先の見えない闘病生活。 残り少ない人生。

2018年07月28日 | 病気 余命を考える 死を迎える準備
難治がんの記者が経験した「三つの苦難」 底なし沼のような3カ月を脱するのにしたこと〈dot.〉
7/28(土) 16:00配信 AERA dot.
難治がんの記者が経験した「三つの苦難」 底なし沼のような3カ月を脱するのにしたこと〈dot.〉
野上祐(のがみ・ゆう)/1972年生まれ。96年に朝日新聞に入り、仙台支局、沼津支局、名古屋社会部を経て政治部に。福島総局で次長(デスク)として働いていた2016年1月、がんの疑いを指摘され、翌月手術。現在は抗がん剤治療を受けるなど、闘病中
 うまくいかなかった2度の手術。「もう完全に治ることはない」と医師は言った。「1年後の生存率1割」を覚悟して始まったがん患者の暮らしは3年目。46歳の今、思うことは……。2016年にがんの疑いを指摘された朝日新聞の野上祐記者の連載「書かずに死ねるか」。今回は2度目の手術の1カ月後から経験した「三つの苦難」について。

【「読めない」時期を脱するのに役立った3冊の本】

*  *  *
 ずぶずぶと底なし沼にのみ込まれていくような3カ月間だった。一昨年の暮れから三つの苦難が次々にやってきて、追い詰められていった。

 まず、本が読めなくなった。

 そもそも読書のことでは悩んでいた。寿命が限られていることを考えれば、本で得た知識を生かす機会もなければ、本を楽しんでいる余裕もないのではないか、と。読めるうちは読もうと決めた矢先に起きた異変だった。

 2度目の手術の翌月にあたる2016年12月。入院中のある日気づくと、本を読み出していつも2、3ページで閉じてしまう自分がいた。何を読んでも脳みそに霧がかかったようで、残らない。情報を収める引き出しが開かないといえばいいだろうか。

 加えて、筋力も衰えている。「腹筋がないから座っていられない。腕の筋肉がないから読書もできない。寝たきりになる」と配偶者にこぼした。

 なんだ本ぐらい。そう思う方も多いのではないか。だがこの頭では、治療や検査について肝心なときに、何も判断できない。寝たきりの深刻さは言うまでもない。考えるほど不安が募った。

 これに追い打ちをかけたのが息苦しさだ。配偶者と並んで院内の廊下を少し散歩するだけで、胸も気分もせっぱ詰まってくる

 肺が一回り、二回り縮んだ気がする。結果、吸って吐く間隔が短くなっていく。ハッ、ハッ、ハッ。目をつぶり、息が整うのを待ちながら、暗い気分になった。これが生涯続くのか。

 三つ目は脚にきた。夕方になるとむずむずし始めるのだ。動かして気をまぎらわせるが、1分とたたずに居ても立ってもいられなくなる。マッサージも効くのはその間だけ。眠りが浅くなり、疲れがたまっていった。

これが「むずむず脚症候群」という病気だとわかるのは、手術後の入院を翌1月にいったん終え、自宅に戻ってネットで検索してからだ。

 かわいらしいのは名前だけ。初めて訪れた病院では名前が呼ばれるのを座って待っていられず、受付の声が届く範囲をぐるぐる歩き続けた。周りの視線にふと思った。まるでおりの中の動物じゃないか。

 それで文章を書けるはずもない。2カ月前のことを取り上げたコラムを1月に載せてから次までは、3カ月間空いた。「インプットがない。自分はカスカスです」。先輩にぼやいたのはこのころだ。

  ◇
 根治はしない。そこは理解してほしい――。そう言われたのは2度目の手術後だ。さらに言えば、私のがんは共存・共生を望めそうなものでもない。

 もしも知り合いからがんについてアドバイスを求められたら、現在進行形の患者として何を伝えるだろうか。真剣に考えるほど、ごく月並みなことしか頭に浮かんでこない。

「信頼できるお医者さんや看護師さんに体や心の状態を丁寧に説明し、これからどうするか、よく相談してください」

 その相手をどう見つけるかはこの際さておく。主治医でも、セカンドオピニオンを求める医師でも、大切なのは多くの患者に接した人と話すことだ。

 性格やそれまでの生き方と同じく、体の具合は人によってさまざまだ。似た症状に同じ治療をしても効果は違う。「風邪にはなんとか」という風邪薬のテレビCMのように、これにはこれ、というコツやノウハウはないと考えたほうがいい。「闘病記は1冊は読んでいい」と以前書いたように、過去にがんと付き合った誰かの体験談から一通りの流れを知り、心の平穏を得るのは構わない。ただ、多くは自分の例しかわからないのだから、治療や生活の参考にするやり方はよく考えて――と。

