1952年の大映映画、オール・アメリカン・サーカス団が、蔵前国技館で興行をする。
大映というのは、時代劇の古臭い会社のように見られているが、実は洋画部があり、1960年代は、ディズニー映画の配給をやっていた。
パシフィコ横浜にいたとき、Fさんという女性がいて、彼女の父親は経団連の幹部、母親は大映洋画部にいたとのことで、彼女の家庭では、英語で話しているという噂だった。
一度、酔った彼女を保土ヶ谷の家に送っていったとき、奥から普通のおばあさんが出てきて日本語だったので安心したものだ。
そうした大映だったので、アメリカのサーカス団の招へいもやって、興行もしたのだろうか。
江利チエミの映画デビュー作で、脚本は井出俊郎と井上梅次、美術は木村丈夫、そして音楽は、『赤胴鈴之助』の主題歌作曲の渡辺浦人。彼の長女は初代の新国立劇場芸術監督の渡辺浩子で、早稲田大学の劇団自由舞台出で、63歳で急逝したのは、国の役人たちとの折衝からの過労だったようだ。
さて、このサーカス団の人気少女がマユミの江利チエミで、日系二世、行方不明の父親を捜している筋立て。
彼女の叔父が、銀座で屋台のラーメンをやっているのが杉狂児で、その妻岡村文子との間に沢山の子がいる。まだ、子だくさんの時代だったのだ。
サーカス団のピエロが千秋実で、チエミの朋輩が伏見和子の配役。
チエミと和子が夜、隅田川に散歩に出ると、バイオリンで『トゥー・ヤング』を引いている男がいる。
そして、銀座のキャバレーに行くと、芸人がでている。歌謡漫談のしゃんばろーで、実演の映像は珍しいと思う。その中で、チエミは、バイオリンを弾いている根上淳に会い、なんと彼の伴奏で『トゥー・ヤング』を歌い大いに受ける。この辺は、美空ひばりの『悲しき口笛』のラストと同じ。
その後、銀座のバーで、チエミ、和子、根上が行き、墨田川で引いていた曲のことを聞くと、根上は「自分のじゃない」という。
それで、バーの女のあらかわさつきは、「ジョニーのことだ!、彼は東京に戻ってきたんだ」という。
そこに、さっきキャバレーで恥をかかされたシャンバローのヤクザが来て、けんかになる。
そこに、男が現れる、「ジョニー!」の岡譲二である。
彼は、銀座の流しのバイオリン弾きなのだが、ここで岡譲二が出てきたのが、実に最高だった。
岡は、ジョージの名前のように、サイレント期は、ジョージ・ラフト似の二枚目で、松竹で田中絹代との共演でもギャング役を演じているが、その後東宝等を渡り歩き、戦後は不遇だったからだ。
因みに、この田中絹代と岡譲二の1933年のサイレント映画『非常線の女』は、田中が昼は英文タイピストだが、夜は溜池のダンスホールフロリダ等を根城とするギャングの岡譲二の情婦というすごい映画で、なんと小津安二郎の監督作品である。
これは、昭和初期の横浜の日本大通りや山手のカソリック教会が出てくるモダニズム映画でもある。
いわゆる「横浜らしさ」の典型だと思える。
最後に会社の幹部から金を強奪し、山手カソリック教会の前で警察に共に逮捕された田中絹代が、
「もう一度最初からやり直そうよ」と岡譲二に言うのは、前年の昭和7年に東京の大森で「日本共産党のギャング事件」のことを暗示しているのだと私は思うのですが、いかがでしょうか。
小津は、日本共産党に対し、「もう一度やりなおせよ!」と言っているのだと思うのです。
さて、いろいろ会って、岡はチエミと会うのですが、なかなか父親だと名乗れません。
これは、長谷川伸の『瞼の母』の裏返しのようにも思えます。
また、江利チエミの父親代わりは、ピエロの千秋ですが、「本当の父親はどこかにいる」というのは、心理学でいう「貰いっ子幻想」、本当の親は、今の親の他、実は別にいるという心理だと思うのです。
実は、私も5人兄弟の末っ子で、自分だけがひどく年が離れていたので、
「自分は本当の子供ではないのではないか」と小学校4年くらいまでは思っていました。
最後、綱渡りをやって落ちて休憩した江利チエミに代り、千秋実が、ライオンの檻に入って芸をさせようとするができず、襲われそうになる。その時、チエミが来て、無事ライオンのトミーに芸をさせてハッピーエンド。
だが、岡譲二は、落ちぶれた生活の本当の父の自分よりも、アメリカで活躍している「千秋実を本当の父と思え」とサーカスを去っていく。
ここには、ちょうどアメリカの占領から独立したとはいえ、豊かなアメリカと貧困の日本との差異性がある。
また、ここには、岡譲二や伏見和子の他、あらかわさつき、若尾文子、根上淳などの役者も出ていて、戦前、戦中から戦後の繁栄への混沌とした時代が表現されていて、興味深かった。