反中国」のマハティール復活に華人たちは戦々恐々

2018年07月12日 | 国際紛争 国際政治 



「反中国」のマハティール復活に華人たちは戦々恐々

7/12(木) 12:21配信 Wedge
「反中国」のマハティール復活に華人たちは戦々恐々
5月の総選挙でマレーシアの首相に返り咲いたマハティール氏(ロイター/アフロ)
 先週マレーシアを訪れた時、旧知の華人たちに囲まれて食事をする機会があったが、マレーシア人口の4分の1を占める彼らは、マハティール首相の再登場に戦々恐々としていた。大陸から移民として渡ってきてマレー半島を永住の地とした華人は、自由な経済活動を制限する方針を掲げた共産主義には警戒感を抱きつつ、基本的に、自らの祖国である中国の政府とマレーシアの政府の関係が良好なものであることを願う心情が強い。ナジブ前首相時代、中国・マレーシア関係は蜜月状態であり、華人社会は歓迎していた。

中国との関係は終わりだ
 ところが、そのナジブ政権が次々と打ち出した対中協力案件について、マハティール政権が次々とひっくり返す行動に出ている。その中マ友好関係の象徴である「東海岸鉄道(ECRC)」の建設中止を、先週、マレーシア政府は中国側の建設主体「中国交通建設集団」に伝えた。この事業を、「コスト面でも、契約面でもマレーシアに不利でメリットがない」と批判していたマハティール首相の肝いりの決断であることは間違いない。この中止が、事業の完全な終了を意味するかどうかは定かではないが、食事の席にいた華人メディアの幹部は「このプロジェクトまで潰されたら中国との関係は終わりだ」と嘆いた。

 マハティール首相は実のところ、中国を嫌いなのではない。ナジブ前首相が中国と築いた関係を壊したいのだ。中国への過度の依存を修正すると表明していたマハティール首相だが、その動きは大方の予想を超えて素早い。任期を2年と限定しているマハティール首相にとっては、すべてが計画通りの行動であろうが、中国の習近平国家主席にとってみれば、自らの目玉政策「一帯一路」のなかでも、総事業費およそ1.5兆円に達する最重要案件の一つとして喧伝されてきた計画をいきなり潰されてしまっては、さぞ頭が痛いに違いない。

 ただ、私の目からみても、東海岸鉄道の工事の中止は、確かにマレーシアの国益にかなっていると思えるところがある。なぜなら、この鉄道は、マレーシアにとっていかなる利益をもたらすか、まったく明らかではないからである。


中国が採算性を度外視したワケ
 マレーシアでは大型の鉄道計画を2つ同時に進行させていた。一つが、クアラルンプールとシンガポールの間の350kmをおよそ1時間半で結ぶ高速鉄道で、もう一つは、今回中止が伝えられた長さ688kmに達する東海岸鉄道だ。高速鉄道の方はすでに5月のマハティール就任直後にシンガポール政府に中止が伝えられており、これで一帯一路と関連づけられたマレーシアの大型鉄道計画の2本とも頓挫したことになる。

 採算性という意味では、シンガポールを起点に北上し、マレーシアの首都・クアラルンプールを結ぶ高速鉄道はまだよかった。シンガポールとクアラルンプール間の人的往来はきわめて活発で、飛行機で1日に84便が飛んでいる。シンガポール航空、マレーシア航空のほか、LCCのエアアジアやジェットスターなどが多数の便を飛ばしており、世界でもっとも便数の多い区間だ。計画通りシンガポールとクアラルンプールを1時間半で結べば、大きな経済効果が期待された。それでも、マハティール首相は採算性を問題視し、中止を決めた。

 東海岸鉄道の方は、採算性については絶望的であった。こちらは、クアラルンプールから東にカーブを切り、マレー半島を横断してマレーシア東海岸に行き、再び北上してタイ・マレーシア国境のトゥンパットに向かう。タイ国境も超える可能性もあった。だが、マレーシアの東海岸は基本的に低開発地域で人口密度が低い。東海岸の主要都市であり、鉄道が通る都市でいえば、クアンタンは人口60万、コタバルは人口40万。沿線総人口はクアラルンプールを含めても一千万人に満たないかもしれない。これではとても経済効果など望めるものではない。

 では、どうして中国がこの大型鉄道計画に対して、そのほぼ全額を中国輸出入銀行から融資するという形までとって全力支援に回ったのか。それは中国語で「馬六甲困境」と呼ばれる「マラッカ・ジレンマ」の解決のためにほかならない。


7/12(木) 12:21配信 Wedge
「反中国」のマハティール復活に華人たちは戦々恐々
中国が目論んできた「マラッカ・ジレンマ」の解決策(筆者記述をもとに編集部作成)
中国が目論む「マラッカ・ジレンマ」の打破
 マラッカ・ジレンマとは、中国のエネルギーや物流にとって死活的な意味を持つマラッカ海峡の安全航行について、米国やその他の国々に事実上コントロールを握られている現状を指すものだ。中国も日本と同様、エネルギーの主体である原油の輸入を中東に8割も依存している。そのタンカーのほとんどはマラッカ海峡を航行する。

 万が一、このマラッカ海峡が封鎖されたらどうなるか。その影響は中国の国家運営そのものを揺るがす恐れがある。中国経済の生命線は海運業だ。アジア・中東・アフリカから流れ込んでくる物資が南中国の港湾に無事に到着しなければ、大変な事態になる。しかし、中国にはほかに選択肢はない。だからジレンマなのである。

 ところが、もし、縦長で南に垂れているマレー半島を横断できるルートが確保できれば、マラッカ・ジレンマへの代替輸送の備えができるのである。

 最初に考えたのは、タイ南部のクラ地峡を掘削して、運河にする「クラ運河」構想だった。しかし、この大運河構想は1970年代から取り上げられており、ここ10年も盛んに論じられて水面下でタイ政府と中国政府の間で議論が進められてきたが、工事の巨大さなどもあって実現は不可能と判断された。次に中国が持ち出したのが、マレー半島東側のクアンタン港と、西側のクラン港を結ぶことになるマレーシアの東海岸鉄道だったのである。

「反中国」のマハティール復活に華人たちは戦々恐々
2018年7月4日、汚職容疑で逮捕されたナジブ前首相(ロイター/アフロ)
ナジブと中国の闇にどこまで切り込むか
 この東海岸鉄道をはじめ、マレーシアでの一帯一路案件は他の国を圧して多い。2016年、ナジブ前首相は中国訪問で大歓待を受け、李克強首相と会談し、東海岸鉄道計画の推進に舵を切った。しかしながら、その必要性や採算性について国内で議論はほとんどなく、中国のプランを丸呑みしたという印象が強く、国際的にも国内的にもその必要性には疑問の目が向けられていた。

 東海岸鉄道は、一帯一路関係案件のなかでも戦略的重要性の高い案件であるだけに、その衝撃は大きい。習近平指導部は今後、マハティール首相に対して巻き返し工作を展開するだろう。それでも頑固で大国嫌いで知られるマハティール首相が意思決定を変える可能性は低い。中国とのもう一つの協力事業であるパイプライン事業が、ナジブ前首相が逮捕された政府系投資ファンド「ワン・マレーシア・デベロップメント(1MDB)」問題と深い関連を持っている可能性が高いからだ。パイプライン事業の資金の一部が、巨額資金が行方不明になったとされる1MDBの関連事業に流用されていた可能性があると報じられている。

 マレーシアの対中依存はナジブ政権時代に一気に深まった。その深淵はまだ覗かれていない。中国の資金が、ナジブ前首相の腐敗問題に直接関わっていたとすれば、マレーシアの対中協力案件はすべて当面凍結されるだろう。中国とナジブ前首相の間に広がった闇の世界にどこまで切り込むのか、マハティール首相のさじ加減すべてにかかっている。

野嶋 剛 (ジャーナリスト)

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華原朋美、不倫疑惑が浮上しても、あまりバッシングを受けないワケ

2018年07月12日 | 芸能ニュース
興味がないタレントだから。



華原朋美、不倫疑惑が浮上しても、あまりバッシングを受けないワケ
7/12(木) 18:10配信 THE PAGE
 歌手・華原朋美が73歳の上場企業会長との親密デートを今月6日発売の写真週刊誌『フライデー』に報じられた。

 2人は、都内の高級ステーキ店で食事をした後、超高級外車のマイバッハに乗り込み、新宿区内にある華原の高級マンションに入っていったという。

 同誌の取材に対し、華原は「お父さんのような存在」と恋愛関係を否定、一方の会長側は「会社ぐるみでのお付き合い」と説明している。

昔以上にバッシングを浴びる芸能人の不倫騒動
 昨今はメディアによる“不倫狩り”も盛んで、世間の芸能人、著名人の不倫騒動に対するバッシングが花盛りだ。

 かつて大物スターや歌舞伎役者、芸人なんかの女遊びに関しては芸の肥やし的な見方もあり、世間の目も今ほど厳しいものではなく緩やかな時代もあったが、芸能評論家の三杉武氏はこう語る。

 「不倫を肯定する気はありませんが、昔よりも今の方が世間の不倫に対する風当たりが厳しい要因の一つとして、世間と芸能人との“距離感”の差もあると思います。憧れの対象やある種、浮世離れした特別な存在と認識されていた昔と異なり、今の芸能人の多くは親近感や好感度を売り物にしています。普段、自分が世間やファンにとって身近な存在であることをアピールしている以上、スキャンダルについても“芸能人だから”という特別待遇、言い訳は通用しない。好感度タレントと言われていた人ほど、不倫などのスキャンダルのダメージも大きくなる傾向にあります」

 そうした中、最近では自業自得ながら多くの芸能人が不倫スキャンダルにより芸能活動の窮地に立たされているわけだが、今回、華原に降ってわいた不倫疑惑に関しては、批判的な意見とは別の声もインターネット上では散見されている。

華原の不倫疑惑に対する意外な見方
 「華原の今回の不倫記事に関するYahoo!ニュースのコメント欄を見てみると、不倫疑惑を叩く意見がある一方で『これってようは“パパ活”でしょ?』、『パパ活してて良いじいさんが見つかった感じ』、『いいなあ、パパがいて。と、いうレベルの話』といった書き込みも多いのが印象的です」(スポーツ紙の芸能デスク)

 最近では、“パパ活”をテーマにしたドラマが人気を集めたり、“パパ活”に特化したサイトやアプリが話題となるなど、経済的に裕福な年上の男性との出会いを求める女性による“パパ活”がブームとなっている。



7/12(木) 18:10配信 THE PAGE
“パパ活”だけでなく“ママ活”も
 「昔から下積み時代の芸能人や水商売をしている人など、パトロンやスポンサーを欲しがる女性はいましたが、そういう人たちは特別視されていました。それが最近ではパパ活ブームもあって、普通の女子大生や会社員なんかも奨学金の返済や留学費用、資格取得の費用を稼ぐためといった名目で“パパ”を探したりしていますからね。ここに来て、若い男性が自分の夢や生活をサポートしてくれる経済力のある年上の女性を探す“ママ活”もブームの兆しを見せています。今回の華原さんの報道も、“パパ活女子”からすれば、『40歳を過ぎた今もステキな大物パパをゲットする朋ちゃんすごい!』といった感じなのでしょう(笑)」

 今回の華原に関する不倫疑惑報道も、不倫の真偽はともかく、パパ活志望の女性たちにとっては単なる不倫疑惑とは別の見方があるようである。

(文:竹下光)

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ホンダのフラッグシップカー、5代目レジェンドはマイナーチェンジでどう変わったのか?