 私は「むずむず」がネットで見つかってすぐ、医師をしている中高の先輩に相談した。そのアドバイスで病院を訪れ、一部の飲み薬を別のものに換えるとともに、そのための薬を処方してもらった。途端に症状はうそのように消えた。

  ◇
 しかし、専門家に相談すれば解決するとも限らない。中には症状と見なされず、自力でどうにかするしかない場合もある。

 私の場合、「読めない」は先ほどの先輩や主治医に話したものの、がんとの関係も含め、はっきりしたことはわからなかった。

 だが放っておくわけにもいかない。

まずは週刊誌』に頼ることにした。長くない記事を読んでいけば、長いものも読めるようになるのではと踏んだが、効果はなかった。一方、月刊総合誌を1日で読み通せたこともあった。その厚さに、わずかに自信が芽生えた。


 これに対し、「息苦しい」は打つ手なしだった。病院で酸素濃度をはかっても、酸素は足りているという結果ばかり。そもそも症状とみなされなかった。

 こちらは努力のしようもない。それで放っておいたのがかえってよかったのか、いつの間にか意識から消えていた。

 思い起こせば、院内で感じた息苦しさは、気にするほど増していたように思う。「気にしないから苦しくない」「苦しくないから気にならない」。二つが相まって解消されたように思う。

 それにしても、追い詰められていたころの自分はひどかった。ものでも、ほかの患者でも、目にすると不愉快でたまらない。心の中を配偶者に聞いてもらい、気を紛らわせた。

 また体がしんどくなれば「前科」を繰り返すだろう。それを少しでも抑えるために、今のうちに自分に言い聞かせる。

 あらゆる手を打っても、残る苦しみは残る。それには耐えるしかないのだ、と。



ンゴ… | 3時間前
ごめんね。長くて全部読んでないけど。
母親が肝臓ガンのステージ4って診断で正直もうあきらめてる。
確かに前向きに思考したり行動すれば治る人もいるだろうがそれでも病状が進行、死ぬ人がほとんどだって現実も報道してほしいな

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shi***** | 3時間前
私は下咽頭癌ステージⅣでした。
首のリンパ節が、肥大してから半年後に大学病院を受診し色々な検査をしても悪性腫瘍かどうか判別できませんでした。さらに半年経って最後は自分から手術をお願いして首のリンパ節を摘出してもらいました。結果的に下咽頭癌ステージⅣでした。嘘だろうって思った。その後抗がん剤投与と放射線治療で3ヶ月の入院生活。医者から宣告されたステージⅣの呪縛は強烈で退院後も再発の恐怖にちょっとした鬱になり精神安定剤が手放せなくなりました。運良く再発せずに五年が経過してこの頃は癌のことは頭の中からすっかり消えてなくなりました。治療は辛く苦しいほど再発の恐怖も大きくなります。

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tka***** | 2時間前
先の見えない闘病生活。
残り少ない人生。
おかしくならない方がおかしいと思います。
うちの母も癌再発の可能性アリ。なるべく寄り添って行きたいと思います。


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ダム決壊…ラオス電力輸出に打撃 死者27人以上、不明130人に

2018年07月28日 | 朝鮮エベンキ族
ダム決壊…ラオス電力輸出に打撃 死者27人以上、不明130人に
7/28(土) 18:35配信 産経新聞
ダム決壊…ラオス電力輸出に打撃 死者27人以上、不明130人に
アッタプー県
 【シンガポール=吉村英輝】ラオス南部アッタプー県で建設中だった水力発電用のダムで23日に起きた決壊ではこれまで、27人以上の死亡が確認され、約130人が行方不明になっている。国営通信によると、残されていた住民は28日までに救助されたが、避難者は6千人以上に上るという。同国の主要輸出産業である水力発電事業の投資計画にも影響がでそうだ。

 決壊したのはセピアン・セナムノイダム。ラオス、タイ、韓国の合弁企業が建設中だった。企業側によると、大雨で大量の水が貯水池に流れ込み水位が上昇、ダムが決壊したという。

