、私にはとてもよい収穫となった映画です。気になる演出もありますけれど、子役に対しては「ドキュメンタリーを撮るようにとった」と述べるなど、ごく自然な演出で初監督作品として、成功しているように思います。

 芥川龍之介の短編小説『トロッコ』は、私も川口監督と同じく、教科書の中に載っている作品として中学生のころ読みました。
 青空文庫のテキスト
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43016_16836.html

 映画のシナリオは川口浩史と黄世鳴の共同脚本になっています。芥川のトロッコは原作というより「原案」程度になっています。
 「薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している」という、原作で少年が感じた見知らぬ土地へ入り込み、帰り道への不安を抱える心情は、映画『トロッコ』の重要なモチーフではありますが、台湾を舞台にした映画は、様々な要素を付け加えています。
 以下、ネタバレ含む。未見の方はご注意を。

 私はこの映画『トロッコ』も「越境者の物語」のひとつとして見ました。
 第一の越境者は、台湾出身の呉孟真。父親に反発し、父が嫌う国へと留学してそのまま留学先で就職、結婚。一度も故郷に帰ろうとしなかった。映画に登場するのは、妻が抱える骨壺としてです。

 第二の越境者は呉孟真の妻矢野夕美子(尾野真千子)。夫の早世ののち、フリーライターという不安定な仕事を続け、息子二人を抱えて生きていくことに不安を抱えています。夫を故郷のお墓に納めるために、国境を越え、初めて夫の父親の家を訪問します。

 旅行ライターをしている夕美子は、取材のためにはさまざまな国を訪問してきました。それは母語によって母国の出版社での仕事をしてお金を得るための訪問であって、これまで夕美子は、何度国境線を越えて旅行しても、母国から「越境」してきたことはなかったのです。しかし、夫の故郷へ向かったとき、息子の矢野敦(夕美子の長男:原田賢人)、矢野凱(夕美子の次男:大前喬一)と共に、はじめて、夫呉孟真が越境者として日本にやってきた気持ちを味わうことになります。

<つづく>
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2011年04月06日


ぽかぽか春庭「トロッコは越境者を乗せて走る」
2011/04/06
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年4月>越境者の声(6)トロッコは越境者を乗せて走る

 第3の越境者は、夕美子の夫呉孟真の父親・呉仁榮(洪流)です。敦と凱にとってはやさしいおじいちゃん。昔覚えた日本語で、はじめて出会った孫息子といっしょうけんめい通じ合おうとします。

 呉仁榮は、台湾が日本統治下に置かれていたころ成長し、日本語を習いました。日本人として徴兵され、3年間従軍しました。しかし、台湾が独立すると日本籍を失い、3年間の従軍に対して、何らの保障もされませんでした。呉仁榮は日本政府に対し、「見捨てられた元日本人」として、訴訟を起こしましたが、その訴えは何度行っても却下されるのみです。

 呉仁榮は、日本人として生きようとしたのに、それを国家によって否定された越境者なのです。故郷にとどまり中国語を話す生活を何十年も続けていても、かって日本の木材会社の仕事でトロッコを押してすごした日々と、日本人兵士として従軍したときの記憶を決して捨ててしまえない、逆の意味での越境者なのです。

 多くの人は、この映画を「家族のものがたり」と受け取りました。それは間違いがないと思います。私は、それに「越境者のものがたり」という視点を付け加えたいと思います。
 母と子、父と子、村落共同体、さまざまな絆が切れようとしても決して切れずに再生していく物語であるとともに、越境することによって自己を再認識していく人々の物語なのです。母に捨てられるかも知れないという不安を抱えた敦も、トロッコに乗って思いも寄らない遠くまで来たのち、弟を気遣いながら母の胸に戻ってきたとき、母と子の関係の再生だけでなく、生きていくことの不安や矛盾についての物語を得たのだろうと思います。

 芥川龍之介が描き出したように、私たちの心の中には、幼いころ感じた生というものの中の不安定さや矛盾がいつも潜んでいます。雑駁とした日常生活のなかでは取り紛れている、この「私はどこへ行こうとしているのか」「もとの、心地よい母の胸の中にはもう、戻れないのかも知れない」という不安感が、漠然と横たわっている中、毎日の飯を食い、通勤電車に揺られ、都市生活者のあらゆる矛盾をねじ伏せながら人生を歩んでいきます。
 芥川の『トロッコ』は、好奇心に駆られてトロッコをどこまでも押していきたいと思う高揚感とそ、の高揚が消え失せた後の漠然とした不安を書き残しました。

