猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

きょうも都知事選の結果に不満をたれる

2024-07-08 22:01:07 | 政治時評

ヨーロッパでは、ドイツでは2021年から社会民主党が政権を担当している。イギリスでも、今年になって、14年ぶりに労働党が政権に復帰した。先週のフランスの総選挙でも、左翼連合が第1党になっている。

左翼とは、自由平等を追い求めるものであって、その火が消えてはならない。自由平等こそ、民主主義の基本である。

いっぽう、都知事選では、小池百合子が圧勝であった。2位は石丸伸二で、蓮舫は3位であった。もっとも、投票率が60%で、そのうち、小池は半分をとったのだから、都民の30%の支持を得たにすぎない。しかし、30%の都民が、結果を決めたのである。30%の都民が小池の実績を評価したのは、小池の都政で何らかの利益を得たのであろう。

自民党がパーティー収入を裏金にしたというスキャンダルが起きた。自民党が政治にお金がかかるというが、そのお金を誰が出すのか、なぜお金を出すのか、ということをメディアは追求しない。出すのは大企業である。出す理由は、大企業が社会制度を大企業にとって有利にするためである。

しかし、自民党にお金を出すだけでは、自民党が選挙で勝てるわけではない。自民党が選挙費用を大企業からもらうとしても、一定層の国民に利益をばらまかないと、票を入れてもらえない。このために、政権は赤字予算を組み、国の借金を増やす。しかし、国の借金は国民に跳ね返ってきて、物価高で国民の負担を増す。

小池は豊洲移転や東京オリンピックを批判したが、言い出したが、いつの間にか豊洲移転と東京オリンピックの推進者になった。権力者はイベントを通じて一定層の都民に利益をばらまくのである。これは、別に小池に限らず、昔から、権力者が自分の権力を守るために、一定層の人間にだけ利益を配るのである。

いま、私のまわりの人たちは、食費などの物価が2割から3割あがっていて、生活が苦しい。東京オリンピックに使う都のお金があったら、都営住宅を増やして、せめても住宅にかかる費用を減らして欲しかった。

いま、神宮の森を切って小池は何を作ろうというのか。誰が儲かるのか。

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都知事選の結果に不満、あってはならない結果だ

2024-07-07 21:43:55 | 政治時評

都知事選の開票が午後8時に始まると同時に、出口調査にもとづき、小池百合子が1位、石丸伸二が2位、蓮舫が3位と各メディアが報じた。この結果は1週間前から予想がネット上で広がっていたから、驚きはしないが、がっかりするものだ。何にがっかりするかというと、小池や石丸に票をいれた東京都民にである。

石丸の選挙演説を聞くと、ビジネス界出身だから自分が経済のことが一番分かるとの一辺倒である。顔の表情をつくって、人をバカにしたり、媚びを売ったりしている。アメリカの元大統領トランプの演説パターンと同じである。バカにする、媚びを売ることで、劣等感に満ちた人の心をとらえるのである。

小池は、自分は実績があるのだ、他の候補者と別格だ、と言う態度をとることで、権威に弱い層を確実に確保した。

私は、蓮舫を国政のイメージでバカにしていたが、今回、選挙演説を聞くと生真面目なのにびっくりした。とにかく真面目なのである。開票後のTBSテレビの記者の談話を聞くと、投票日直前に新宿に集まった大観衆のうち、はじめて蓮舫の演説を聞くのは1割もいなかったという。これは、同じ人が演説を聞きに集まっていることになる。すなわち、固定ファンにしか蓮舫の声が届いていない、ということを意味している。

蓮舫は都知事選では挑戦者である。立憲民主党とか共産党とかの政党の支援を信じるのではなく、自分で支持を貪欲に集めるべきだった。

神宮の森を切ることに蓮舫が反対したが、蓮舫が負けると、都民が神宮の森を切ることに賛成したと見なされる。小池が、関東大震災で日本人が朝鮮人を虐殺したことに、都として反省の意を示さないとか、高校の都支援の枠から朝鮮学校をはずしたことを、蓮舫は批判した。蓮舫が負けると、都民がこれらの差別を支持したことになる。

蓮舫が石丸までに負けると、都民は金持ち優先で弱者やマイノリティ叩きを支持していると誤解される。しかし、蓮舫が悪いのではない。都民が悪い。


成田奈緒子の『「発達障害」と間違われる子どもたち』を読む

2024-07-04 20:37:55 | 教育を考える

図書館に5カ月前に予約した本、成田奈緒子の『「発達障害」と間違われる子どもたち』(青春新書)がようやく届き、いま、読む。

彼女は言う。「発達障害」と呼ばれる子どもが、この13年間に10倍に増えている。「発達障害は、脳の発達に関わる生まれ持った機能障害」のことなのに、これは本当なのか、と彼女は言う。「発達障害もどき」ではないだろうか、と言う。

この11年間、NPOで働いている私も、同感である。本当に「いわゆる発達障害」という疾患が存在するのだろうか、とも思う。単なる「政治的」な言葉だと私は考える。

じつは、アメリカ精神医学会(American Psychiatric Association)が出している診断マニュアル5版(DSM-5)のどこにも、「脳の発達に関わる生まれ持った機能障害」とは書いていない。

DSM-5の冒頭につぎのように書かれている。

The nerodevelopmental disorders are a group of conditions with onset in the developmental period.