 アジアの最貧国の一つであるラオスには、多くの水力発電所がある。電力の8割ほどが周辺国に輸出され、「東南アジアのバッテリー」とも呼ばれている。エネルギー・鉱業省は3月末、53カ所ある水力発電所を2020年までに100カ所に増やし、発電能力を現在の年間370億キロワット時から、同669億キロワット時に引き上げる計画を公表していた。今回のダム決壊を受け、タイや中国などへの売電計画の見直しを迫られそうだ。

 一方、ロイター通信によると、決壊したダムの建設に当たっていた企業側は決壊当日、地元政府に、ダムの状態が「安全ではない」と通達していたが、何時に連絡したかなどは不明。住民は決壊3~4時間前に避難するよう地元政府から言われたが、多くは深刻に捉えていなかったという。

 各国が支援に動き、日本は援助物資を提供、タイや中国の救助隊が現地で捜索活動などにあたる。

 水は下流域のカンボジアにも流入。同国の国家選挙管理委員会は、ラオスと接する北部ストゥントレン州などで洪水被害があり、29日の総選挙に影響がでる可能性もあるという。







tak***** | 1時間前
何か産経新聞は曖昧な報道ですね。

韓国政府も認めているようにSK建設の手抜き工事、
2日前に危険と感じていた韓国作業員は全員避難。
ラオス政府から救援要請に基づき日本政府は
JAICAに命じ、救援物資を伴って27日に現地到着。

産経新聞は何か負い目があるの?



ali***** | 1時間前
某国がその「きっかけ」を作ったんだが、それについては各種メディアはダンマリと。世も末だよなあ。

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NORAnekoNOpuss |1時間前
外国はちゃんと報道してるのに日本のメディアはダンマリ。
サラッと流して韓国企業とは言わない局もあった。

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mom***** |1時間前
>某国がその「きっかけ」を作ったんだが、それについては各種メディアはダンマリと。世も末だよなあ。

でも、日本のマスコミが隠しても賠償責任は全て韓国になる。

地元紙ビエンチャン・タイムズによると、ラオスのカンマニー・インシラス・エネルギー鉱業相は災害補償の責任は建設会社がすべて負うと語りました。

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asimov |30分前
再発防止の為にも、責任の所在は明確に示し、タップリと補償金を払って貰う必要があるかと。

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全日本愛台協会専務理事 |23分前
産経らしく、はっきり書くべき。
施工はSK建設だと、、

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chu***** |17分前
ラオスはラオスです!

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このコメントは非表示対象です。投稿内容に関する注意

... |6分前
韓国は本当に表面だけ取り繕う中身の無い酷い国だと思うね。韓国のあらゆる産業は全て「他国」の「応用技術の盗用と編集」で成り立ってるのを見てもわかる。自国で「基礎技術の開発や応用」をしたものは一切ない。だからノーベル賞にも縁が無い。

ラオスでのこの酷い人災は起るべくして起った災害としか言いようが無い。上記のような事件をほとんど報道してこなかったマスコミにも責任があると思うね。日本でもほとんど報道されていない。一体、誰に忖度しているんだか。

日本のマスコミは「国民の知る権利」や「報道の義務」を限定的に解釈するべきではない。マスコミは「国民の知る権利」を踏みにじり「報道の義務」を果たしていない。


決壊のラオスダム施工のSK建設、ダム建設分野で韓国1位
7/27(金) 10:14配信 中央日報日本語版
SK建設が韓国建設会社のうちダム建設分野で1位であることが分かった。

韓国国土交通部が26日に発表した「2018施工能力評価」で、最近決壊したラオスのダムを施工したSK建設がダム建設分野で韓国トップと確認された。2014年から4年連続で1位。

特に2014年にSK建設が韓国西部発電と始めた「セナムノイ水力発電所」プロジェクトがダム建設分野1位の決定的な役割をしたという分析だ。

しかし92.5%の工程率で工事をほとんど終え、来年2月に竣工して商業運転を控えていたラオスのダムが決壊したことで、SK建設の信頼度は大きく落ちた。

一方、ラオスダム決壊事故による被害は拡大している。ロイター通信は23日晩に発生したラオス南東部アッタプー県セピアン-セナムノイダムの補助ダム決壊事故で、これまで数十人が死亡、数百人が行方不明になったと25日(現地時間)報じた。