2018年07月12日 | モーターサイクルメーカーなど

狭い世界に閉じこもり企画してるのかいな?

社員採用基準が変なのか?社風で変に変わるのか?ホンダの全盛期は70年台だった。

ホンダという社風の限界値が見えている。
軽とカブだけは受けている。


ホンダのフラッグシップカー、5代目レジェンドはマイナーチェンジでどう変わったのか?
7/11(水) 11:50配信 週プレNEWS
ホンダのフラッグシップカー、5代目レジェンドはマイナーチェンジでどう変わったのか?
ホンダファンにとって高級車であり続けているレジェンド ハイブリッド EX
ある意味、超ガッカリなモデルチェンジが行なわれた。それはレジェンド。そもそも1985年に生まれたホンダのフラッグシップで、ホンダが造ったトヨタ・クラウンみたいな存在だ。



まずは何も考えずにフロントマスクを見てほしい。今回は3年前に登場した5代目モデルのマイチェン。つまりテコ入れなのだが、ぶっちゃけ逆にカッコ悪くなっている。確かにより大胆に個性化してるし、デザインは人それぞれの主観ではあるが、今回導入した逆5角形の「ダイヤモンドペンタゴングリル」がなんとも奇抜すぎる。同時投入の走るヤツメウナギこと「ジュエルアイLEDヘッドライト」も形状を変更。ウインカーとスモールランプもライン発光タイプになっていて、なんともいえずにキモい。

リアコンビネーションランプも新たに流れる層状のタレ目タイプに変更。こちらもかなり個性的にはなったが、オザワの目には改悪としか思えない。

ボディは基本的に相変わらずだ。全長×全幅×全高は5030mm×1890mm×1480mmで狭い日本で乗るにはデカすぎるが、それ以上に独特の塊感がやっぱり疑問。

実はこのクラスのクラウンにしろ、メルセデス・ベンツEクラスにしろ、BMW5シリーズにしろ、すべてフロントエンジン・リアドライブのFRセダン。ロングノーズにショートデッキのエレガントフォルムを持っているが、新型レジェンドはエンジン縦置きとはいえフロントエンジン・フロントドライブのFFセダン。よってフロントオーバーハングが長く、どうしてもエレガントに見えづらい。

それをなんとか工夫し、塊感を出そうとしているが正直FRセダンを超えてない。それどころか乗ると見切りが非常に悪い。セクシーさを出すべく、フェンダー回りを無理やりマッチョにしているがゆえ、見切りや取り回しが悪くなっている。

さらに残念なのがインテリアと走りでこれまた個性を追いすぎだ。インパネは形状変わらずで、基本マテリアルが上質かつハデになっているだけ。エクステリアよりはインパクトは薄いが、そもそも独特の上に湾曲したダブル笑い目フォルムがいまひとつ流麗とは言い難い。

それどころか圧倒的に物足りない点があって、モニターが小さすぎる。上下2段式で上がナビ、下が操作画面でそこまではいいが、イマドキ8インチ程度は大衆ミニバンより小さい。

今や高級車は大衆車以上に自動運転や電動化でハイテク化しており、テスラ・モデルSなどはタテ型17インチ! ほとんど走るデスクトップパソコンであり、今やメルセデスにしろBMWにしろ基本ビッグモニター化に向かっていて、中国車ですらものすごい。この潮流に新型レジェンドはまったく追いついていない。


決定的に残念なのが走りでありその味わいだ。5代目レジェンドは画期的な3モーター式ハイブリッドAWDシステムを採用。名前は「SH-AWD」ことスーパーハンドリングAWDで、フロントを231kWの3.5リットルV6と35kWのモーターでハイブリッド駆動し、リアを左右それぞれ別の27kWモーターで駆動する四駆システム。モード燃費も16.4㎞/リットルと優秀で今の電動化ブームにびったり合っている。そういう意味では文句ナシだ。

だが肝心の走り味が伴ってないのだ。ハンドリングに繊細さと面白さが足りないFFの欠点を補うハイテク電動4WDは、リアの外側車輪を増速することで曲がりやすくする。要はFFでありつつ、微妙にドリフト効果を発揮するがやっぱりステアリングフィールが人工的。結局のところFRセダンを超えられてないのだ。

しかも今回制御をおとなしめにすることでわかりやすいドリフト感は逆に減っている。まさしく凝りすぎ。素直に高級なFRセダンを造ればいいのに、ホンダはその道を通らず、FFでFRっぽい味を作ろうとして悪あがきしている。

これは企画全体からしてそうだ。レジェンドは、ほかでやらない方式や技術でクラウンやベンツ、BMWを超えようとし、結局いまだ超えられてない。今回も「ホンダらしさ」にとらわれ、ほかが理解できない個性化が再び行なわれただけ。

それは販売台数が証明しており、今回も日本での販売目標は年間たった1000台。ぶっちゃけクラウンの月販台数以下である。お話にならない。とっくに生産をヤメたほうがいい不採算マイナー高級車であることは明白なのだ。ホンダはその事実にいつ気づくのか。そして、いつホンダ病から解き放たれるのだろうか。

●小沢コージ1966年生まれ、神奈川県出身。青山学院大学卒業後、本田技研工業に就職。90年に自動車誌の編集者に。著書に『マクラーレンホンダが世界を制する!』(宝島社新書)など多数。TBSラジオ『週刊自動車批評』レギュラー出演中。日本&世界カー・オブ・ザ・イヤー選考委員




y8 | 1日前
くそダサい

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返信0
kgk***** | 23時間前
軽自動車製造メーカーだから、高級車はデザインから無理だろぅ(笑)

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返信0
jkc***** | 1日前
何とも情けないフロントマスクになってしまったな。最初からこれならまだしも、わざわざ整形してこの有り様。

a_r***** | 1日前
フラッグシップがこれではあまりにも情け無い。MBやBMWをスルーしてこれ買う人っているのか?

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返信0
東海一の弓取り | 1日前
笑うせえるすまんにしか見えない。
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ホンダなんぞは軽とカブだけ作ってれば良いわけだ。

2018年07月12日 | モーターサイクルメーカーなど
そうだね、、ホンダなんぞは軽とカブだけ作ってれば良いわけだ。


ホンダ N-VAN 開発責任者「まずは荷室を造ることから始まった」…ピラーレスは後から
7/12(木) 10:45配信 レスポンス
ホンダ N-VAN 開発責任者「まずは荷室を造ることから始まった」…ピラーレスは後から
ホンダ N-VAN
ホンダが7月13日に発売する新型軽商用バン『N-VAN』は、軽乗用車『N-BOX』のプラットフォームを流用しつつも、助手席側ピラーレスや、後席だけではなく助手席もフラットに収納できるなど商用向けに独自の構造を採用しているのが特徴だ。

[関連写真]

開発責任者を務める本田技術研究所の古舘茂主任研究員は「まずは荷室を造ろうというところから始まり、助手席をどうすれば良いかということにしばらく時間がかかった」と振り返る。

というのも先代の軽商用バン『アクティ』はエンジンを荷室床下に搭載していたのに対し、N-VANは前輪部分に搭載するFF方式のため、床下が下がる分、荷室は高さ方向に広がるものの、長さ方向が短くなってしまうことから、後席だけではなく助手席もフラットに収納できるダイブダウン機構にすることで長さ方向を稼ごうとしたわけだ。

だがパッケージ担当者によると「まずは助手席の剛性をしっかり確保しながら、ダイブダウンした時に隙間ができてしまうと、それをどうやってしっかりと埋めていくかということを何回も繰り返しながら、これが一番良いだろうという形にやっと納まった」という苦労の連続だったようだ。

その結果、「助手席をしっかり畳めることができた時に初めて、これならピラーがない方が便利なことができるのではないかということで、助手席側ピラーレスを採用したという順番」と古舘氏は明かす。

これにより助手席側にも大きな開口部が生まれ、道幅の狭い場所や複数人で積み下ろしの際の作業効率を高めている。

ただピラーレス化で「多少なりともコストはかかる」と古舘氏は認めつつも、「通常はピラーレスにするとシートベルトをシートに内蔵するケースが多いが、N-VANはシートベルトがドアについている。これにより比較的コストを抑えている。シートスライドがあるとなかなか難しいが、今回スライドがないので、固定しても大丈夫ということで採用した。ちょっと工夫している」という。

このように苦労の末に独自構造が生まれたわけだが、乗用への横展開について古舘氏に聞いたところ、「技術的には可能」としながらも、「助手席がしっかりと畳めたことで、ピラーをなくす価値があるからこそ今回やった。シートが収まらないのであればピラーをとる価値はさほどないというのが我々の考え。利便性があって初めてお金をかける価値があるということで今回採用した」とのことだ。


《レスポンス 小松哲也》
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老後生活は「持ち家がいいか賃貸がいいか」の考え方

2018年07月12日 | 消費者情報
老後生活は「持ち家がいいか賃貸がいいか」の考え方

7/12(木) 6:00配信 ダイヤモンド・オンライン
老後生活は「持ち家がいいか賃貸がいいか」の考え方
住まいは持ち家がいいのか、賃貸がいいのか悩ましいところ。それぞれのメリット、デメリットは?(写真はイメージです) 
 2045年には日本人の平均寿命が100歳になるという「超高齢化」の時代。以前から「長生きするリスク」について提言をしてきた『老後に破産しないお金の話』の著者・大竹のり子氏が、住まいは持ち家がいいのか、賃貸がいいのか、それぞれのメリット、デメリットについて解説します。

 一人暮らしの女性にターゲットを絞って、都心のマンションを販売している会社があります。その会社では説明会を時々行っており、いつも「老後を考えた」若い女性の熱気に包まれています。

 顧客の多くは30代後半の働く女性。「結婚せずに一人で暮らしていく可能性が高いから、今のうちから一生住めるマンションを買っておこう」というわけです。

 30代後半であれば住宅ローンの返済も十分に可能ですし、今後もしも結婚し、購入したマンションに住まなくなるケースがあっても、購入時の6割くらいの値段で売れれば御の字だと考えているようです。

 一方、独身男性の場合、女性に比べるとこんなふうに将来の生活を見据えて住宅のことを考えているケースは少ないように思います。

 DINKS夫婦(子どもを持たない共働き夫婦)の場合も、老後の住まいについて考えないままになってしまうケースは少なくありません。ある40代後半の男性は、28歳で結婚して以来、通勤に便利なマンションで賃貸生活を送ってきました。共稼ぎで子どもがいなかったために、その環境を変える必要も生じませんでした。

 ところが50歳を目前にして、老後の住まいについて漠然とした不安に襲われるようになりました。いまさらローンを組むことはとても無理なので、このまま賃貸で生活していくための資金計画を妻と練らなければならないと思っているところです。

● 持ち家vs賃貸 どちらが得か?

