猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

「日本人」を決めるのは、血?国籍?それとも見た目?

2024-04-13 20:33:23 | 思想

3日前の朝日新聞〈耕論〉で、『「日本人」を決めるのは』をテーマに3人が論じていた。めずらしく3人の論者の方向が一致していた。

17年前から日本に暮らす文筆家のマライ・メントラインは「多様なルーツを持つ日本人が増えた現在、こうした「ザ・日本人」像の押し付けは、マイクロアグレション(何げない差別)」であると言う。

カメルーン生まれの星野ルネは「(僕は)あえて言うなら「アフリカ系関西人」」「いろいろな日本人がすでにいるのだから、その人たちの人生を見て、それから「日本人とは」という話しをすればいい」と言う。ステレオタイプな色メガネを通してみるのではなく、個人としての自分を見て欲しいと言っているのだと思う。

私と同じ年に生まれた老人の社会学者の福岡安則は「日本人とは何か。それは定義不能」と言う。

私も、定義不能なのに「自分が典型的な日本人だと信じる」のは集団妄想だと思う。精神分析家のウィルフレッド・ビオンが、自己愛の未成熟な人々の集まりは、強烈な自信の持ち主に引きずられ、集団妄想を抱きやすいと言ったらしい。ヒトラーに率いられた1930年代のドイツ、ネタニヤフ政権下の現在のイスラエル、プーチン政権下のロシアも、そうではないか、と思う。

集団妄想は、国のレベルでも起きるし、町や村のレベルでも起きるし、学校や塾や会社でも起きる。差別やいじめの要因となる。

私は、ナショナリズムは自己愛の欠如からくる個人の劣等感の現われ、と思う。早速、確認のために、ビオンの著作を図書館に予約した。

メントラインは「(ドイツも)1999年の法改正で出生主義の要素も採り入れました」と言う。これも、大事な指摘で、国籍を「血統」で決めるべきではない、ということである。

ナチスは、何代も前にキリスト教に改宗していても、ユダヤ人の血が流れているとの理由で、一緒に暮らしていたユダヤ人を強制収容所に送った。

日本人か否かを、血統で決めるべきでも出生地で決めるべきでもない。

民主主義(democracy)の語源 δημοκρατία の δημο は、もともと「地域」を意味する言葉であった。「血統」と対立する言葉である。どの両親のもとに生れたかでなく、同じ地で暮らすものはみんな平等であるというのが民主主義である。

メントラインは、日本の首相が「国民の皆さん」と呼びかけるが、ドイツの政治家は“Mitbürger”と呼びかけると言う。その意味は「ともに暮らす人々」と言う。血統や出生地が日本人であることを決めるのではない。ともに暮らしているという事実が大事なのである。ともに暮らしているのだから、その地の政治に参加できねばならない。


リニア新幹線は本当に造るべきだったのか?

2024-04-11 02:13:05 | 社会時評

きのう、川勝平太が静岡県知事の辞職願いを県議会議長に提出した。職業差別の発言で物議をかもしたことが、辞職の理由らしいが、マスメディアのあら捜しに嫌気がさしたのではないかと私は思う。私には、言葉尻をとらえただけの非常に政治的な策謀にメディアが乗ったように見え、本来は彼が辞職する必要はないものと思う。

この背景の1つに、リニア新幹線の工事問題があると思う。リニア新幹線の開通を妨げている勢力のシンボルの1つに、川勝平太がメディアや保守系の人々から見えるのだろう。

リニア新幹線の抱える問題は、ウィキペディアの中央新幹線の項に簡潔にまとめられている。東海道新幹線が何かあったときのための代替策として中央新幹線がもともと企画されていたが、そこに、2011年にリニア新幹線という怪しげな技術案が採用されたことに問題の発端がある。