【関連記事】
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韓国企業が施工したラオスのダムが決壊…6つの村で洪水、数百人が行方不明
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ラオスダム決壊、4日前から兆候…「韓国職員53人は避難したが…」




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<小児がんとの闘い>抗がん剤の毒性で一度止まった心臓 治療の継続はあまりにも残酷だと…

2018年07月28日 | 病気 余命を考える 死を迎える準備
<小児がんとの闘い>抗がん剤の毒性で一度止まった心臓 治療の継続はあまりにも残酷だと…
7/28(土) 7:11配信 読売新聞(ヨミドクター)
小児外科医 松永正訓
 千里ちゃん(仮名・3歳)のおなかの中には、手術で摘出できないくらい大きな小児がんがありました。その小児がんは大変珍しいタイプで、血圧を上昇させるホルモンを放出していました。したがって、千里ちゃんは3歳であるにもかかわらず高血圧の状態にあり、そのために心臓の働きが低下し、心不全になっていました。

<小児がんとの闘い>抗がん剤の毒性で一度止まった心臓 治療の継続はあまりにも残酷だと…
イメージ
完治すると思った千里ちゃんが「呼吸していない」
 私たちは、小児科の循環器グループと連携しながら、千里ちゃんに抗がん剤治療を開始しました。

 抗がん剤は効果を発揮し、X線CT(コンピューター断層撮影)を撮ってみると、腫瘍は縮小していました。腫瘍が十分に小さくなったところで私たちは手術をおこない、腫瘍をすべて摘出しました。あとは、追加の抗がん剤を投与すれば、千里ちゃんが完治する可能性は高いと言えます。手術が終わっても、小児循環器科の先生に、心臓の機能のチェックは継続してもらっていました。

 ある日の回診のことです。夕方でした。お母さんが千里ちゃんを抱っこしています。部屋は薄暗く、千里ちゃんの表情がよく見えません。そのとき、私は「あ!」と声を上げました。千里ちゃんは呼吸をしていないのです。

 私は慌てて千里ちゃんをベッドに寝かせてもらいました。心臓も止まっています。医師と看護師が千里ちゃんの周囲に殺到して、心臓マッサージを開始し、気管内挿管をして人工呼吸をしました。心臓を動かす薬も次々と注射しました。

脳にダメージ残り、寝たきりに
 心不全を起こしていた千里ちゃんの心臓が、ついに、投与した抗がん剤の毒性に耐えきれなくなってしまったのです。懸命の処置によって心臓の拍動が弱いながらも再開したのをとらえ、私たちは千里ちゃんをICU(集中治療室)に運びました。

 およそ1か月がたち、千里ちゃんはICUから小児外科の病室に帰ってきました。自分の力で呼吸はできますが、手足を動かしたり、言葉を出したりすることはできなくなっていました。心臓が止まっていた間に、脳に深刻なダメージが加わったからです。千里ちゃんは一生、寝たきりになってしまったのです。


腫瘍が再発 治療を再開すべきか?
 さらに悪いことが起きました。超音波検査で腹部に腫瘍が再発していることが分かったのです。がんを治すためには、もう一度、腫瘍の摘出手術と抗がん剤治療をおこなう必要があります。

 千里ちゃんの今後の治療について、私たちの見方は分かれました。がんの治療で一度は心臓が止まったのですから、もう限界にきている。治療は諦めるべきだという声が上がる一方で、もう一度トライしたいという意見も出ました。

 私は正直に言って、今後も抗がん剤を継続するのは千里ちゃんにとって残酷なことだと思いました。そこで両親と面談をしました。

両親は「どんなことがあっても助けて」
 2人の気持ちは一致していました。どんなことがあっても千里ちゃんを助けてほしい。もう一度、手術と抗がん剤治療をやってほしいというものでした。そして、こうも言います。「かつて、自分たちの友人が海で溺れ、一度は植物状態になったにもかかわらず、その後、完全に回復したことがあった。千里も元の状態に戻るかもしれない」と。

 私はそれでは困ると思いました。その友人が具体的にどんな状態だったか私には知りようがありませんが、千里ちゃんが元の状態に戻ることはあり得ません。それはくり返しおこなったX線CTや脳波検査から明らかです。

 私は、寝たきりの状態で生きていく千里ちゃんを両親が受容できないならば、治療を再開することは難しいと考えました。話し合いは平行線をたどり、お互いに納得するものにはなりませんでした。