 持ち家か、賃貸か。このテーマについては長く語られてきていますが、専門家それぞれにスタンスが異なり、明確な結論は出ていません。私のところにも、こうした相談はたびたび寄せられますが、FPといえども、この問いに明確な答えを出すことは難しいと感じています。

 というのも、住まいにはその人の人生観が大きく反映されるので、単純に「損得」で割り切ることができないものだからです。

 例えば最近、バッグや時計などブランド品のレンタルビジネスが人気を集めています。「いろいろ違うものを試すことができていい」と愛用する人がいる一方で、「自分のものでなくては嫌だ」と、あくまで所有にこだわる人もいます。これもまた、人生観の違いによるものでしょう。ましてや、家を買うには何千万円という大金が必要です。電卓をはじいての損得だけで明確な答えを出すことはできないのです。

 とはいえ、電卓をはじいての損得においても、明確な結論を引き出すことはできません。なぜなら、将来の金利や不動産価格の変化、家族構成の変化や転勤の有無等により、事情がまったく違ってくるからです。そして何より、「何歳まで生きるか」によって損得が大きく変わりますが、こればかりは予測がつかないからです。

● 高度経済成長期には モデルケースがあった

 過去を振り返ると、高度経済成長期までは、モデルケースが存在していました。男性なら、よい大学を出て大企業に入り、30歳くらいまでには結婚する。女性は専業主婦となり、子どもは2人の4人家族。多くの男性にとって、マイホーム、なかでも庭付き一戸建てを持つことは共通の夢でした。

 時代とともにマンション派も増えていっ

たものの、それでもマイホーム神話は長く健在で、「マイホームを買ってこそ一人前」と思われてきました。こういった神話を盤石なものにした背景には、その頃の日本が高度経済成長期で、毎年平均数%ずつ経済成長していることもあって「不動産は値下がりしない」という、購入を後押しする環境があったからです。

ところが、バブル経済が崩壊し様相は一変。「一生、賃貸で暮らすほうが利口なのではないか」という価値観が表舞台に出てくるようになったのです。

 確かに、少子・高齢化が進み、日本の人口が減少しているのに対し、住宅の供給は増加する一方です。部屋余りの時代が来ていることは間違いなさそうです。

 そうなると、「使わなくなったら売るか貸すかすればいい」と思っていても、想定していたような価格や家賃で相手が見つかるかはわかりません。一方、借りる側に立ってみれば、物件が余っている状況のため、「家賃がどんどん値上がりして困る」「貸してくれるところがない」といった状況にはなりにくい、つまり借り手市場が今後も続くと推測されます。

● 持ち家派は定年までに住宅ローンを 完済させるプランにすること

 ただし、いくら部屋を借りるのが簡単になったとしても、月々の家賃を支払わなければならないことに変わりはありません。

 人生100年時代を迎え、寿命が延びるにつれ、家賃の支払期間も当然、長くなります。つまり、生活費にかかる住居費の総負担は非常に大きくなります。

 例えば、65歳で定年を迎え、90歳まで生きるとしましょう。仮に家賃が月に8万円として単純計算すると、「8×12×25」で2400万円の支払いが生じます。さらに寿命が10年延び、100歳まで生きたら3360万円になります。定年後までに用意するお金に、この金額を加えていかねばなりません。

 一方、マイホームを購入して定年までに住宅ローンの支払いを完済すれば、住居費は基本的にかかりません。固定資産税や修繕費、マンションであれば管理費などは用意しておかなければなりませんが、老後の生活における毎月の金銭的負担はかなり軽減されます。心理的負担も少なくて済むでしょう。

 ただしこれは、住宅ローンを定年までに完済しておくことが前提です。定年後にもずっしりと住宅ローンが残っている場合、毎月の金銭的負担という意味では、マイホームでも賃貸でもさほど違いがありません。住宅ローンを組んでいる人は、住宅ローンの負担を年金生活に持ち込まないようにしたいのであれば、支払いプランをいまのうちから見直しておく必要があります。

 お金の問題以外にも、持ち家であればペットも自由に飼えるし、リフォームもできるけれど、賃貸はそうはいきません。一方で、ゴミ屋敷など周囲の環境に問題が生じた時、賃貸なら引っ越せば解消しますが、持ち家では売るにも貸すにもそれなりの手間がかかりますし、先ほどもお伝えしたように想定していたような価格や家賃で相手が見つかるかはわかりません。

 どちらにも、違った意味でのメリットもあれば、不自由さやリスクもあります。「持ち家がいいか、賃貸がいいか」という議論には、それをどう考えるかという人生観が問われているのです。

大竹のり子








要は、銭=現金をいくら保有するかだな。銭が十分なら老後は安心。

現金ないので借家、或いは長期ローンで銀行に利子を払い続け結果が倍の値段の返済という。

国が持ちや政策で安価な公共住宅を激減し或いは高級化したのが原因で庶民が住宅苦になった事を愚民が悟れない。

本来国が安心して暮らせる住宅政策をすべきだが瓢箪島は弱に追い込む政策で社畜化するのが目的。

奴隷政策。
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ミニアパートのオーナーがガヤルドを提訴へ

2018年07月12日 | 消費者情報
ミニアパートのオーナーがガヤルドを提訴へ

7/12(木) 13:37配信 東京商工リサーチ
ミニアパートのオーナーがガヤルドを提訴へ
ガヤルドの本社入口(5月撮影、既に退去)
 ミニアパートのサブリースを展開する(株)ガヤルド(TSR企業コード:294701176)に対し、一部のアパートオーナーが損害賠償を求めて提訴を検討していることがわかった。
 ガヤルドは、2003年6月に設立。「テラス」ブランドで木造ミニアパートの建築、サブリースを手掛けている。大半のオーナーは、ガヤルドと土地の売買契約を結んだ上で、ガヤルドが斡旋する業者と建築工事の契約を締結している。しかし、土地と建築代金の一部を支払ったにもかかわらず、工事がストップするケースが相次いでいる。
 7月12日までに、足立格弁護士(村田・若槻法律事務所、電話03-3263-0480)と池田大介弁護士(東雲総合法律事務所)がオーナー5名から受任した。早ければ、7月20日にも東京地裁へ提訴する方針。
 オーナー代理人の池田弁護士は東京商工リサーチの取材に対し、「既に大きな問題となっているスマートデイズと違い、ガヤルドはほとんどの案件でアパートの建築すらされておらず悪質だ」とコメント。裁判を通じて、ガヤルドの責任や資金の流れを追及する方針だ。

(東京商工リサーチ発行「TSR情報全国版」2018年7月13日号掲載予定「SPOT情報」を再編集)

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ロスチャイルド家(Rothschild、

2018年07月12日 | 国際紛争 国際政治 
ロスチャイルド家(Rothschild、


「ロスチャイルド」は英語読み。ドイツ語読みは「ロートシルト」。フランス語読みは「ロチルド」[1]。)は、ヨーロッパの財閥、貴族。門閥として名高い。ロマノフ家とはHubert de Monbrison (15 August 1892 – 14 April 1981) の三度にわたる結婚を介して家族関係にある[2]。また、ベアリング家ともギネス家を介してやはり家族関係である[3]。モルガン家やゴールドシュミット・ファミリーとも親密であり、1001クラブ等の広範なビジネスコネクションをもつ。アメリカについては、ウィルバー・ロスやフィデリティ・インベストメンツと、実業家時代のドナルド・トランプを支援した[4][5]。



国際協調の成果と限界

18世紀後半にフランクフルトのゲットー(ユダヤ人隔離居住区)出身のマイアー・アムシェル・ロートシルトが銀行家として成功し宮廷ユダヤ人となった。彼の五人の息子がフランクフルト(長男アムシェル[注釈 1])、ウィーン(二男ザロモン)、ロンドン(三男ネイサン)、ナポリ(四男カール)、パリ(五男ジェームス)の五か所に分かれて銀行業を拡大させた。二男と五男は鉄道事業へ出資をして創設に関わった[注釈 2]。この他、一家はスペインのMZA鉄道(マドリード・サラゴサ・アリカンテ鉄道)と上部イタリア鉄道(Società per le Ferrovie dell'Alta Italia)もファイナンスした[7][8]。近代化しつつあった郵便事業にも関わっていた。記事にはロスチャイルド家所有の建築物が多数掲示されている。その大部分は大不況 (1873年-1896年) のときに築造・再建・取得されている。もっとも、写真がないシャトー・ド・プレニーは1858年に落成し、大不況をすぎた1900年に遺贈された。

豪邸は大きな影をつくる。オスマン債務管理局をめぐり債権国同士が対立し、ロスチャイルド家の国際協調に限界を知らしめたのである。1901年にフランクフルト家とナポリ家は閉鎖した。前者の銀行は同年ディスコント・ゲゼルシャフトに吸収された。列強各国の投資が東欧で入組み、そのまま第一次世界大戦が起こった。ウィーン家はサン=ジェルマン条約により延命されたが、ドーズ案の出るころ財政が危機的となった。ウィーン家のクレディト・アンシュタルトにアングロ・オーストリアン・バンクが買収され、内側から外資を誘導し、クレディト・アンシュタルトが世界恐慌で破綻したときに独墺関税同盟を破棄させた。1934年、オーストリアで2月内乱が起こった。この動きがチェコスロバキアに飛び火した1938年、ウィーン家も閉鎖した。

