狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

古い新聞記事から

2006-03-19 21:58:17 | 反戦基地

 
3.20日 窓の障子明るきに眼を覚ます。5時をやや過ぎし時刻なり。月の光にやと思いて窓を開ければ東天既に白み始む。一点の雲なく冬空の如く冴え渡りたり。恐らく今朝再び大霜の朝なるべし。
昨夕妻と街のホームセンターに小用具を購いに行きたりしが、突風に似し北寄りの風吹き荒び、日没までおよびにけり。彼岸なりと云に、洵に「大荒れ」の模様なりき。
 急ぎデジタル・カメラの用意をなす。5日前わが家2階から望む、日の出を撮りしが、位置やや北に寄れるを、肉眼でも確め得たり。階下に降り、雨戸を開け朝刊紙を見るに、注目すべき大見出しなし。
きょうの天気「冬型の気圧配置が一時的に強まる。日本海側では、雪か雨で所により雷を伴う。太平洋側では、朝から乾燥した晴天」。とありぬ。
     日出   5.43
     日入  17.49
           月出  23.09
     月入   8.00

 Mさんのブログに「高松宮日記」ありければ、その発行をめぐり宣仁親王殿下没後平成3年(1991年)に宮内庁の職員が宮邸の倉庫から発見した日記(大正10年~昭和22年)が、喜久子の強い希望で中央公論社から一部編集を経て出版された経緯があったころ、T市の Dr.J・S 氏よりそのコピーを送られてきたのを、思い出されて、スクラップブックを捜しいたれば、大見出しの新聞記事切り抜きてあリぬ。
目を通せば、角田三郎記事引用最中の折から、貴重なる記事にして、忽ちにして余の思いはこの記事に集中したりき。
 

このところ記事引用のみのブロクとなってしまったが、もうしばしお赦しを乞いたい。  2002年(平成14)8月5日朝日新聞記事抜粋

昭和天皇・GHQ最高司令官 会見録入手 
                              天皇、東京裁判の対応に謝意 
                               マ元帥、米軍駐留の構想示す

 戦後の占領期に、昭和天皇と連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官が頻繁に行った会見について、通訳を務めた外交官が克明に書き残した手記が見つかった。講和交渉や独立後の日本の安全保障、朝鮮戦争の情勢など、高度に政治的な内容が詳細に語られていた。これまで会見内容は、ごく一部しか明らかになっておらず、戦後史の空白を埋める貴重な資料だ。

(略) 朝鮮の戦況質問 
マッカーサー元帥が米大統領に罷免された後の51年4月の会見で、天皇は、極東国際軍事裁判(東京裁判)に触れ、「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度につき、この機会に謝意を表したい」と語っていた。
これに対し元帥は「私は戦争裁判の構想に当初から疑問を持っておりました」と語り、「ワシントンから天皇裁判について意見を求められましたが、勿論反対しました」などと述べ、裁判を求めた英国やソ連を「間違い」だと主張した結果、天皇が不起訴になった経過を明らかにした。

朝鮮戦争さなかの51年5月に始るリッジウエー会見で天皇は「(国連軍の)士気は」「制空権は」など一貫して戦況について質問。「仮に(共産側が)大攻勢に転じた場合、米軍は原子兵器を使用されるお考えはあるのか?」とも尋ねていた。 リッジウエー司令官は「原子兵器の使用の権限は米大統領にしかない。野戦軍指令官としては何とも申し上げられないと答えながらも、地図を前に詳細に戦況を説明した。(略) >


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