2014年に環境庁が石原伸晃大臣を経由して太田昭宏国土交通大臣に提出した意見書は、リニア新幹線建設計画に、つぎの環境問題を指摘した。

JR東海の計画では品川―名古屋区間の86%がトンネルとなり、このトンネルが多くの水系を横切るので、「ひいては河川の生態系に不可逆的な影響を与える可能性が高い」。

また、トンネル工事で発生する大量の土砂をどうするかの検討と施策が、土砂崩れの災害を防ぐために、求められる。

さらに、「本事業の供用時には現時点で約27万 kWと試算される大量のエネルギーを必要としているが、現在我が国が、あらゆる政策手段を講じて地球温暖化対策に取り組んでいる状況下、これほどのエネルギー需要が増加することは看過できない」。この約27万 kWは、中部電力の電力供給能力のほぼ1%にあたる。

私から見ると、リニアの選択はエネルギー効率からみれば、馬鹿げた選択である。一番エネルギー効率の良いのは、地上に車輪がついた鉄道である。リニアは鉄道より早いというが、鉄道のスピードを制限しているのは、現状の線路が曲がりくねったり、坂を上がったり下がったりして、車体のスピードとともに安定性が悪くなるからである。したがって、リニアのように初めから線路をまっすぐにし、線路の勾配を緩やかにすれば、いくらでも鉄道はスピードを出せるのである。

東海道新幹線が何かあったときのための代替策として中央新幹線があるなら、輸送量も問われる。しかし、JR東海のリニアの計画では、その輸送量は東海道新幹線よりはるかに劣る。これは、現状のリニアの技術的問題に由来する。

また、ほとんどトンネルで途中駅も限定されるから、観光列車との価値も少ない。コロナで一段とテレワークが進んだので、ビジネス利用の増加も期待できない。

また、日本の中央構造線(大断層)を横切ることになるので、黒四ダム建設に劣らない難工事が予測される。建設費は大きく膨らむだろう。

したがって、リニア新幹線の経済効果は、その工事を請け負う土建屋だけにとどまり、できたあかつきには、なぜ、こんなお荷物になるものを日本社会は必死で作ろうとしたのか、後悔することになるだろう。

私は、このように、リニア新幹線にいかなる明るい期待をいだけない。だれが、政治家やメディアをだましたのだろうか。リニア研究の予算を確保するために、技術者幹部が軽い気持ちで明るい未来を誇張したためではないか、と想像している。

<世の中には、技術的夢として研究しつづけ、実現してはならぬものがある。>


カズオ・イシグロの『クララとお日さま』

2024-04-07 21:06:25 | こころ

最近は色々なことが つぎからつぎと起こり、年老いた私には、情報の洪水で処理できない。ウクライナの戦争もガザの戦争も、何もかも解決していない。きょう日曜日は、ガザ戦争の発端から半年にあたるというので、朝日新聞はガザ戦争でのイスラエルの暴虐を特集していた。

しかし、マルチタスクができなくなった老人の私には、きょうは『クララとお日さま』に話を絞りたい。金曜日の夜に、仕事の終わった後、明け方まで、カズオ・イシグロの『クララとお日さま』をいっきに読んだ。ちょっと寝ての土曜日のゴミだしは、若くないので、体に こたえた。

クララは、太陽光(お日さま)発電で動く人造人間で、子どもの玩具である。クララが人間界を観察し語るSF小説である。

読んで感じたのは、イシグロは、誰かに仕えるだけの人生をあえて描くということである。『日の名残り』を読んだときもそう感じた。仕えるだけの人生を送ったのにも関わらず、人造人間のクララも執事のスティーブンスも後悔しないのである。自己肯定感が崩れないのである。

イシグロの作品は、いつも非常に考えて創作されたプロットで、普通の人の普通の人生体験ではない。

イシグロは小説家として成功しているにも関わらず、屈折しているように感じる。普通のイギリス人ではなかった自分の幼少期の体験に自信を持っていないのではという気がする。舞台を日本にしたり、執事という特殊な職業をえらんだり、クーロン人間とかAF(人造友人)を主役にしたりして、虚構の舞台設定で、人間の心理劇を描いている。イシグロは自分の幼少期のことを隠している。