ロンドン家とパリ家は現在まで残っている。両家は日露戦争のころ日本政府へ巨額を貸し付けた歴史をもつが、それでさえ普仏戦争の賠償シンジケートに比べると彼らの仕事では小さい方である[9]。とはいえ、ロンドン家のシンジケートは関東大震災後の復興融資を通して日本経済に深く浸透した[注釈 3]。また、両家はそれぞれイングランド銀行とフランス銀行に対して一定の影響力をもった。加えて、ロンドン家はベンジャミン・ディズレーリ内閣のときにスエズ運河買収のため400万ポンドを年利3.5%満期36年で貸しつけたり、国家事業であるケーブル・アンド・ワイヤレスの経営に助言したりした。パリ家は総合水道会社(現ヴィヴェンディ、ヴェオリア・エンバイロメント)を設立し5千株を引受けて大株主となったり、ソシエテ・ジェネラルをつくって横須賀造船所と露清銀行へ資金を提供したり、地中海クラブを所有したりして、1961-62年にフランス国内全民間資産の6.0%を保有するに至った[11]。パリバが7.7%、ラザードが5.5%、ユニオン・パリジェンヌが4.1%、商工信用銀行(スエズ運河会社も参照されたい)が3.7%、ヴァンデル家(Groupe Lorrain)が3.5%[注釈 4]、フランス商業信用銀行(現HSBCホールディングス)が2.7%、200家族のシュネーデルが2.1%、インドシナ銀行が2.0%、クレディ・デュ・ノル(現ソシエテ・ジェネラル)が1.8%であった。縁戚のウォルムズ銀行(フランス語版、ドイツ語版)はユニボール・ロダムコを設立した。

現在はN・M・ロスチャイルド&サンズが、M&Aのアドバイスを中心とした投資銀行業務と富裕層の資産運用を受託するプライベート・バンキングを行っている。一方、リオ・ティントやイメリーズという大規模な工業事業も支配した[12][13]。鉱産資源は19世紀末ごろから本格的に開発している。なお、イメリーズは2014年現在グループ・ブリュッセル・ランバートの支配下にある。

ロンドン家の跡継ぎであるナサニエル・フィリップ・ロスチャイルドは、ジョン・マケインやオレグ・デリパスカを人脈にもつ[14][注釈 5]。

バンジャマン誕生から現在まで
英国病が指摘されるようになってからはロンドン家の活動が目立たない。パリ家はド・ゴールと癒着して戦後復興を遂げた。

1967年にバーナード・コーンフェルド(Bernard Cornfeld)がフランスにミューチュアル・ファンド設立を申請して却下されたが、1969年1月ファンド・オブ・ファンズ(IOS)をパリ家と共同経営する合意に達した。5月に当局へ申請、7月にあっさりと認可を得た。合意条件は対等で、募集・販売の両面で損益を折半するものとされていた。合意内容には、ジュネーヴのスイス・イスラエル貿易銀行(Swiss-Israel Trade Bank)を4500万フランで買収しIOSフランス支店にする計画もふくまれていた。[16][注釈 6]

1001クラブにアルフレッド・ハルトマン博士(Dr. Alfred Hartmann)がいる。スイス軍の諜報部でキャリアをスタート、1952年にUBSへ入社、20余年にわたり勤めた。1978年にHoffmann-La Roche のCEO となった。1980年、アーマンド・ハマーのごとく、スイス代表団を率いてソ連と交渉し輸出を促した。ペレストロイカより早く1983年、ハルトマン博士はエリー・ロチルドに指名されて、ロチルド銀行チューリッヒ支店のジェネラル・マネージャーになった。翌年にホフマン-ラ・ロシュを辞めて、ロスチャイルドに尽くした。1986年、Charles Keating をパートナーにトレンドインベストなる会社をつくった。そのあとは国立労働銀行スイス支店長となった。しかしこの支店は国際商業信用銀行とイラク政府所有イラク銀行間の取引に関わったので、そこへイラクゲート事件[注釈 7]が起きてハルトマンは支店長を1991年で辞めさせられた。それからは、Bruce Rappaport が代表するBank of New York-Inter Maritime Bank of Geneva で副社長となった。この銀行は1999年、ロシアでの資金洗浄について捜査線上に名前が浮上したことが報じられている[18]。

2002年、ブラックロックがロスチャイルド・オーストラリアと戦略的提携関係を結ぶことを表明した[19]。

2005年、エドモンド・ド・ロスチャイルド銀行と日興コーディアル証券(現SMBC日興証券)がプライベートバンキングサービスを提携するようになった[20]。出典を見ると、パリ家のバンジャマンをリーダーに新しくジュネーヴ家ができていると読めるような説明がある。また、マレーシアの1MDB をめぐる汚職事件に加えパナマ文書とも関連して問題となった、ルクセンブルク支店BPERE(Banque Privee Edmond de Rothschild Europe)について簡単な紹介がなされている。

2009年、ロスチャイルドはベラルーシ国営のBPS銀行をズベルバンクに買収させた(機関化)[21]。2010年2月、モスクワ・タイムズによると、アレクサンドル・ルカシェンコ大統領がロスチャイルドを招いて公企業の資産価値を査定させた[21]。ロスチャイルドはJPモルガン・チェースからエドワール(Edouard Veber)を得てなお、シャドー・バンキング業界で人材を探し回った[22]。

1MDB問題は急展開を見せた。2016年4月時点でマレーシアの公的資金がスイスとルクセンブルクで運用されていることが分かっていた[23]。7月時点で、実業家のKhadem al-Qubaisi がパナマ文書に書かれたオフショア会社を経由してBPERE で口座を開設したことが分かっている[24]。8月、このBPERE に90人以上の警官とマスコミ陣が雪崩れ込み、アリアンヌ・ド・ロチルド(英語版、フランス語版)CEO が活写される事態となった[25][注釈 8]。バークレイズがIPIC(International Petroleum Investment Company)から救済融資を受けていたことも明らかとなっていた[注釈 9]。在地の新聞社(Luxemburger Wort)は、大公国ルクセンブルクで発覚した史上最大の資金洗浄となるかもしれないとコメントしている。10月には同紙がスイスでの捜査における進捗を報じている[29]。BPERE 立入捜査のあった2016年8月には、ロスチャイルドがCFAフラン圏であるセネガルで資金洗浄スキームの構築に関わったことを示す、2008年5月付の電報がウィキリークスに公開されている[30]。2016年11月、刘特佐(Jho Low)と1MDBを顧客とするマレーシアの銀行家(Yak Yew Chee)が18週間の禁固と罰金2万4千ドルを言い渡された[31]。2017年6月22日ルクセンブルク当局が、1MDBに関係するファンドを扱うとき不正防止措置を怠ったとしてBPEREに899万ユーロの罰金を課した[32][33][34][注釈 10]。

歴史
マイアー登場以前

Rothschildschloss(ドイツ語) オーストリアのヴァイトホーフェン・アン・デア・イプス。元は13世紀に建てられた中世の城だったが、1875年にオーストリアの分家によって取得された

Palais Freiherr Albert von Rothschild(英語) オーストリアのウィーン。1884年建造。オーストリアの分家によって建てられた邸宅
ロートシルト家は、神聖ローマ帝国帝国自由都市フランクフルトのユダヤ人居住区(ゲットー)で暮らすユダヤ人の家系である[39]。

フランクフルト・ユダヤ人は1462年以来ゲットーに押し込められてきた。また法律・社会的に様々な制約を受け、職業は制限されていた[40][41]。ロートシルト家も代々商売していた家柄だが、マイアーの代までは小規模に過ぎず、生活も貧しかった[39]。

ファミリーネームはもともと「バウアー」もしくは「ハーン」と呼ばれていたが[42]、「ロートシルト(赤い表札)」[注釈 11]の付いた家で暮らすようになってからロートシルトと呼ばれるようになった。そこから引っ越した後もそのファミリーネームで呼ばれ続けた[43]。しかしフランクフルト・ユダヤ人が法的にファミリーネームを得たのはフランス占領下の1807年のことであり、それ以前のものはあくまで通称である[42]。

ヘッセン・カッセル方伯の御用商

Schloss Hinterleiten(ドイツ語) オーストリアの ニーダーエスターライヒ。1887年建造。オーストリアの分家によって建てられた別荘

Villa Rothschild(ドイツ語) ドイツのフランクフルト近郊。1894年建造。ドイツの分家によって建てられた別荘。現在は高級ホテルとして使用されている
ロスチャイルド家を勃興させたのはマイアー・ロートシルト(1744-1812年)である。彼は1760年代からフランクフルトで古銭商を始め、やがてフランクフルト近くのハーナウの宮殿の主であるヘッセン=カッセル方伯家嫡男ヴィルヘルムを顧客に獲得し、1769年にはその宮廷御用商に任じられた[44][45][46]。ヴィルヘルムは閨閥の広さによる資金力を活かし、他の王侯ならびに軍人・官吏・各種産業に貸し付けていた[47]。

ヴィルヘルムは領内の若者を傭兵として鍛え上げ、植民地戦争の兵員を求めるイギリスに貸し出す傭兵業を営んでおり、その傭兵業の儲けでヨーロッパ随一の金持ちになっていた。ヴィルヘルムがイギリスへ傭兵を貸し付けた植民地戦争に、アメリカ独立戦争もあった[47]。貸し付けた傭兵が死亡したり、負傷したりしたとき、ヴィルヘルムは高額な補償金をせしめた[48]。小規模ながら両替商を兼業するようになっていたマイアーもヴィルヘルムの傭兵業に関わらせてもらい、イギリスで振り出された為替手形の一部を割引(現金化)する仕事を任されるようになった[49][50][51]。とはいえマイアーの担当額はわずかであった。ヴィルヘルムとしては交換比率が下がらないようなるべく多くの業者に自分の外国為替手形を扱わせたがっており、その一人がマイアーだったということに過ぎない。マイアーは基本的に1780年代末まで注目されるような人物ではなく、ヴィルヘルムにとってはもちろん[注釈 12]、フランクフルト・ゲットーの中においてさえそれほど有名人ではなかった。しかも1785年にはヴィルヘルムがヘッセン・カッセル方伯位を継承してヴィルヘルム9世となり、フランクフルトから離れたカッセルのヴィルヘルムスヘーエ城(ドイツ語版)に移ってしまったため、一時マイアーとヴィルヘルム9世の関係が疎遠になるという危機も起こった[53]。

一方、物品商の仕事の方はフランクフルトがイギリスの植民地産品や工業製品を集める一大集散地になっていたこともあって順調に推移し、1780年代にはマイアーはかなりの成功を収めていた[52]。

やがてマイアーの息子たちが成長して父の仕事を手伝うようになり、長男アムシェルと二男ザロモンがヴィルヘルムスヘーエ城に頻繁に出入りするようになった。彼らはヴィルヘルム9世の宮廷の正規の金融機関であるベートマン家(ドイツ語版)(アムロ銀行#概要を参照されたい)やリュッペル・ウント・ハルニエル(Rüppell und Harnier)などの大銀行を回って、彼らと気難しいヴィルヘルム9世の間の使者の役割を演じ、ヴィルヘルム9世から気に入られるようになった。そして1789年にはロスチャイルド家もヘッセン・カッセル方伯家の正式な金融機関の一つに指名されるに至り、その対外借款の仕事に携われるようになった[54][55]。1795年頃からヴィルヘルム9世の大きな投資事業にも参加できる立場になる[56]。

