孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

非日常の夏祭り・・

2015年05月06日 | 日記
今朝、カーラジオのFM放送を聴いていると、司会者が住んでいる浜松市は昨日で盛大な「浜松祭り」が終わって、今朝の街はまるでゴーストタウンのように静まり返っていた、と話していた。浜松祭りといえば、勇壮な凧揚げ合戦と絢爛豪華な御殿屋台の引廻しが有名だが、よくテレビ中継では「激練り」と呼ばれる独特なラッパの音と共に街中を大量の参加者が練り歩くところを中継する。

私は、まだ一度も浜松祭りを見に行ったことはないが、一つには交通渋滞が酷いこと、そしてもう一つの理由がこの「激練り」の恐ろしさが理由である。特に「浜松祭り」に限ったことではないだろうが、この手のお祭りには、少し強面のお兄さん連中がチラホラ目立ち、更に酒が入ったりすると、そういう方々の威勢が一掃強まって、私のような気の小さい人間には近寄りがたいのだ。

夏祭りなどの「ハレ」という非日常の機会になると、どこからか集まってくる「や」で始る三文字の人達(八百屋じゃないですよ)は、普段は何をなさっているのかと思ってしまう。子供の頃どこかの祭りで見た、倶利伽羅紋紋(くりからもんもん)の美しさは、目に焼きついているが、そのとき私は子供ながらに、このおじさんは、堅気じゃないな、と直感したのだった。

浜松といえば、遠州のからっ風に象徴される怖いもの知らずの、「やらまいか精神」の所為か、ホンダ、ヤマハ、スズキ、などの世界的な企業の発祥地として名を馳せている。さらに終戦後には、知る人ぞ知る、「浜松大紛争」と呼ばれる抗争事件が、全国的に有名で、浜松の歴史を語る上では欠かせない。

昭和23年4月、浜松には国際マーケットと呼ばれる闇市からなるコミュニティが形成されていた。国際マーケットは在日朝鮮人が中心となって、禁制品を堂々と売りさばいていて、他の市内の闇市は、的屋の関東霊岸島桝屋一家服部組が仕切って、ありふれた物を扱っていたのだが、在日朝鮮人たちの売る拳銃や麻薬、ポルノ関連商品などに客足を奪われ気味だった。

終戦直後は、GHQマッカーサーらの策略で、在日朝鮮人たちを「戦勝国民」扱いし、「もはや諸君は解放されたのだ」というプロバガンダに載った在日朝鮮人たちが、日本全国で暴れたい放題だった。浜松市警といえども、日本人の的屋は摘発できても、治外法権だった朝鮮人たちの禁制品を取り締まることは事実上無理で、警察とていつ朝鮮人に襲われてもおかしくない様な世情だった。

闇市を引き継いだ「小野組」と在日朝鮮人たちのにらみ合いは、ますます熱を帯びていき、在日朝鮮人たちも各地から浜松に集結して、一触即発の状況になっていた。1948年4月4日、朝鮮人たちが小野組組長宅を襲撃し、浜松市警を巻き込んで、市内で銃撃戦となった。その後戦闘は数日間続き、死者数名、負傷者約300名を出すに及んで、浜松市警はMPの出動を要請した。

やがて、進駐軍MP400名が抗争を沈静化することになるのだが、興味深いのは、事態が収まってから。浜松市民の有志たちが小野組に見舞金を出しているということだ。その金額は50万円だったという。大卒国家公務員の初任給がたかだか3,000円だった頃の話である。