 しかし、理由はどうあれ、患者側が治療を希望しているのに医療サイドがそれを拒否するのは正しくありません。私たちは千里ちゃんに2度目の手術をおこない、抗がん剤治療も再開しました。

奇跡は起きず わが子の姿を受け入れた両親
 その結果、千里ちゃんの小児がんは完治しました。そして、奇跡はやはり起きませんでした。千里ちゃんは依然として寝たきりのままです。しかし、両親がその現実に対して、がっかりした素振(そぶ)りを見せることはありませんでした。千里ちゃんのその姿を受け入れ、千里ちゃんを車いすに乗せて、病院に通ってくるようになりました。

 再開した抗がん剤治療でもう一度心臓が止まるようなことがあったら、私たちは悔やんでも悔やみきれなかったでしょう。けれども、千里ちゃんと両親はその過酷な治療を乗り越えました。千里ちゃんに「生きたい」という気持ちが強くあったからではないでしょうか。

<小児がんとの闘い>抗がん剤の毒性で一度止まった心臓 治療の継続はあまりにも残酷だと…
松永正訓(まつなが・ただし)
松永正訓(まつなが・ただし)
1961年、東京都生まれ。87年、千葉大学医学部を卒業、小児外科医になる。99年に千葉大小児外科講師に就き、日本小児肝がんスタディーグループのスタディーコーディネーターも務めた。国際小児がん学会のBest Poster Prizeなど受賞歴多数。2006年より、「 松永クリニック小児科・小児外科 」院長。

『運命の子 トリソミー 短命という定めの男の子を授かった家族の物語』にて13年、第20回小学館ノンフィクション大賞を受賞。著書に『小児がん外科医 君たちが教えてくれたこと』(中公文庫)、『呼吸器の子』(現代書館)など。2017年11月、『子どもの病気 常識のウソ』(中公新書ラクレ)を出版。





ある大学病院に末期がんで入院してた父親に看護師が着替えさせてたときに心臓が止まり、、、

すると看護師が、私の顔を見て、焦りながら心臓マッサージして蘇生させた。後で思ったが、そのままにしたほうが本人のためだった。

医療者は反射的に救命するが、ケースによっては残酷な結果に成ることまで医療関係者はほとんど考えない。
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お迎えが、、、近いのか。フィリピン永住生活も終止符か?

2018年07月28日 | ヒデは1,人工透析、2,心が弱り40%血液排出、3,リウマチで身体が不自由...
お迎えが、、、近いのか。フィリピン永住生活も終止符か?

先日書いたが、医者が私が透析中に食事とともに飲んでいたジュースを見て<<何やらナースに指示したが>>それは身体から抜く=透析を介して=水量を3リッターにしなさいというものだった。

するとしばらくして<<眼の前がシルバーに輝き、頭がクラクラ、頭痛もしてきた>>これは危ないと考えて、ナースを呼ぶとナースが水分を抜く設定を減らした。

私がさっきドクターが何と言ったかナースに聞くと<<3リッターに増やして>>と言ったそうだ。

それで血圧はかると開始時には130~80が100~70に低下した。それで貧血状態になった。過剰に抜かれると疲労困憊に成る。帰りはフラフラ。急激低下が良くないようだ。透析当初は80~50とかあり、ナースが心配してたが(血圧低いので警告が鳴る)本人は平気で=なれてるから=低血圧なので幸福感が強い=意識が低下してるのでヘロヘロでノープロブレム人生となりストレスが急減するようだ。


昨日は、1,7リッター水を抜いた(事前にナースに聞いた)しかし、帰りは疲労困憊。危ない。しかし帰宅して休むと、心身が安定したようだ。寝てるときになんとも言えない幸福感がある。

これは、前の夜もそうで、今朝もそうだが<<起床すると、とたんに幸福感がなくなる>>寝てるときが異常に幸福感があるのだが、これはもしかしたら<<お迎えが近いのではないか?>>と感じる。

前に書いたが自分には予知能力などがあり、今まで色々と経験している。自分のことも予知してズバリ<<昨年暮れに緊急入院して命が危ない事態になった>>ことについて10年前から予知して妻に話していたのだ「私は後10年したら死ぬから、、その年は自分が00歳」と話していた。何回も。