こうしてロスチャイルド家は1790年代に急速に躍進した[57]。その頃にはロートシルト家の収入は信用供与と貸付が主となっており、商人というより銀行家に転じていた。その活動範囲もドイツに留まらず、ヨーロッパ中へと広がっていった[58]。

ナポレオン戦争

Château de Montvillargenne(フランス語) フランスのオワーズ。1900年建造。フランスの分家によって建てられた邸宅

Villa Ephrussi de Rothschild(英語) フランスのコート・ダジュール。1912年建造。フランスの分家によって建てられた別荘
1789年にフランスで発生したフランス革命を恐れたヨーロッパ諸国の君主たちはフランスに宣戦布告し、1792年から1815年までフランス革命戦争・ナポレオン戦争が勃発した。だが自由主義をスローガンに掲げるフランス軍は征服地でユダヤ人解放政策を実施したため、ドイツ・ユダヤ人にとっては封建主義的束縛から解放されるチャンスとなった。ロスチャイルド家にとってもヘッセン・カッセル方伯の寵愛だけに依存した不安定な状態から脱却するきっかけになった[59]。

戦争の混乱の中、ドイツでは綿製品が不足して価格が高騰した。これに目を付けたマイアーの三男ネイサンは1799年からイギリス・マンチェスターに常駐し、産業革命で大量生産されていた綿製品を安く買い付けてドイツに送って莫大な利益を上げるようになった。その金を元手にネイサンは1804年からロンドンの金融街シティに移り、N・M・ロスチャイルド&サンズを創設して金融業を開始した[60][61]。

1800年代にはヴィルヘルム9世への影響力も飛躍的に増大し、1803年にロスチャイルド家は宮中代理人の称号を得ている[62][63]。

1806年にナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がプロイセン侵攻のついでにヘッセンにも侵攻してきた。ヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世(ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世。1803年にヘッセン選帝侯に叙された)は国外亡命を余儀なくされたが、この際に選帝侯の巨額の財産の管理権・事業権はロスチャイルド家に委託された。以降ロスチャイルド家はフランス当局の監視を巧みにかわしつつ、大陸中を駆け回って選帝侯の代わりに選帝侯の債権の回収にあたり、回収した金は選帝侯の許しを得て投資事業に転用し、莫大な利益を上げるようになった[64][65][66]。

またフランス当局やフランス傀儡国家ライン同盟盟主カール・テオドール・フォン・ダールベルク大公、フランクフルトの郵便制度を独占しているカール・アレクサンダー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス(ドイツ語版、英語版)侯などと親密な関係を深めていき、独自の通商路を確保し、また情報面で優位に立ち、大きな成功に繋げていった[67]。

ナポレオンは1806年に大陸封鎖令を出して支配下の国々に敵国イギリスとの貿易を禁じたが、これがロスチャイルド家にとっては更なるチャンスとなった。大陸封鎖令により大陸諸国ではコーヒー、砂糖、煙草、綿製品などイギリスやその植民地からの輸入に頼っていた商品の価格が高騰した。また逆にイギリスではこれらの商品の価格が市場の喪失により暴落した。そこでロンドンのネイサンはイギリスでこれらの商品を安く買って大陸へ密輸し、それを父や兄弟たちが大陸内で確立している通商ルートを使って大陸各国で売りさばくようになった。これによってロスチャイルド家は莫大な利益を上げられた上、物資不足にあえいでいた現地民からも大変に感謝された[68][69]。

この独自の密輸ルートはイギリス政府からも頼りにされ、イギリス政府は反フランス同盟国に送る軍資金の輸送をネイサンに任せていた。パリに派遣された末弟ジェームズと連携して、イギリスの金塊を公然とフランス経由でイベリア半島で戦うイギリス軍司令官ウェリントン公爵のもとに送り届けたこともあった[70][71]。

この時期にロスチャイルド家はフランクフルト・ユダヤ人の解放を推進する役割も果たした。「あらゆる人民の法の前での平等と宗教的信仰の自由な実践」を謳ったナポレオン法典を一般市民法としてフランクフルトに導入する際にフランクフルト大公ダールベルクはフランクフルト・ユダヤ人団体に44万グルデンを要求したが、そのほとんどをロスチャイルド家が建て替えて実現に漕ぎつけたのである[72][73]。しかし、ナポレオンは1808年5月にユダヤ人同権化法の例外として時限立法をなし、民族の人権を商業・職業選択・住居移転に限ることとした。そして1815年にフランクフルトが自由都市の地位を取り戻し、ユダヤ人の市民権自体を取り消してしまった。

マイアーの死去と五家の創設
1812年にマイアーは死去した。彼は遺言の中で5つの訓令を残した。1つはロートシルト銀行の重役は一族で占めること、1つは事業への参加は男子相続人のみにすること、1つは一族に過半数の反対がない限り宗家も分家も長男が継ぐこと、1つは婚姻はロートシルト一族内で行うこと、1つは事業内容の秘密厳守であった[74]。

マイアーは何よりも一族の団結を望んでいた。ロートシルト家の家紋に刻まれた「協調(concordia)」もマイアーの遺訓であり、その精神は彼の5人の息子たち、長男アムシェル(1773-1855)、二男ザロモン(1774-1855)、三男ネイサン(1777-1836)、四男カール(1788-1855)、五男ジェームズ(1792-1868)にも受け継がれた[75][76]。

父の遺訓に従ってフランクフルトの事業は長男アムシェルが全て継承し、他の4兄弟はそれぞれ別の国々で事業を開始することになった。ウィーンには二男ザロモンが1820年に移住した。ロンドンはすでに三男ネイサンが移住していた。ナポリは四男カールが1821年に移住した。パリは五男ジェームズがすでに移住していた[77]。

五家は相互連絡を迅速に行えるよう情報伝達体制の強化に努めた。独自の駅伝網を確保し[78]、伝書鳩も飼育して緊急時にはこれを活用した。またその手紙は機密保持のためヘブライ語を織り交ぜていた[79]。こうした素早い情報収集が可能となる体制作りがロスチャイルド家が他の銀行や商人に対して優位に立つことを可能としたといえる。ワーテルローの戦いの際にもロンドン家当主ネイサンはいち早くナポレオンの敗戦を知ったが、自分たちの情報収集の早さが他の投資家にも知られており、その動向が注目されていることを利用して、逆にイギリス公債を売って公債を暴落させた後、買いに転じてイギリス勝利のニュースがイギリス本国に伝わるとともに巨額の利益を上げることができた[80][81]。

ウィーン体制下

Palais Nathaniel Rothschild(ドイツ語)オーストリア のウィーン。1878年建造。オーストリアの分家によって建てられた邸宅
ナポレオン敗退後、フランス革命以前の旧体制が復古し、フランスに領地を奪われた君主や貴族たちが領地を回復させた(ウィーン体制)。銀行業でも旧勢力が復古し、1815年11月のパリ条約に定められたフランスの賠償金の調達からロスチャイルド家は弾き出された[82]。

ついで1818年10月の同盟軍のフランス撤兵と賠償金分配を話し合うアーヘン会議でもロスチャイルド家は弾き出されそうだったが、この時にジェームスがフランス公債を大量に買って一気に売り払うという圧力をかけたことが功を奏し、オーストリア帝国宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒから会議に招かれ、ザーロモンとカルマンが名声を高めた。以降メッテルニヒとの関係が強まり、1822年にはロスチャイルド一族全員がハプスブルク家より男爵位を与えられ、また五兄弟の団結を象徴する五本の矢を握るデザインの紋章も与えられた[83]。以降ロスチャイルド家はその名前に貴族を示す「von(フォン)」や「de(ド)」を入れることになった[84]。

イギリスでの活躍は特筆に値する。南海泡沫事件を受けて制定された泡沫法(Bubble Act)が、イギリスの海上保険業をロンドン保険会社(London Assurance)とロイヤル・エクスチェンジ保険会社(Royal Exchange Assurance, 現アクサ)に独占させていた。これらの会社に計数係として入社を試みた、ネイサンの甥ベンジャミン・ゴムペルツ(Benjamin Gompertz)がユダヤ人ゆえに採用されなかった[85]。そこでネイサンが対抗してアライアンス火災・生命保険会社をつくった。資本金500万ポンド、アライアンス株は発行前からプレミアムつきで取引された[85]。設立趣意書公表の直後、アライアンス理事団は議会に対して泡沫法の廃止を要求した。1824年に廃止法案が議会に提出され、採決と裁可を得た。しかしロイズが身内の生活を理由に、協会員の一人にアライアンス株を15株買わせて株主総会へ送り込んだ[85]。アライアンス理事が会社の業務へ海上保険を加えようと提案したとき、ロイズの総会屋は定款の不変性を理由に反対した[86]。アライアンス火災はとりあえず引き下がった。しかしロスチャイルド家は資本金500万ポンドで新たにアライアンス海上保険会社をつくり、ゴムペルツを支配人とした。これはいつのまにかアライアンス火災と合併した(アライアンス保険)[87]。翌1825年の恐慌でイングランド銀行の救済に貢献し、ロスチャイルド家は後に公認の鋳造所を持つほどに同行との関わりを深める。

1834年、ロスチャイルド家は大規模にアメリカ公債を引受けた(連邦準備制度の歴史を参照)。ヨーロッパでは鉄道事業に積極的な投資を展開した。1835年、ウィーン家のザロモンは皇帝の認可を得て鉄道会社を創設し、中欧の鉄道網整備に尽くした。フランクフルト家のアムシェルも中部ドイツ鉄道、バイエルン東鉄道、ライン川鉄道等の整備に尽くした。パリ家のジェームズもフランスや独立したばかりのベルギーの鉄道敷設に尽力したが、同じユダヤ系財閥のペレール兄弟(フランス語版)と競争になった[88]。ペレール兄弟のクレディ・モビリエは、会社型クローズドエンド会計の投資信託である[89]。1860年代末にクレディ・モビリエは単なる貯蓄銀行となるが、その後フランス・ドイツで同じような投資銀行が次々と設立された[90]。

総合水道会社

フェリエール城(英語)セーヌ=エ=マルヌ県フェリエール=アン=ブリ。1854年建造。フランスの分家によって建てられた別荘。フランスにおいて19世紀の最も大きな別荘であり、30 km² の面積を占める

Hôtel Salomon de Rothschild(英語)フランスのパリ。1878年建造。フランスの分家によって建てられた邸宅
1841年から1854年まで、パリの庶民に届く水は一日4リットル程度であった[91]。