 川口浩史の映画『トロッコ』は、夕美子の「夫亡き後の子育ての不安感や、敦の母に捨てられるのかも知れないという不安は表現されていたと思います。しかし、原作の中にある「生の不安」すなわち自分が今ここに在ることの不安を描き出してはいなかった。生きていくことの中に潜む矛盾や不安の感情は、台湾奥地の村を取り囲む圧倒的な緑の生命感によって隠されてしまったと思います。
 撮影監督は李屏賓リー・ピンビン。村の緑、トロッコの疾走などをすばらしい映像として撮影し、そのすばらしい映像のために、「生の不安」より「生命賛歌」が前面に出ています。
 原作のテーマを忠実に再現することを目標とするなら、『トロッコ』は原文で読む方がよい。川口の『トロッコ』は芥川の作品をもとにしてはいるけれど、さらに別の作品として表現されていたと思います。テーマを自分に引きつけて言ってしまえば、「越境者の不安と自己確認」とでも言うような感覚。

 音楽担当は、バイオリニスト川井郁子。この『トロッコ』の音楽により、大阪アジア映画祭音楽賞受賞を受賞しました。
http://www.oaff.jp/program/ocf/ocf_best/index.html

 「境界を越えて、新たな絆をむすぶ」これは私の人生のテーマのひとつです。

<つづく>
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2011年04月08日


ぽかぽか春庭「トイレット」
2011/04/08
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年4月>越境者の声(6)トイレット

 4月7日夜11時半に、団地9階のわが家また大きく揺れました。宮城県では震度6、津波警報も出ました。揺れが長い時間続き、こわかったです。
 地震で多くの大学の入学式が中止になったほか、停電の影響が長引き、さまざまなイベントが中止になっています。私たちのジャズダンスサークルが出演する予定だった地元のイベントも中止になり、5月の発表会はなし。

 荻上直子監督が、第61回芸術選奨文部科学大臣新人賞(映画部門平成22年度)を受賞しました。(3月11日の地震直前に文科省から発表されましたが、3月17日に予定されていた授賞式は震災の影響で中止になりました)。
 映画部門は、昨年の西川美和監督(映画部門平成21年度)に続く、女性監督の受賞となりました。女性監督も珍しくはなくなった昨今ではありますが、『冬の小鳥』のルコント監督など、有望な女性表現者がつづく時代をたのもしく思っています。

 かっては、女性が社会で活躍するために、自分自身を「名誉男性」にしてしまわなければならない時代もありました。今、女性が女性としての感性や身体性を縦横に発揮して表現をなしえる時代であることを嬉しく思います。

 「トイレット」は、2月に、ギンレイで見ました。私が見て来たあと感想を言おうとすると、息子は「あ、言わないで、僕も見るつもりだから」と言って、一人で映画館へ行きました。夫も見て来て「こういう話、どこが面白いのかわからない」と娘に語ったそうで、娘は「父には映画がわからないんだから、ハリウッドの中身無し超大作映画でも見てればいいんじゃない?」と笑っていたのですが、「映画は家でテレビ放映を見ながら、みんなでワイワイしゃべりながら見たい」という娘だけが、見ていないことになり「なんだ、こんなんじゃテレビで放映してもつまらないよ。母も弟も見ちゃったんじゃ、私だけワイワイしていても面白くない」と、むくれています。

 一人では出かけたがらない息子が、わざわざ映画館へ出かけたのは、この映画の「みんな、ホントウの自分でおやんなさい」というキャッチコピーにひかれたのじゃないかと、私は思っています。
 家族の成長と異文化のせめぎあいがテーマ、ということですが、私にはやはり「越境者の声」の物語なのです。以下ネタバレ含む。未見の方、ご注意を。

 「トイレット」の舞台はカナダです。カナダ人と結婚した母(第一の越境者)が亡くなったあと、残された3兄弟は、母が亡くなる直前に日本から呼び寄せていた祖母との関係に悩みます。第二の越境者祖母(もたいまさこ)はまったく英語が話せない。日本人荻上直子が監督した日本映画ですが、全編英語の映画です。第二の越境者バーチャンの声はトイレを出たあとの「ため息」だけです。