そして見事に大当たりでリウマチの発作激痛と腎臓不良で透析。さらに心臓がよわり機能が40%ということに成り、意識レベルの低下輸血などして透析して何とか生きている。

しかし透析の負担は大きく<<長時間透析すると、かえって心身が弱る>>

透析が最大の負担なのだ。

透析受けないと死ぬのだが、週2回を1回に減らしてもらいたいとドクターに言うが却下。クレアチニン数字は当初の10,5から4,5に低下(正常値は1,5以下で8,0が透析必要らしい)4,5に低下したのだから実験的に週一回試すというのもありと自分は考える。


今朝は、貧血状態で目の前がシルバーに成り倒れそうなので休んでいたが、後、水を浴びてスッキリした。

昨夜は11時半頃寝たが、朝食食べると眠くなり又寝た。さらに昼飯食べると眠くなり又寝た。現在、少し頭が冴えたのでブログ書いてる。


寝てるとなんとも言えない幸福感なのだ。

最早、ぽっくり死にたいのだが<<寝ている間に死ねたら最高だ>> なんとか自分をコントロールして寝てる間に死ぬようにしたい。妻には早く死にたいなあ、、などと言うと「そんなにすぐに死なないんだよ!!ポックリなんかいかないで寝たきりに成り迷惑かけるんだクソジジイ」言われているが、悔しいのでねてる間に死んでやろうと自分に言い聞かせてコントロールに努めている。







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二度の乳がん、そして6歳年下の男性との結婚… 48歳女性の覚悟

2018年07月28日 | 病気 余命を考える 死を迎える準備
二度の乳がん、そして6歳年下の男性との結婚… 48歳女性の覚悟
7/27(金)

二度の乳がん、そして6歳年下の男性との結婚… 48歳女性の覚悟〈dot.〉
仕事ひと筋で走り続けてきた自分を襲った病気。救ってくれたのは同僚の男性だった(※写真はイメージ)
「私たち、結婚しました!」――続けて届いた2通の結婚報告はがき。お葬式に参列することのほうが増えていたというのに、まさか同年代である50代の友人から結婚話を聞かされるとは。もしかして、と調べたところ、ここ20数年で50歳前後の結婚増加が判明。総数から見れば少ないものの、“50歳からの結婚”が増えていることは間違いないようだ。連載「50歳から結婚してみませんか?」では、結婚という大きな決断を50歳で下すことになった5人の女性の本音とリアルに迫る。第5回は、2度の乳がんを乗り越えて48歳で結婚し、人生の新たな扉を開いた小田美代子さん(仮名・54歳・会社員)の場合をお届けする。

*  *  *
 最初の乳がんが見つかったのは37歳のとき。右の乳房に違和感を覚え検査したが、結果は「異常なし」。ほっとしたのも束の間、そのわずか1カ月後、会社の健康診断で異常が見つかった。

「1カ月前の検査では問題がなかったと伝えたんですが、それでも専門病院での検査を強く勧められました。でも、このときは、まだそれほど不安は感じてなくて、数日後、軽い気持ちで受診しました」

 結果は乳がんの疑い。すぐに細胞検査を受けたが、判定がグレーゾーン(判定不能)だったため、さらに詳しい検査に。ところが2回目も、3回目も、さらに4回目もグレーだった。

「こうした例はあまりないようで、担当医が乳がんの権威である先生に紹介状を書いてくれて、がん専門病院でさらに詳しい検査をすることになりました」

 この間、約3カ月の時間を要した。

「度重なる検査と結果待ちに生きた心地がしませんでしたね。その間も不安を取り除くためにさまざまな医学書を読みましたが、かえって不安は増すばかり。心身ともに疲れきっていましたが、そんなときでも『結婚していればよかった』とは思わなかった。それよりも、つき合いの長い信頼できる女性の友人たちが頼りでしたし、相談にのってもらいました」

 検査結果が出る日は、さすがに前日から眠れなかった。

「結果は乳がんでした。覚悟はしていたつもりでしたが、改めて“がん”という病名をつきつけられ、本当に落胆しました。その一方で不思議と冷静に先生の説明を聞いている自分がいましたね」

 そうは言っても「なぜ自分が?」という気持ちは消えず、日が経つにつれ、落ち込んでいくばかりだった。

「即入院・手術を勧められましたが、すぐ決断できませんでした。というのも、最初の検査で『がんの疑いがある』と言われた日から、親には言わず、すべてひとりで受診を続けてきましたから。でも、さすがに今回は黙っているわけにはいきません。『親にどう伝えるか』それだけを考え、帰路に着きました。でも、家に着いても玄関のノブがつかめなくて、情けない気持ちでいっぱいで、涙が止まらなくて……。どう伝えたのか、記憶がありません。でも、両親のものすごくがっかりした切なそうな顔、その後、『一緒に頑張ろう』と言ってくれたことだけは、はっきりと覚えています」