パリ家は1853年にオタンゲルなどをともない、総合水道会社ジェネラル・デゾー(英語版、フランス語版)を設立し5千株を引受けて大株主となった。会社は資本金2千万フラン8万株でスタート。1860年9月、パリ市への営業譲渡に合意したが、五つの骨子からなる内容はジェネラル・デゾーに有利であった。具体的には以下のとおりである。[92]

総合水道会社が、セーヌ県の市町村と交わした給水契約の全てをパリ市は承継する。あわせ同社が所有する全水利施設をパリ市に譲渡する。
パリ市が給水管理権を有する。総合水道会社が個人契約者に給水するに足るだけの水量をパリ市は確保しなければならない。総合水道会社は水の配分と販売、枝管の建設、契約金の徴収、商業的給水泉の管理義務を負い、その収入を毎週パリ市の金庫に振り込まなくてはならない。
損害賠償として、1860年12月の時点で、総合水道会社の年間利益に相当する116万フランの年賦金を総合水道会社は受け取る。
管理費として、総合水道会社は年間35万フランを受け取る。また、総額360万フランを超えた収入分については、総合水道会社が超過分の1/4を受け取る。
契約期間は50年間。このあいだ、総合水道会社はセーヌ県の市町村と新たな給水事業契約を交わすことができない。それはパリ市が担う。
会社は毎年40万フランの割合で収入を増やした。1880年代の大不況期に市議などは会社の事業買戻しを主張した。これは損害賠償の金額算定で争い疲れたことや、水道利用契約義務化政策を円滑に進めたいという思惑が働き、総合会社の天引きは続いた。なお、買戻された場合の埋め合わせは近郊の水道事業にたくさん用意されていた。[92]

帝政ロシアとの闘争とバクー油田

Kasteel de Haar(英語) オランダのハールザイレンス。元は12世紀に建てられた城だったが、ロスチャイルド家によって1892年から1912年にかけて再建された。ときのオランダはルクセンブルクが同君連合を離れていた。
ロスチャイルド家はユダヤ人迫害を推進するロシア帝国とは敵対的立場を取った。 1854年のクリミア戦争ではロシアと敵対するイギリス・フランス・トルコ陣営を金銭面から支援した。英仏軍の軍事費を調達し、トルコにも巨額の借款を与えた[93]。 こうしてオスマン債務管理局の債権者たる英仏と債務者トルコ双方が、ロスチャイルド家に財政の詳細を掌握された。

ロシアはクリミア戦争に敗れて、1867年にロシア領アメリカを合衆国に売却した。しかしオスマン債務管理局が設立された1881年の翌々年に再び財政困窮に陥った。このときパリ家当主アルフォンスはロシア政府の公債発行に協力しており、その見返りとしてバクー油田の中でも最大級のバニト油田をロシア政府より与えられた。すでにアルフレッド・ノーベルがバクーを開発していたので、アルフォンスは彼と協力することにした。ノーベル系企業はドイツ銀行から監査役を受け入れながらドイツにも進出していた。1897年サンクトペテルブルクのロシア国立銀行が中央銀行となるとき、ロスチャイルド家は代理人のアレクサンドル・スティグリッツを初代総裁にした。1901年にフランクフルト家が閉鎖した。そこで膠州湾租借地をあえて孤立させ、南下政策を阻止するとともに露清銀行におけるパリバの主導権奪還を支援した。1904年の日露戦争でもロスチャイルド家は軍事費を提供したのである。初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルドが、ユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフから「日本の勝利がユダヤ人同胞を迫害するツァーリ体制打倒のきっかけとなる」との誘いを受けた。そこで日本政府が戦時国債を発行する便宜を図り、3回目と4回目の起債はロンドンとパリの両家がそろって引き受けに参加した[94]。

南アや北米西岸でもロスチャイルド家は鉱産資源を開発した。1880年にはセシル・ローズに融資、ダイヤモンド寡占企業のデビアスを設立させた。1924年にデビアスはノーベル資本を爆薬部門として吸収した。1895年10月にはロンドン・パリの両家がアナコンダ銅鉱山会社の株1/4を750万ドルで買収。このころ世界銅供給の4割以上を支配した。このアナコンダは1977年にARCO(現BP)に吸収されて、ホームステッド法の延命に成功しアラスカのプルドーベイ油田を存分に開発した。油田は1968年に発見されたが、翌々年にラファージュがマックス・エイトケンのカナダセメントを吸収し、パイプラインの建材を提供した。

1914年にはロイヤル・ダッチ・シェル石油に油田を売却し、同社の大株主に転じた。自らの油田を売ってでもヨーロッパ石油産業の再編を進めることで、ロックフェラーのスタンダード石油がヨーロッパ進出を阻止する狙いがあった。英仏露土四カ国の資本が融けあうようにしてコーカサスの利権を得た。グルベンキアンはバルカン半島の出身らしく、列強資本の溶剤として活躍した。この由緒ある欧州経済において、ロックフェラーは下積みを欠いていたが、ロスチャイルド家は英仏露土各国ばかりか、ロックフェラーが台頭した合衆国に対しても債権者であった。1917年にロシア革命が起こってツァーリ体制が崩壊し、ボルシェヴィキ政権が外国資産を全て接収したが、ロスチャイルド家はこの時に売却しておいたおかげでロシア革命による打撃を受けずにすんだ[95]。

衰退
19世紀後半の相次ぐ戦争と各国での国家主義の高揚により、衰退が始まった。この段階でもロンドン家とパリ家は繁栄していたが、フランクフルトの本家は発祥の地フランクフルトに固執して新しい金融の中心地ベルリンに移ろうとしなかったために衰退し、ウィーン家もハプスブルク家と運命をともに没落していった。ナポリ家に至っては危機的状況に陥っていた。初代マイヤーは「兄弟力を合わせるように」という遺訓を残しており、子孫たちもこれまでその遺訓を守って、5家協力してやってきたが、国家主義の高揚はその協力の維持を難しくしていた[96]。1901年にフランクフルトの本家が断絶すると家内の協力関係はいよいよ希薄となっていった[97]。

そこで他家に嫁を出した。そもそも「五本の矢」にはジャネットなる姉がいて、ヴォルム家に嫁いでいた。ロスチャイルドの築き上げてきた閨閥は宗家の危機に真価を見せたが、インドシナ銀行は良い例である。

1914年に勃発した第一次世界大戦でロスチャイルド家は敵味方に引き裂かれてしまった。兵役年齢の者はそれぞれの祖国の軍隊に入隊して祖国のために戦った。ロンドン家はエヴェリン・アシル・ド・ロスチャイルドをパレスチナ戦線で失った。ロスチャイルド家の中で最も栄えていたロンドン家は、第一次世界大戦中の税制変更期に初代ロスチャイルド男爵ナサニエルとその弟二人が相次いで死去する不幸があったことで、その財産に莫大な相続税をかけられて衰退しはじめた。ロスチャイルド家の銀行は株式形態ではなく個人所有だったため相続税増税の直撃を被ったのである。19世紀に手に入れた豪邸を次々と手放すことを余儀なくされた。またロスチャイルド銀行の業務の大きな部分を占める公債発行が戦争のせいで危険な投資になってしまったこともロスチャイルド家にとっては厳しかった。第一次世界大戦後のロスチャイルド家はこれまで投資した事業を守るだけで精一杯という状況にまで陥っていった[98]。

ナチスによる弾圧

Grüneburgschlößchen(ドイツ語) ドイツのフランクフルト。 1845年建造。 ドイツの分家によって建てられた邸宅。この建物は1944年に連合国軍の爆撃によって破壊された
19世紀に栄華を誇ったロスチャイルド家も20世紀には衰退の一途をたどり、実際の財力より名前の威光ばかりが先行するイメージの存在と化していた[99]。しかし「国際ユダヤ資本」を陰謀の元凶とするユダヤ陰謀論に影響されたナチス・ドイツにとってはそのイメージは反ユダヤ主義プロパガンダの格好の材料であり、ロスチャイルド家は陰謀の黒幕扱いにされた。『ワーテルローの勝者 ロスチャイルド家(Rothschilds Aktien auf Waterloo)』(1936年)や『ロスチャイルド家』(1940年)といったロスチャイルド家を「世界支配を狙う陰謀を企てる者」として描く反ユダヤ主義映画がドイツで公開された[100][101]。

ドイツ国内のロスチャイルド家に由来する記念碑や名称もナチス政権誕生とともに取り払われていった。ロスチャイルド並木通りはカロリング王朝並木通りに変えられた。ドイツ国内にあったロスチャイルド家所有の財団法人や慈善施設も経済や銀行業のアーリア化により財産放棄か二束三文で買い取られていった。フランクフルト家の最後の当主ヴィルヘルム(ドイツ語版)の娘婿だったマクシミリアン・フォン・ゴールドシュミット=ロートシルト(ドイツ語版)の財産も政府に没収された[102]。

しかし、ナチスの目標であったヴィートコヴィツェ製鉄所は守られた。この製鉄所は1843年、ザロモンが北部鉄道などの事業へ供するため、オストラヴァのヴィートコヴィツェに独占所有した資源である。この鉱山は石炭も産んだ。並み居る資源連合国を前に、ドイツの兵器産業はザロモンの山を切望した。そこで歴史が動いた。ネイサン創始のアライアンス保険が1936年に法的な鉱山所有者となったのである。ここまではロスチャイルド・アーカイブでも明らかにされている[103]。実は前年から株式の名義をスイスなどに変えてあったが、おかげでヒトラーに察知されなかった。占領にこぎつけても時すでに遅く、電撃作戦をねらうドイツとしては国際私法に挑戦することができなかった。後日談としてヴィートコヴィツェは戦後に国有化された。英国は1948年12月23日ユーゴスラビアに、翌年9月28日にはチェコスロバキアに賠償責任を認めさせた。1950年7月12日に海外賠償法The Foreign Compensation Act 1950 が成立し、これにより補償金を株主へ配る委員会The Foreign Compensation Commission が設立された[104]。1951年、ロスチャイルドのアライアンス保険は委員会を交えて株主と協議した。そして1962年、アライアンス保険ヴィートコヴィツェ事業権利書の解約による株式保有者へ、最後の補償金が分配された。現在のヴィートコヴィツェは原子炉圧力容器・蒸気発生器などを製造している。

1938年にオーストリアがドイツに併合された際には、ウィーン家の者はほとんどがイギリスへ亡命していたが、当主であるルイ・ナタニエル・フォン・ロートシルト男爵(ドイツ語版)のみがウィーンに残っており、併合とともにゲシュタポに連行された。戦前期にはまだ絶滅政策は行われておらず、財産没収と国外追放がナチスのユダヤ人政策だったので、ルイも全財産没収と外国へ出ていくことに同意するのを条件に釈放され、アメリカへ亡命した。第二次世界大戦後もウィーンには戻らず、子孫もなかったためウィーン家はこれをもって絶家した(戦後オーストリア政府はナチスが没収したルイの財産をルイに返還しているが、ルイはその全額を寄付しているので財産上も残らなかった)[105][106]。