 3兄弟。長男モーリーは引きこもり生活を何年も続けています。次男レイは企業の実験室勤務。ロボットプラモオタクですが、アパートが火事で焼けてしまい、オタク趣味に没頭できる一人暮らしから一転、母が亡くなったあと、祖母、兄、妹と同居することになりました。妹は生意気な高校生。将来どう生きていくのか、まだ自分でも自分がわかっていません。

 日本語しか話せないバーチャンの心をなごませようと、兄弟はテイクアウトの寿司を買って夕食にだしたりしますが、バーチャンは毎朝トイレから出てくるとため息をつき、カナダの生活になじめないようす。

 引篭りの長男モリーが母の形見のミシンを見つけたことから、3兄弟の生活が変わっていきます。モリーは母のミシンで自分が着たい服を作ろうとします。服の生地を買うために4年ぶりに家のドアから外に出ます。英語ができず家から出ようとしなかったバーチャンも、モリーの服のために買い物に出て行きます。モリーが縫い上げたのは、鮮やかなプリント柄のスカートでした。スカートを履き、「ほんとうの自分」に出会えたモリーは、4年前、引きこもりの原因となった出来事に再チャレンジすることを決意します。ピアノのコンクールに出ること。モリーは音楽学校の教師達から将来を嘱望されていたピアニストの卵でした。

 リサは高校で詩の創作クラスに気になる男子生徒を見つけましたが、なかなか上手い具合には進展しません。リサはバーチャンがひとりで見ていたテレビの「エアギター」にひかれます。エアギターは音は出しません。しかし、音が無くてもギターの音が聞こえてくるような自己表現のひとつではあります。
 派手な音をならすように詩を朗読するハンサムな男子生徒が、プラモデルを見つめる兄レイを侮辱するのを聞き、音は出さずに静かにプラモデルに熱中するレイを弁護します。
 リサはエアギターの選手権に出ようと決意します。

<つづく>
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2011年04月09日


ぽかぽか春庭「エアギターの音」
2011/04/09
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年4月>越境者の声(7)エアギターの音

 (『トイレット』ネタバレ続き)
 家族に冷淡な態度をとっていたレイは、バーチャンがほんとうにママの母親なのか疑問を持っていました。長い間、ママとバーチャンは音信不通で、バーチャンをアメリカに呼び寄せたのは、ママの死の直前だったからです。レイはアパートの火事によって手に入った保険金で「遺伝子調査」を行うことにします。しかし、バーチャンが本当に血縁関係を持った親族かどうかを調べるはずの調査は、レイだけが知らされていなかった家族の秘密をあばく結果になりました。

 家族と遺伝的なつながりを持っていなかったのは、バーチャンではなく、幼いとき養子に迎え入れられたレイ自身だったのです。
 でも、家族とは、遺伝子がつながっている人のことだけでしょうか。家族の絆とは血縁関係という問題ではなく、いっしょに暮らし互いを気遣い合う心のつながりを持つ人々のことなのだとレイにもわかってきます。
 レイは、何より大事なロボットプラモデルの購入をあきらめて、バーチャンが気持ちよくトレイを使えるよう、日本製の「ウォシュレット」を購入することにします。

 『トイレット』を見て「つまらない」という感想を持った夫のほか、この作品の不足面はいろいろあげることができるのでしょう。しかし、私は『かもめ食堂』も『めがね』も荻上直子、好きです。芸術選奨文部科学大臣新人賞、おめでとうございます。
 良かった点はいろいろあります。英語を話さなくても表情で感情を伝えるもたいまさこの演技が自然で、カナダの美しい風景に溶け込んでいたこと。サチ・パーカーが妙な服を着ていつもバス停に座っているホームレスっぽい女性を演じていて、独特の存在感を示していたこと。モーリーが自宅のピアノで弾いたり、コンクールシーンで弾くピアノ曲がとてもよかったこと。

 モーリーが弾くピアノ曲。フランツ・リスト「ため息・演奏会用練習曲・第3曲変ニ長調」、リスト『波の上を歩くパウラの聖フランソワ』(ふたつの伝説第2番)、ベートーベン「ヴァルトシュタイン(ピアノソナタ第21番ハ長調)」が演奏されました。