 その後も気持ちの整理がつくまで入院をグズグズと引き延ばしていた小田さん。病院からも何度も催促があり、半年ぐらい経った頃にようやく腹をくくった。

「入院してから、再度検査したところ担当医が『そんなに悪さするがんじゃないかもしれない』と。その言葉だけが頼りでしたね」

 先生の言葉通り、比較的おとなしいがんだった。手術は無事成功し、経過も順調。2週間の入院を経て退院し、3カ月後、仕事へ復帰を果した。

■左乳房に異常が、そしてリンパへの転移… 死への恐怖で押しつぶされそうに

 手術から5年。再発もなく、完治のお墨つきをもらい、安心していた8年目、46歳のとき定期健診で今度は左胸にがんが見つかる。

「前よりもショックが大きかったですね。『仕事や家族はどうなるのか』『どれだけ親不孝な娘なのか』、そして肉体的な女性としてのあきらめ、生命がしぼんでいくような死への恐怖が怒涛のように押し寄せてきて、しばらくは何も考えられませんでした」

さらに追い打ちをかけるようにリンパへの転移が判明。抗がん剤による治療が決定した。

「転移がわかったときは今までの人生で最大に落ち込みました。『どうして、どうして、なんで私ばっかりこんな目に合うんだろう』と胸が押しつぶされそうで、涙が止まりませんでした。半ば自暴自棄になり、すべてにやる気をなくし、誰にも会いたくなかったです」

 そんななかでも、励まし続けてれくれた両親や友人、職場の上司、同僚の気持ちに応えようと、徐々に前向きな気持ちになり、「治ったら、今まで考えなかったこと、向き合わなかったことにも真剣に向き合ってみよう」と思った。そのひとつが結婚だった。

「20代、30代は仕事もプライベートも充実して、毎日が楽しく、結婚しなくても一生生きていけると思っていました。それが、2度目の乳がんを告げられたことで、『このまま命を終わらせてはいけないんじゃないか』と思い始め、今まで考えもしなかった結婚についても考えてみようと思うようになりました。当時、つき合っている彼はいなかったんですけどね(笑)」

■いつもさりげなく励まし、支えてくれた同僚が今の夫

「抗がん剤治療が終盤にさしかかった頃、ある同僚がよく食事に誘ってくれるようになったんです。いつもさりげなく体調を気遣ってくれ、私の愚痴も黙って聞いてくれた同僚。それが今の夫です。でも、そのときは、まさか自分がこの人と結婚するなんて思ってもみませんでした。『親切な人だなぁ』と思ったぐらいで、恋愛感情もありませんでしたから」

 小田さんと彼は別の部署でそれぞれが課長という役職に就いており、ミーティングなど仕事のやり取りだけという間柄だった。

「もちろん、顔も名前も知っていましたが、ふたりで食事に行ったことはありませんでした。ですから、最初、誘われたときには、びっくりしました。そして、何回かふたりで食事に行き、いろんなことを話すうちに、『なんてやさしく、思いやりの深い人なんだろう』と思うようになり、『また一緒にごはんを食べたいな』という気持ちに自然となっていきました」

 でも、そのときも恋愛対象として、ましてや結婚相手として考えてもいなかったという。しかし彼の方は違った。小田さんとの結婚をしっかり考えていたのだ。

■無事抗がん剤治療を終え、プロポーズされるが、迷いも…

「7カ月の抗がん剤治療を乗り越え、定期検査でも『異常なし』と言われた日に、また食事に誘われ、プロポーズされました。突然のことでびっくりしたのと、うれしいのと2つ気持ちが交差し、自分の中でじっくり考える時間が必要でしたね」

 それから数日は、今までの彼の言動を思い返す日々。どん底にいるときも励まし、見守ってくれていた彼のやさしさがありありと蘇ってきたが、結婚となると、躊躇してしまう。

「大病を2度もし、両胸は人工乳房、髪はウィッグをつけている自分。そして年齢的に子どもも無理。しかも彼は私よりも6歳年下。『本当にこんな自分でいいのだろうか?』『彼には、もっとふさわしい人がいるのではないだろうか?』とグルグルと同じことを考えました」