1940年のナチス・ドイツのフランス侵攻でパリが陥落すると、パリ家の銀行や邸宅もナチスに接収された。またパリ家は美術品の収集で知られており、陥落直前に美術品の外国移送に励んだが、移送できなかったものは陥落後に押収された。パリ家の人々の多くはアメリカへ亡命し、ロチルド家御曹司ギーはアメリカからイギリスにわたってド・ゴールの自由フランス軍に入隊した。自由フランス軍の財政は少なからずロスチャイルド家によって支えられていた[107][108]。

ロンドン家は直接の被害を免れたが、1940年から1941年のイギリス本土空襲時には子供たちはワドスドン城ヘ疎開した。ドイツやオーストリアから逃れてきていた孤児たちも預かり、この城に一緒に収容している[109]。戦時中大陸にいて逃げ遅れ、ナチスの手にかかったロスチャイルド家の者が2人出た。フランス家のフィリップの妻エリザベート(英語版)とロンドン家の第3代ロスチャイルド男爵ヴィクターの叔母にあたるアランカだった。前者はラーフェンスブリュック強制収容所、後者はブーヘンヴァルト強制収容所で落命している[110]。

第二次世界大戦が終わった時、残ったロスチャイルド家はロンドン家とパリ家の二つだけとなった[111]。大戦の影響でロスチャイルド家の衰退は更に進んだ。ロンドン家もパリ家も収入が大きく落ち、出費は増える一方で更に多くの豪邸を売り払うことを余儀なくされた[112]。

戦後復興

Spencer House(英語) イギリスの ロンドン。スペンサー伯爵家の代々の邸宅。現在、イギリスの分家が99年の契約でこの邸宅を借り、ロスチャイルド卿の営む投資事業会社RIT・キャピタル・パートナーズ(英語版)の本拠地として使用している
ロンドン家の戦後復興はロンドン家分家のアンソニー・グスタフ・ド・ロスチャイルドを中心に行われた。ロンドン家本家の第3代ロスチャイルド男爵ヴィクター・ロスチャイルドとはN・M・ロスチャイルド&サンズの株を6:2という割合で配分しているため、分家のアンソニーが経営を主導する形になった[113]。第3代ロスチャイルド男爵ヴィクターの息子第4代ロスチャイルド男爵ジェイコブはアンソニーの息子エヴェリンと経営方針が合わず、1980年にN・M・ロスチャイルド&サンズを退社してRIT・キャピタル・パートナーズ(英語版)を立ち上げた[114]。ビッグバンでは外銀と入り乱れてジョバー・ブローカーの買収に奔走した。

パリ家の戦後復興は1949年に正式に当主となったギー・ド・ロチルドを中心にして行われた。ド・ゴール将軍やジョルジュ・ポンピドゥーの協力を得てパリ・ロチルド家の再興に成功している。1981年に社会党党首フランソワ・ミッテランが大統領になった際に一時ロチルド銀行が国有化されたが、ミッテランの社会主義政策の失敗後、ギーの息子ダヴィド・ド・ロチルドの指導の下に再建された[115][116]。この1950-80年の間が成長の肝である。

パリ家は戦前の国際コネクションを活かして事業を開拓した。1957年にはSociété française d'investissements pétroliers という石油会社を設立した。ラザードと4割ずつ出し合い、あとは預金供託金庫とクレディ・リヨネが1割ずつを出資した[117]。1960年時点のロチルドグループには独占体のソフィナ、国の船を動かしたサガ海運、1億3000万フランの資産価値をもっていた北部投資会社Société d'investissement du Nord、さらにラルジャンティエールのペナロヤ社(現イメリーズ)もあった[117]。ロチルドフレール、北部鉄道、北部投資会社の三社を基幹としてロチルドグループは株式持ち合いにより結束していたが、1967年4月26日の記者会見で以下の方針を明らかにした。まずパリ・オルレアン鉄道を合併させてグループの持株会社に用いる。そしてロチルドフレールは株式会社化・預金銀行化にともないロチルド銀行と改称する。[118]

ロンドン家とパリ家の統合

Mentmore Towers(英語) イギリスのバッキンガムシャー。 1854年建造。イギリスの分家によって建てられた別荘

Halton House(英語) イギリスのバッキンガムシャー。1883年建造。イギリスの分家によって建てられた別荘

Waddesdon Manor(英語) イギリスのバッキンガムシャー。1889年建造。イギリスの分家によって建てられた別荘
2003年にはロンドン家とパリ家の両銀行が統合されたロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングスが創設され、フランス家のダヴィドがその頭取に就任した[119]。

現在、ロスチャイルド家が営む主な金融グループは3つある。

一つ目はEdmond de Rothschild Groupである。同社はスイスに本拠を置く金融グループであり、傘下では、概要で述べたBPERがスイスを中心に世界中でプライベート・バンキングを行ったり、ヴィニコル・エドモン(Compagnie Vinicole Baron Edmond de Rothschild)がフランスを中心に世界中でワイナリーを営んだりしている。前者はスイス証券取引所に上場しており、2011年においてその総資産は140.2億スイスフランである。[120]

二つ目はThe Rothschild Groupである。The Rothschild Groupはフランスのパリに本拠を置くParis Orléansを金融持ち株会社とし、その傘下にフランスの投資銀行Rothschild & Cie Banqueやイギリスの投資銀行N・M・ロスチャイルド&サンズやスイスを中心に活動するプライベートバンクRothschild Bankなどをもつ。[121]ヨーロッパを中心に45カ国にオフィスを持ち、事業はM&Aのアドバイスを中心とした投資銀行業務と富裕層の資産運用を行うプライベート・バンキングが中心である。特にM&Aでは取り扱い件数がヨーロッパで一番多い。The Rothschild Groupの金融持ち株会社であるParis Orléansはパリ証券取引所に上場しており、2012年においてその総資産は89.2億ユーロである。[122]なお、パリ家の歴史的事業であったロチルド・フレールは改名と国有化を経てバークレイズに買収されている。

三つ目はRIT Capital Partnersである。RIT Capital Patnersは1980年に設立された、ロンドンのスペンサーハウスに本拠を置くInvestment Trustであり、アメリカやイギリスを中心として世界中の会社に投資を行っている。RIT Capital Partnersはイギリスで最大規模のInvestment Trustであり、イギリスのトップ5の一つに数えられている[123]。Investment Trustはクローズド・エンド型の投資信託に属する。会社設立に勅許を必要とした時代からイギリスで発展した。その原型はユース法の信託による会社で、法人格をもたなかった。今では公開有限会社として資金を募り、ヘッジファンドやプライベート・エクイティ・ファンドなど様々な商品に投資する。RITはRockefeller Financial Services社と資産運用事業で提携していることでも知られている[124]。RIT Capital Patnersはロンドン証券取引所に上場しており、2012年において総資産は22.1億ポンドである[125]。

なお、3つの金融グループはそれぞれの分野で傑出した業績を誇るが、それぞれの国においてより規模の大きな競合企業が存在する[126][127][123]。

現在のロスチャイルド家を代表する人物として、Edmond de Rothschild Groupを統括するバンジャマン(フランス語版)、The Rothschild Groupを統括するダヴィド、RIT Capital Patnersを統括する第4代ロスチャイルド男爵ジェイコブ・ロスチャイルドらがいる。ロスチャイルド家の7代目の後継者は、ダヴィドの息子、アレクサンドル・ド・ロチルドとなる予定であ
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美人を写して差別なら、ブスも同量映せば差別はなくなるのか?

2018年07月12日 | 芸能ニュース
『美女サポ』放送にFIFAが警告、人種差別より“性差別”の表面化を指摘

7/12(木) 6:44配信 ゲキサカ
『美女サポ』放送にFIFAが警告、人種差別より“性差別”の表面化を指摘
今大会でも多くの美女サポーターが話題となっていた(Getty Images)
 国際サッカー連盟(FIFA)は11日、テレビ放送で「魅力的な女性」のカットを減らすように要請しているようだ。性差別が人種差別よりも大きな問題となっていることを受け、差別禁止プログラムの見直しに乗り出した。スポーツ専門メディア『ESPN』が詳しく報じている。

 FIFAで多様性に関する部門を統括するフェデリコ・アディエッキ氏によると、これまで欧州サッカー界で問題視され続けていた人種差別は今大会で「想定していたほどは見られなかった」と指摘。その一方で、女性に対する差別問題が目立っていると捉えている。

 代表的な問題は、ロシアW杯を取材するアナウンサーが放送中に声をかけられたり、女性ファンが性的な言動を強いられたりしたというもの。加えて人権団体の調査では「ストリートで見られた性差別」に関する抗議のうち、メディアでの女性の扱い方についてのものが約10%を占めていたという。

 すでにFIFAは2014年のブラジル大会から対策に乗り出しているが、あらためて各国のテレビ局に同様の表現を減らすように要請。同様の特集を行っていた大手写真販売サイトは批判を受け、削除の後に実態調査の声明を発表している。また今後の大会では、多くの視聴者がより女性を尊重できるようになることが望ましいとした。





美人を写して差別なら、ブスも同量映せば差別はなくなるのか?

馬ヵコクでねえ~~


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家なんか寝食できれば良いので、なんで無理して地獄のローンなど組むのか?価値観がおかしい日本人が大多数

2018年07月12日 | 国際紛争 国際政治 



5000万円住宅ローンは返せるか 趣味の支出を総点検
7/11(水) 10:12配信 NIKKEI STYLE
5000万円住宅ローンは返せるか 趣味の支出を総点検
家計簿をつけているのに支出の実態が把握できないと住宅ローンを組むことも難しくなる(写真はイメージ=PIXTA)
 結婚5年目、現在妊活中の相談者ご夫婦。世帯年収は1000万円あるものの、現時点での預貯金は85万円です。子どもは2人欲しいし、できることならマイホームも持ちたい。住宅購入予算5000万円は自分たちにとって背伸びし過ぎだろうかとお悩みです。

 家計簿をつけているのに支出の実態が把握できず、お金が貯められなかったご夫婦に対し、ファイナンシャル・プランナーの中嶋よしふみさんは「大ざっぱな管理」で「インパクトの大きいものだけ把握する」ことがポイントだとアドバイス。家計簿アプリを活用してまずはお金の動きをシンプルに整理したところで、貯蓄も増やしながらマイホームを手に入れるにはどうしたらいいか、返済計画も併せて見ていきます。



【相談者の悩み】31歳の夫婦。今後子どもを授かったときに、住宅購入は可能でしょうか?