 様々な名演奏がある中、あえて古い録音。1940年 にレコーディングされたホロビッツの演奏でリスト「伝説二番・波の上を歩くパウラの聖フランソワ」
http://www.youtube.com/watch?v=U6Jffo2JdQI&feature=related
 フジコ・ヘミング演奏でリスト「ため息」
http://www.youtube.com/watch?v=ix5tV2N8d5Y
 Alice Sara Ottの演奏でワルトシュタイン第一楽章
http://www.youtube.com/watch?v=7xk8Iju821w
 「トイレット」の音楽担当は、バイオリン奏者の川井郁子。
予告編
http://www.youtube.com/watch?v=zqGaVvt8ev8&feature=related

 リサが見つけた自己表現「エアギターの演奏」。エアギターは音を耳には伝えないけれど、音を見せることはできる。心の耳には音が届く。ばーちゃんは英語を話せず、耳に英語の音を伝えることはなかったけれど、ばーちゃんが孫達を愛しているというメッセージをちゃんと伝えました。
 モーリーは5年前、ピアノの演奏コンクールを前に心を閉ざしてしまいましたが、「ほんとうの自分」をためらいなく出すことでピアノの音を取り戻しました。
 家族と血のつながりがないことを知ってしまったレイは、家族との絆とは何なのか、心の糸を見つけました。

 心の中の境界線は、目に見えずひかれているのだけれど、私たちは越境者となって境の向こうへ行くことができるし、エア・ブリッジを渡ることができる。

 トイレタイムは、食事や睡眠と並んで日常生活を構成する重要なひとときです。震災の避難所でも、トイレが不自由で体調を崩してしまう例もあったと聞きます。日常生活を滞りなく穏やかに運ぶために、大切なひととき。トイレ、親しい人とのなごやかな食事。穏やかな眠り。
 その大切な日常生活は淡々と運ぶようでいてあっけなく破壊されてしまうこと、いろいろなことを知った2011年3月でした。

 トイレットペーパーが店頭から消えて、買い占めに走る人もいた、などと、あとになってみれば、何をそんなにあわてて紙など買わなければならないかと思うのですが、買い占めに走った人々にしてみると日常生活を防衛するために仕方なかったと言うでしょう。
 トイレに入ってほっとする日常生活が、明日も穏やかに続いていくことを祈る毎日です。

<おわり>


 この『冬の小鳥』は「キム・セロンという子役を得たことが成功の要」とは、闘う映画批評家牧野光永氏の評です。もうひとりの子役スッキを演じたパク・ドヨンもよかった。スッキは環境に自分を適応させる術にたけ、アメリカ人の養子に選ばれるためにカタコトの英語を話そうと努力します。また11歳までなら養子のもらい手が多いが、12歳を過ぎた子はもらい手が減ってしまうということを知って年齢を1歳少なく申告しています。初潮が来たことも自分一人の秘密にしています。初潮を迎えてしまうと養子の希望者が減るからです。

 養子にだされる子を、残される子が送り出すシーンが4度繰り返されます。最初は見た目もかわいらしく、いかにも「養女向き」な女の子が孤児院を出て行くシーン。次は、年齢も養女に選ばれる年頃を過ぎてしまい、足が不自由なイェシン。イェシンは自分が「養女とは名ばかりの労働力・女中がわり」としか扱われない将来を知りつつ、施設を出て行きます。歌によって送り出されることもなく、ひとり、不自由な足をひきずって出て行くのです。
 スッキは自分の狙い通り、金持ちそうなアメリカ人夫婦に引き取られます。出て行く子の背に韓国語による「蛍の光」と「故郷の春」の歌が投げかけられます。4度目のお別れシーンは、ジニがフランスに送られるとき。

 「故郷の春향의봄Ko-hyang-eui Pom」は、作詞:李元寿、作曲:洪蘭坡。朝鮮や韓国の人にとっては、代表的な故郷を思う歌です。

 私は、この歌を中国にある「北朝鮮レストラン平壌館」で、女性服務員によるショウタイムで聞いたことがありました。北朝鮮でも韓国でも故郷を賛美するときはよく歌われています。
 冬ざれの寒々とした光景のなかで、別れの歌として、残されてしまった孤児たちが歌う歌声には特別な響きがあります。それは、故郷を賛美する歌でありながら、故郷から引き離され、遠い異国に養女として引き取られる子を送り出す歌として歌われているからです。越境させられていく幼な子から故郷を引きはがす歌なのです。