 信頼している女性の先輩に相談すると、「あなたの病気のことや年齢のこと、いろんなことを承知している上で結婚しようと言ってくれているんだから、人柄は絶対に間違いない。とてもいいお話じゃない』と背中を押してくれた。

 そして、再度、今までの彼の言動を思い返した。自分の病歴や長所、短所を含めた性格、これからの可能性などを話しても、彼の態度は一切変わらなかった。そのことが結婚への決定打になり、彼の誠実さに応えたいと思った。

「結婚の意思を伝えると彼は、とてもうれしそうでした。『闘病中は彼のこんな笑顔に支えられてきたんだな』としみじみ思い、穏やかで温かい気持ちになりました。2度目の乳がんがわかったときに、これを克服したら結婚も考えてみようと思いましたが、まさか自分が本当にするなんて思わなかったですね。人生はよくも悪くも自分の思うようにならない。だから、大変ですし、そして楽しい。この縁を大切したいと思いました」

 こうして48歳で人生の新たな一歩を踏み出したのだ。(取材・文/須藤桃子)

須藤桃子(すどうももこ)
1965年東京生まれ。フリーライター。女性の生き方、料理、健康、ペット(特に猫)系を中心に活動



***** | 16時間前
40代になり、難治性肺炎と卵巣腫瘍、慢性白血球を同時に患い、卵巣と子宮は摘出、赤血球と血小板の輸血を毎週受けなければ生きられない状態になりました。

既に家庭を持っていた妹二人は厄介から避けるかの様に一切の連絡がなくなり、年老いた母はただ泣くばかり。
仕事も失い、一生懸命働いて買ったマンションも手放す事になり、生きるのも死ぬのも怖くて、真冬の高層マンションのベランダで飛び降りる事も出来ずただ泣き暮れていました。

ある日、気分転換で神社にお参りした帰り、たまたま立ち寄った飲食店で、一人の店員さんが話し掛けてくれて、それをきっかけに時々足を運ぶ様になりました。
初めて個人的に食事に誘ってくれた時、全てを打ち明けた私に「だったら支える人が必要だから、僕が支えます」と言ってくれました。
それが今の主人です。結婚したのは私が48歳、主人は42歳でした。

ドン底で神様が引き合わせてくれたご縁です。



リューズ | 21時間前
いいお話ですね。
私も癌になりその時の彼は献身的にお見舞いにきてくれましたが、退院したら捨てられました。
きっとその彼は私が死ぬと思っていたんでしょうね。一人っ子、両親はすでに他界。
誰にも相談できず。このまま再発に怯えて生きていくのかな…しんどいなぁ。

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返信8
aki***** | 21時間前
羨ましい優しい思いやりの深い彼で私も今乳癌ステージ4で手術も手遅れでできないと言われ抗がん剤の苦しい治療を終わった所だけど環境がとても苦しい
離婚した元夫の所に病院で未だ私が意識のおぼろげな時連れて来られたのだが
色々ここはどうだとかあそこはどうだとか最初の内は聞いてきたがお金に関する事になると一変して過去の私のやってきた事をネチネチと攻め立てる
自分のしている事を全部あからさまにしないといけないんでしょうかね
立派な事をしてきたとは言えませんけど

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マンションにタコ投げつけ 1時間にわたり...

2018年07月28日 | フィリピン原住民のはなし 南方民族は阿呆だらけ
マンションにタコ投げつけ 1時間にわたり...
7/27(金) 12:38配信 Fuji News Network

北海道文化放送

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27日未明、北海道・札幌市で、マンションの外壁に1時間にわたってタコが投げつけられ、警察が出動する騒ぎがあった。

27日午前2時ごろ、札幌市中央区のマンションで、「壁に何かが当たっている」と住民から警察に通報があった。

警察が出動し調べたところ、マンションの周辺10メートルにわたって、バラバラになった状態のタコが落ちていた。

通報者は、「ここに、タコの頭と目玉が落ちている感じだったんですよ。このへんに、タコがちりばめられていた。壁に何回か(タコが)当たっているんですよね」と話した。

タコは、生の状態でおよそ1時間にわたり、壁にぶつけられていたとみられる。

警察によると、けが人などの被害はないという。

(北海道文化放送)


タコもたまったもんじゃないね。

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