ふわり、ふわりと風のふくままに・・日記

感性がキラリと輝くような毎日を過ごしたいけれど、現実はなかなか思うようにはいかない。小さな喜びに敏感でありたい。

キリスト教入門クラス

2007-01-17 20:30:24 | カトリックの信仰
 昨晩に続き、今日の午前中は今年に入って入門クラス開始。昨日は5人(欠席3人)、今日は3人。今はテキストの中、『新しい創造の息吹』という単元もそろそろ終わりの箇所。聖霊について丁寧にみてきている。今日はその中でカトリックの教義の中の『三位一体』の神秘についてであった。

 神は「父なる神」「子であるイエス・キリスト」「聖霊」という三つの『位格』があって、しかも『唯一の神性』を共有していると教会の教義(教え)の中で定義されてきた。『位格』のことを教会の伝統の中では位格というが、私はペルソナ→パーソナリティーと言い換えるときがある。私がカトリック要理を教えられていたころは『三位一体の神秘』は人知をこえる神秘であるから、私達にはそのまま信じるしかないというような捉え方を勧められていた。でも、今は言葉によって理屈合わせのようにしないで、もっと身近に神の存在の神秘を受け止めたらいいとテキストの著者は言う。

 父である神のことは、イエス・キリストを通して私達に知らされ、イエスのうちに神は明らかにされた。私たちはイエスの言葉や行い(福音という)を通して、聖霊によって神のことを知り、神と親しく交わることができる。神はすべての初めから独り子イエスを愛されたように、イエスを通し、聖霊によった今もいつも私達を愛してくださっている。そのことが私達のキリスト教信仰の本質であり、『三位一体の神秘』だと思う。

 自分の身の回りにある人と人との出会いや交わりを通して、神の存在を感じることができる。神に感謝することも度々である。このクラスでの出会い一つをとっても、言葉で説明しようと思うと、まぁ色々な言葉を重ねなければならない。「○○さんが教会に来るきっかけはこういうことがあって、●●の気持ちで祈りたいと思った、あるいは祈って欲しかった、誰かに助けを求めたい気分だった。その対象は教会じゃないことだってあるのに、○○さんは導かれて教会に来た。たまたまその教会で誰かに声をかけられ、あるいは自分で貼ってあるクラスの紹介を見て、私のクラスに来てくださった。何か触れるものがあったから、私の拙いキリスト教入門クラスに来続けてくださっている。私の話の足りない分を神が聖霊の働きで補って下さっているから、少しづつでも伝わるものがあるのかもしれない。私は又、皆さんとの出会いによって、自分の信仰を見つめる機会を頂いてお互いが豊かになっていくことが本当に私の喜びになっていて感謝です。神がいて、神のことを話すときに必ずイエスの伝えたかったことを思い、聖霊の働きに祈って…云々、云々」と長々となってしまう。神の計らい、イエスの思いを語っていくとつい段々と熱弁になるときもある。私が心がけたい『神様へ信頼』できる生き方、信仰にある喜びを伝えたいと思っている。誰にでもあるイエスとの出会い、神との出会い(それがあったからこそ教会に来ている)を、自分の言葉で語れるそれぞれの信仰を養い育てて欲しいと願っている。

 水曜の午前のクラスを終えて、2日か3日はクラスのことを考えないようにしている。一旦気持ちを楽にしてから、日曜のミサの後ぐらいから火曜の夜のクラスのことを考え始める。テキストを何度も読み、聖書を読み、教会で教えている真理を曲げることなく私の言葉で伝えられるかと段々緊張していく。たいてい日曜も、月曜も忙しくしていて、気持ちのどこかで時間が足りない!と思いながら準備を進めるので、火曜日の夜のクラスを終えて、水曜の午前のクラスが終わると、ふーっと気持ちが軽くなる。あーも言えたら良かったとか、伝え切れなかったと思うこともあるけれど、信仰を伝えるという仕事は1回勝負ではないので、そのことでくよくよと思うことはない。

 今日は、よく寝られる晩である。