 「故郷の春,256;향의봄」
http://www.youtube.com/watch?v=tTrBV671TcU

1.わたしの住んでいた故郷は、花咲く山の谷。
桃の花、杏の花、小さなツツジ。色とりどりの花の宮殿のあった村。
その中で遊んだころが、なつかしい。
2.花の村、鳥の村、私の昔の故郷。
青い野原の南から風が吹けば、小川のほとりにしだれ柳が舞を舞う村。
その中で遊んだころが、なつかしい。(大田雅一訳)

 この歌の扱い方ひとつをとっても、ルコント監督の「韓国語とフランス語の間の私」を感じました。この映画は、「生まれた国と文化から引き離され、新しい文化の中に放り込まれた人の感性」「母語を忘れてしまい、新しく獲得した言語でシナリオを書いた」ことの感覚が、冬の荒涼とした光景のなかで「故郷の美しい春」を歌うシーンになっていると思います。

 ルコント監督は、インタビューの中で「韓国文化から別れてフランス文化に入ったとき、葛藤(かっとう)や苦痛を感じました。(韓国の孤児院では)カトリックのシスターたちによく面倒をみてもらったので、プロテスタントの家庭に入ったのも一種の別離でしたから苦痛で悲しかったですよ」と述べています。ふたつの文化の相反する環境の中で育った監督が、9歳の子供の孤独や絶望、再生とかすかな希望に前進する姿を繊細な映像によって描き出しています。

 ジニは死んでしまった小鳥埋めた場所を掘り返し、自分自身を埋めてしまおうとします。ちょうど自分が入れるくらいに穴を広げ、横たわって自分の上に冷たい冬の土をかけていきます。最後に顔に土をかけ、自分の葬儀を完成したあと、ジニは息苦しくなり思わず顔の上の土を振り払います。ジニの再生です。このときのジニの表情を引き出せた監督は子役になんと言ったのでしょう。聞いてみたい。

 以下は、インタビューで語られたルコント監督のことばです。
 『冬の小鳥』は、私が過ごしたカトリック系の児童養護施設での体験に着想しています。自伝的な要素を消し去ることは困難でしたが、同時にただ記憶の再現にとどめる気も全くありませんでした。捨てられ、養子にもらわれていくという途方もない状況に面した少女の感情を、現代にも通用する形で表現したいと思ったのです。二つの人生が交差したあの日々。諦めることを学ぶ必要もなかったそれまでの人生と、限りなく切望することを知る人生。その二つの結び目をしっかりほどいて見せることは、映画でしかできないと思ったのです。

 私はどのように施設に行ったのか覚えていませんが、ジニのように家族が私を迎えに来るのを期待して、心うつろに待っていた記憶はあります。あの時抱いていた一縷の希望は、生涯忘れることができません。この映画は 捨てられた子供が感じる怒りと反抗、子供は受動的な存在ではなく、喪失感や傷を感じられる存在なのだということを描いています。

 「養子」の話ではなく、万人が理解できる「感情」についての映画です。ジニはたった一人世界に取り残されてしまいますが、そこから新しい人生を生きていくことを学びます。これは愛する父親を失ったからこそ学びえたことです。今の私の人生があるのも、両親が私を捨てたおかげです。同時に「どうして親が子を捨てられるのだろうか」という問いかけも数え切れぬほどしてきました。ありがたみと捨てられた痛み。実の両親を思い浮かべると、コインの裏表のような感情が複雑に交差します。実父にこの映画を観てほしいとは思いますが、捜してまで会うつもりはありません。今まで父が私を訪ねてこなかったのは、父には別の人生があるということですから。」

 ルコント監督は韓国語を忘れてしまい、フランス語でこの『冬の小鳥』のシナリオを完成しました。しかし、映像という「共通言語」で映画を完成したことで「家族から捨てられたというトラウマからようやく抜け出せた」とも感じたといいます。
 「故郷の春」の歌声は、今ルコント監督の耳にどのような響きで届いているのでしょうか。

 私にとって、『冬の小鳥』は、母語を失った女性が、忘れてしまった言語によって故郷の世界と和解し、自分を捨てた家族のトラウマから再生する心の表現としての映画でした。
 私の現在のテーマ「越境者の言語表現」にとって、自らの意志でなく越境せざるを得なかった人のひとつの魂の軌跡の表現として、とてもすばらしい感動を残してくれました。

<つづく>


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