一言で言ってしまえば、そう思わなければ頑張れない、という時がある。
死んだら、自分を虐めたり辛くあたったりした奴が少しは悪いと思ってくれる、と思ってしまう時がある。
実際は、いじめなどができる奴は、こちらが希望するほど何か感じたりしない。鈍感だから虐めることができるのだから。
「せいせいした」と言って、もし運良く?少しその時は気にしたとしても、数年もたてば忘れて楽しく暮らすだろう。だから、「死んだら負け」と言われるのだ。
そんな奴から離れて、自分の幸せを掴めば、それでいいのだから。
でも、そんなに簡単なことだろうか。
「死んだら負け」というのは、自分が自分に言い聞かせる言葉ではあっても、他人から言われたくない言葉ではないだろうか。
ー少なくとも自分は、言われたくない。
死ぬということは重い。何もなければ、またいつものように明日がくる、と思いがちだ。
でも、実際はそうではない。いつ心臓発作を起こすか誰も知らない。いつ事故が起こるか誰も知らない。天変地異だってありえる。
突然、自分が病気だと言われることもある。
その時、生きていたい、と思い、いつもの明日はいつものものでないことに気づく。そのいとおしさを振り払って、自殺してしまうことは、とてもとても、重い。
ーあえて、自殺、と表現したのは、虐め等で死のうとする人は、本当は死にたくないのではないかと思うから。
死にたくないけど、あまりにも辛すぎて耐えられないから。知らない死の苦しみよりも、現実の苦しみがきつすぎるから、死のうとするのではないかと思うから。
人間、生きてると一度や二度は死にたくなる。消えてなくなりたい、から、一歩進んで、どうやって死のうか考えることもある。
私が自殺しなかったのは、死ぬことの方が怖かったから。痛い、苦しい、というのが嫌だったから。
そして、虐めてきた奴が後悔など絶対しないと分かっていたから。
今思えば、人間不信の塊だったかもしれない。まだ、後悔してくれるかも、と思って死ぬというのは、人間の善なるところを信じているからだ。
私は、虐めっ子に良心があるとは思わない。少なくとも、私が思うような良心はない。
もし持ち合わせていたらいじめはしないだろうし、後に気づいたとしたらーそれは地獄だろう。
でもそこで苦しんでも、私はどうでもいい。もはや関心がない。
話がそれたが、何もなければ生きていたいと思う人間が、痛みや苦しみをおして死を選ぶ、その決断を負けと言っていいのだろうか。
生者は死者に手が届かない。そのやりきれなさが、「負け」という言葉を使わせるのかもしれないが。
まだ考えている。結論はでない。