(神経発達症群とは,発達期に発症する一群の疾患である.医学書院訳)

DSM-5自体は「発症」とか「疾患」とさえ言っていない。“onset”や“conditions”という語を使っている。

人の精神機能は脳の働きであるが、その機能の実現や障害のメカニズムは充分には解明されていず、意見の相違がある。それにもかかわらず、子どもの精神機能の欠陥(deficit)に悩む親は、医療機関に治療を求めてくる。患者団体と医療関係者と医薬品業界と保険業界との間に、お金をめぐって、争いと妥協が生じる。このような背景があるから、慎重な言い回しをアメリカ精神医学会がDSM-5で使うのだ。アメリカ精神医学会が標準の診断マニュアルを作ったのは、かって精神科医が信頼を失いメディアで袋叩きにあったからだ。

「脳の発達障害」の実体としては、「生まれつき」も「生まれつきでない」もあるだろう。問題は、「生まれつきでない」もあるのに、「生まれつき」であると決めてかかる日本社会の誤解にある。それでは、支援によって、症状がなくなるものも、なくならない。

だから、成田は本書で治るものを治しましょう、と言っているのである。彼女が言っている「脳を育てる」は、子どもへのあたりまえの対応である。分子生物学・発生学・解剖学・脳科学を研究してきた彼女がこのようなあたりまえのことを言わねばならないのは、日本社会の劣化ではないかと思う。

彼女が本書で対象にしているのは、貧困層の子どもではない。共稼ぎで、十分な教育を受けているはずの両親の子どもである。しかし、「あたりまえ」のことが「あたりまえ」でないのだ。すると、日本の「教育」というものを疑わないといけない。無理をして「知識」を詰め込み、子どもを受験体制に組み込んでいく日本の教育に問題がある。

どんな地方に行っても学習塾があるのは おかしくないか。

彼女は本書で、子どもは10時間寝るのが良い、と言っている。私も高校2年まで10時間寝ていた。夜9時に寝て朝7時に起きていた。小学校のときは、かまどの火を起こし、ご飯を炊くの手伝っていた。高校3年になって、はじめて、朝6時に起きて受験勉強を1時間した。

何時間も受験勉強をしなければならないというのは神話である。人間は何時間も意味のないことを続けることはできない。小学校、中学校、高校も楽しかったが、受験勉強を1時間に限定した私には、興味あることをいくらでも学べる大学は本当に楽しいものだった。いつも、教室の最前列にいて質問していた。

あたりまえの生活をすすめる彼女の本は おすすめである。ぜひ、読んで欲しい。

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子どもの理科実験レポートで苦悶した私

2024-07-02 20:42:53 | 教育を考える

放課後デイサービスで私の担当する子どもに、理科が好きな中3の男の子がいる。どうして理科が好きなのかと聞くと実験が面白いと言う。

私には中学時代に実験をやった記憶がない。化学は覚えることが多くて好きでなかった。リトマス試験紙の色が酸性アルカリ性でどう変わるのかも、すっかり忘れてしまった。

理科が好きな彼は、2週間前から私に実験のレポートの書き方をしつこく聞いてくる。銅と亜鉛とのイオン化傾向の違いを調べる実験のレポートだ。

学校から配られたプリントに、実験に先立って自分の仮説を立て書く欄とその根拠を書く欄とがある。銅と亜鉛のどちらがイオン化傾向が大きいかを、中学生が根拠を示して予測できると思えない。大学生にも難しいと私は思う。

私は非常に困った。実験とは予測できないから実験するのではないか。実験で大事なのは、結果の予測ではなく何を知りたいかではないか。そのための実験の設計が大事なのではないか。

すると、この仮説は、どちらがイオン化傾向が大きいかでなく、実験では、どういう現象を期待しているのか、ではないか、と思い、そう説明した。

実験は,硫酸銅の溶液に亜鉛を入れた場合と硫酸亜鉛に銅を入れた場合を比較するようになっている。仮説は、イオン化傾向の大きい金属を入れた場合に反応が起き、入れた金属の表面の変化が観測できる。イオン化傾向の小さい金属を入れた場合には何も反応が起きない。このことなら、仮説とそう予測した理由を述べることができる。

私はそう思ったのだが、きのう、彼が来る前に教科書を丁寧に読んだとき、この実験の期待される仮説を教科書の補充部分に見出した。仮説Aは亜鉛のイオン化傾向が銅のそれより大きい、仮説Bは銅のイオン化傾向が亜鉛のそれより大きい、となっている。仮説Aの根拠は、オリンピックのメダルは銅、銀、金であって亜鉛でない、仮説Bの根拠は、銅でできている10円玉は古くなると黒っぽくなる、というものであった。

この教科書は、実験をゲームのように扱って、子どもたちに結果を予測させることを目的としているのだ。根拠は科学的である必要ではないのだ。子どもたちに理科への関心を起こすには、非科学的な予測も良しとするしかない。自由な発言を認めないといけない。

しかし、教科書にはイオン化傾向の順が書いてある。そうすると、実験のレポートで「仮説」と「根拠」を述べさすことは間違いではないか。レポートに書くべきは実験の「目的」ではないか。実験の「設計のポイント」ではないか。

このイオン化傾向の実験では、銅と亜鉛とを対称に扱っているところが、実験のポイントである。

理科教育はとっても難しい。特に電解質、電池は教えるのが難しいところだ。現在の中学の理科は内容が多すぎる。丁寧に教えるには、内容を絞るべきではないかと思う。

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