誰かに仕えるだけの人生、それは、マイノリティが必死で社会のなかを生きていくすべでもある。私が40年前にカナダで親しくさせていただいた日本からの研究者の息子は大人になってから自殺している。2世のほうが、葛藤を抱える。1世は国を捨てるのは、生き抜くためにしかたがないと納得している。自分の選択であると納得している。2世は自分の選択ではない。なぜ、差別されるのか、納得いかないが、親の祖国日本で生きていける自信もない。

せっかく、イシグロは名声を確保したのだから、SFに逃げるのではなく、マイノリティとして暮らした幼少期をモデルにした作品も書いてみて欲しい。


佐伯啓思の『トランプ現象と民主主義』

2024-04-02 18:28:58 | 思想

佐伯啓思が、また、朝日新聞の〈異論のススメ〉で「民主主義」を批判している。前回は「民主主義は非効率で滅びの道に進む」と批判していた。

今回も、佐伯は、民主主義は価値の相対主義を前提とし、最終的に数のよって意思決定する政治体制とする。このことが、大衆に媚びるポピュリストや大衆をだますデマコーグや不寛容な正義の絶対化(ポリティカル・コレクトネス)が生じると批判する。

この佐伯の論理は、大衆がバカだ、とする伝統的な西洋の保守思想に基づいている。大衆がバカなら、だれがバカでないか、私は、彼に聞き返したい。逆に、私は、大衆がそんなにバカでないから、自民党政府が小中高を通して道徳教育を強制し、「君が代」と「日の丸」に涙するよう、子どもたちを洗脳していると思っている。

佐伯は、今回、プラトンも民主主義を相対主義として批判していると書いている。ちょっと違うのではないか、と私は考える。また、プラトンはソフィストを批判しているとする。これも、本当はプラトン自身もソフィストだと思う。プラトンも平気で詭弁を使う。

バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』(第12章~第17章)によれば、プラトンは、戦争で勝ったスパルタに仕えるアテネの有力一族に属し、スパルタを理想に『Πολιτεία』(岩波文庫では『国家』)を書き上げた、という。

プラトンは『Πολιτεία』の中で確かに民主主義を批判している。しかし、プラトンの視点は佐伯のそれと異なる。プラトンは言う。

「貧しい人びとが闘いに勝って、相手側の人々のうちのある者は殺し、あるものは追放し、そして残りの人々を平等に国制と支配に参与させるようになったとき、民主制(δημοκρατία)というものが生まれる」(第8章557A)

「この人々は自由であり、またこの国家には自由が支配していて、何でも話せる言論の自由が行きわたっているとともに、そこで何でも思いどおりのことを行うことが放任されている」(同557B)

「さまざまの国制のなかでも、いちばん美しい国制かも知れない」(同557C)

そして、プラトンは、民主制国家は「自由」を善と規定するので、その自由放任が民主制を崩壊させると言う。一番うるさく話す奴が指導者になって、もてる人々から財産を取り上げて、大部分を自分で着服したあと、残りを民衆に分配し、僭主(独裁者)となると言う。

すなわち、民主制の自由放任が独裁者を招くからいけないとプラトンは言っており、「人々を平等に国制と支配に参与させる」自体を悪いとは言っていない。

民主制国家は人びとにとって居心地が良いのだから、大衆をバカにするより、どうしたら、独裁者を招かないようにしたらよいか、考えた方がよいと私は思う。

実際には、プラトンの言うほどは、民主制が自発的に崩壊して、独裁制に移行することはなかった。

M.I.フィンリーは『民主主義 古代と現代』(講談社学術文庫)で、ギリシアの民主制は約300年近く続いたと言う。

また、ローマ帝国は君主政ではなく、共和政なので、これを民主政に含めれば、地中海沿岸の古代民主制社会は民族移動の波に飲み込まれるまで続いたともみることができる。