■現状でローンを組むと、貯金の半分以上が住居費の増額分に消える
妻 私たちが希望する5000万円程度の物件で、住宅ローンは借りられそうですか? どれくらい借りるのが普通なんでしょう?

FP中嶋よしふみさん(以下、中嶋) 5000万円の物件を、頭金に1割の500万円を入れて買った場合、つまり4500万円借りた場合、毎月の返済額は13万4500円です(※2018年4月、フラット35の金利1.35%、返済期間35年で計算した場合)。管理費や修繕積立費、固定資産税が月当たり3万円と考えると、住居コストの総額は約16.5万円になります。現在の家賃8万5000円と比べると、プラス8万円。年間で96万円の支出増です。返済比率が何%といった数字よりも、今と比べてどれくらい支出が増えるか? という話のほうがよっぽど重要です。


妻 年間で100万円近くも増えるんですね。

中嶋 何もしないと貯金額の半分以上が吹っ飛んでしまう状況です。住宅ローン減税を考慮しても年間で50万円以上のマイナスです。

夫 住宅ローンは二人で組んだほうがいいんでしょうか。

相談者のプロフィール<夫婦の仕事と年収>■夫(31歳)/大手上場企業(メーカー)勤務 年収700万円(手取り530万円)■妻(31歳)/会計事務所勤務(税理士の資格取得を目指している) 年収330万円(手取り270万円)<現在の貯蓄や金融商品>■預貯金 85万円■保険の積み立て分 100万円■確定拠出年金 50万円<毎月の貯蓄>■2万~6万円ほど(ボーナスからの貯蓄を含め、年間で184万円ほど)<住宅>賃貸アパートで家賃は月8万5000円。今後5000万円くらいのマンションを購入したいと考えている。




中嶋 住宅ローン減税の上限が通常は4000万円、長期優良住宅の場合は5000万円です。ローンの額が上限を超えてしまう場合は二人で分けたほうが得です。「フラット35」は連帯債務というのもありますし、銀行で借りる場合はペアローンといって2本のローンを組む場合もあります。どちらも二人で住宅ローン減税を受けられますね。

 デメリットとしては、奥様が途中で産休などに入ると、収入が減って所得税も減ってしまうので、住宅ローン減税が使い切れない場合もあることです。

妻 ……悩みますね。


■出産後の収入減と教育費で、年間の収支は大幅に下がる
中嶋 お二人は確定拠出年金もされているんですよね。

妻 私は月5000円、夫は月1万5000円です。天引きなので家計簿アプリの数字には含んでいないです。

中嶋 住宅購入後の収支はバッファーという考え方で計算します。毎年の貯金額を基準に、家計に大きなインパクトを与える要素を計算することで今後の貯金額の変化・推移を把握する方法です。それで計算すると、住宅購入直後の収支は年間でプラス156万円です。



毎年の貯金額184万+確定拠出年金24万+住宅ローン減税44万-住宅コスト増96万=156万円



中嶋 これくらいのプラスがずっと維持できれば、将来的な昇給も含めて考えると恐らく問題ないとは思いますが、出産後には状況が大きく変わります。教育費を年間50万円、産休・育休・時短勤務による収入減少を100万円で計算すると、出産後は収入減と教育費のダメージで、年間の収支がプラス24万円まで大幅に下がります。



毎年の貯金額184万+確定拠出年金24万+住宅ローン減税44万+児童手当18万-住宅コスト増96万-産休による収入減100万-教育費50万=24万円



中嶋 仕事に復帰して時短勤務になっても、収入はそれほど変わらないという方も多いので、収入が減ったままの時期がかなり長期にわたって続きます。産休からフルタイムへの復帰までなので、短くても4、5年程度でしょうか。

妻 うちの事務所では、時短勤務で年間100万円くらい手取りが減ると思います。

中嶋 時短勤務が仮に3年続いたとして、その後フルタイムに戻ると収入は戻ります。ただ保育料は小さいうちは結構かかりますね。認可保育園の保育料は支払った住民税に比例するので、復帰1年目はそれほどかかりませんが、2年目からは上がります。お住まいの地域だと概算ですが、月5万7000円くらいでしょうか。年間で68万円ほどです。お子様の生活費、教育費を月2万と考えれば、68+24で92万円です。

夫 高い……。

妻 この時期は、しばらくマイナスだね。

中嶋 ハイ、時短勤務で復帰したときには今の家計を前提にするとマイナス20万円になってしまいます。



毎年の貯金額184万+確定拠出年金24万+住宅ローン減税42万+児童手当18万-住宅コスト増96万-産休による収入減100万-教育費92万=-20万円



中嶋 これはお子様1人の場合です。2人目が生まれるとまたちょっと変わります。3歳になると保育料も下がるので、3万円くらいでしょうか。2人目の保育料は半額程度になります。保育料の総額で見れば第1子が3歳未満のときとあまり変わらず、といった感じですね。プラスの面として児童手当も二人分もらえますので。このあたりはタイミングによって金額が変わるところです。

 ただ、将来的に子ども2人を私立中に通わせるのは結構大変です。公立小から私立中に進学すると、一人当たり100万円くらい教育費が増えます。ですからフルタイム勤務の時点で貯金額が年間200万円以下だと、お子様2人を私立中に通わせた時点で、マイナスになりかねないです。まだ先の話ですけど、受験の準備も考えれば小4とか小5くらいから塾の費用も考慮したほうがいいと思います。

妻 実は……私立中は、夫はあまり考えていないようでして。

夫 僕は私立中にこだわりがないんです。

中嶋 そのあたりは収入を考慮して、話し合っていただけたらと思います。今決める必要はありませんが、選択肢として私立中を残せるように家計を改善しておくことは意味があると思います。


■「不定期な支出」は、意外と定期的に発生する
中嶋 家計を見ると、自由に使えるお金が月に約25万円、年間300万円くらいあります。

夫 お小遣いは2人で5万円だとしても、年間60万円ですよね。あと200万円以上、何に使っているんだろう。

妻 私の洋服かな……。月に5万円減らせば、年間60万円たまる。海外旅行に60万円くらい使いましたから、そこは無理なく減らすことができます。子どもが小さいうちは海外旅行に行くことはないと思いますので。

中嶋 60万円支出を減らせば、とりあえずは問題ない水準まで行きそうです。マイナスへの転落もなくなると思いますので。ただ、今後の不妊治療の費用が発生するかもしれないことも考えると100万円、200万円くらいかかるケースもありますし、税理士試験も資格学校の費用とか、安くないですよね。



妻 5科目合格しないといけないんですけど、1科目で10万~20万円、全体で60万~70万円くらいかかります。順調に2、3回の受験で合格できればいいんですけど、もっと時間がかかれば収入と費用の両面で影響があると思います。

中嶋 その状況だと今の貯金がゼロになってしまう場合もあるかもしれないです。これは将来的な支出ではなく、特に不妊治療はすぐに大きな支出が発生してもおかしくないですよね。預貯金だけでは足りなければ、積み立て型の保険からお金を借りる、「契約者貸し付け」というものを利用する方法もあります。あまりオススメはしませんけど知っておいていただければ。

妻 特別な支出はほとんど私のものだと思うので、できるだけ削っていきたいなと思います。化粧品とか洋服は結構買います。この前は8万円のお財布を買いました。家計簿では、特別支出に入れていますが。

中嶋 数年に1回しか買わないお財布なんかは、それほど気にしなくていいと思います。それより「不定期な支出が、定期的に出ていくこと」に注意です。矛盾している言い方になりますけど、臨時支出って案外定期的に発生するんですね。家電とか家具は毎月買わないと思いますけど、何かしら日常的ではない支出は定期的に発生する。海外旅行はかなり特別な支出なのでカットできると思いますけど、それ以外の支出は何も我慢せずに大幅にカットできるとは考えないほうがいいとは思います。大幅に支出を減らすには痛みを伴う削減、つまりリストラが必要になります。

妻 となると、時々気持ちが爆発して買ってしまう、洋服やバッグをやめようか……。

中嶋 おすすめなのが、先ほどお話ししたように出費を高い順番に並び替えることです。生活費は一旦無視して、趣味的な支出を全体的に点検してください。買わないで済むものもあれば、買わざるを得ないものもあるはずですから。ただ減らすのでなく、優先順位を考えていただければ。

■自分たちの価値観に照らして「趣味的な出費」の見直しを
妻 どれくらい趣味的な出費を削れるかが分からないと、家の予算は決められないですか?

中嶋 住宅の場合はこれ以上下げられないというラインがあると思いますので、欲しい家を買えるかどうか、と考えるほうが現実的かなと思います。先ほどの5000万円の住宅購入を実現することから逆算すると、年間60万円の削減は最低ラインですね。そこは海外旅行の分ですから問題ないとして、もう少し頑張って、トータルで年間100万円、できれば150万円くらい削れれば余裕ができると思います。住宅ローン減税も10年後には無くなりますからそこも考慮する必要があります。年間で40万円程度の減税効果が消えるのは影響がかなり大きいです。

夫 住宅ローン減税ってオマケ的なものだと思っていたんですけど、結構大きいんですね。

中嶋 4500万円のローンであれば10年で400万円くらいになりますから、相当大きいですね。教育費も私立コースをお考えであれば、100万円以上支出を削っておかないと将来子どもが中学校に進学して住宅ローン減税が消えて、それ以降は大学を卒業するまでずっと収支がマイナスです。ただ、給料アップも期待できるということですので収支の改善をすべて支出カットで賄う必要は無いかもしれません。収支の改善は収入と支出、両面で考えるべき点ですので。そこは収入アップの確実性がどれくらいか、という話になると思います。

夫 そのあたりは自分で考えないといけないところですね。シミュレーションしてみます。その結果次第で、5000万円の家を買うのか、それとももう少し下げるのか、生活費を落とすのか、落とさないのかということが決まるわけですね。今までこういう考え方が全くなかったので……すごくすっきりしました。

中嶋 「お金がかかるけどやりたい」というものもあると思います。ご家族にとっての優先順位が重要ですから、「自分たちらしい生活」を送るためにはどうしたらいいか、ぜひご夫婦で一緒に考えてみてください。お金の使い方はその人の生き方に直結する話です。受け身でこれくらいかかってしまう、という考え方ではなく、何にどれくらいお金をかけたいのか、というふうに自分自身でお金をコントロールしていただければと思います。そのための考え方が、先ほどお見せした自由に使えるお金と自由に使えないお金の話です。

妻 はい、頭の中がすごく整理されました。

夫 どこにお金をかけるべきか、自分たちで考えていかないといけないですね。お金の話を妻以外としたのは初めてでした。






家なんか寝食できれば良いので、なんで無理して地獄のローンなど組むのか?価値観がおかしい日本人が大多数である。
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