きょう(10月31日)のNHKテレビ『所さん!大変ですよ』で「発達障害スペシャル」をやっていた。番組は、「発達障害」のひとには健常者にない特性があるのだから、短所を長所と考えましょうというものであった。善意の番組である。
しかし、素晴らしい特性に恵まれた者をなぜ「障害者」と呼ぶのだろうか。「障害者」呼ばわりをするのを、社会や精神科医や教師はやめるべきだ。
4年前、ひきこもり問題に取り組む精神科医の斎藤環が、「発達障害」とは精神科医が自分の扱いにくい子どもにつける悪口のレッテルだ、と講演会で言っていた。私も、多くの場合はそうである、と思う。
番組で、ハリウッドのスタジオに務める自閉スペクトル症の男が、動画の見えてはならないモノ、たとえば、ワイヤなどを消す作業に集中していた。あってはならないものにすぐ気づくこと、集中して作業することは、たしかに良い特性である。私が問題だと思うのは、なぜ、それを「障害」と呼ぶのか、ということだ。また、番組では、彼だけがキチンと12時にランチを食べることを取り上げていた。
私も、毎日、ここずっと、スキャンした子どもの絵を修正している。
その絵は、非常にうまく描けているが、罫線付きのノートに色鉛筆で描いていた。スキャンすると罫線がくっきり見えてしまう。無料ソフト、ペイントを使って罫線を消すのに毎日集中しているのだ。色鉛筆の手描きの絵は、一様に色が塗れているわけでなく、ざらざらの肌合いになっている。そのザラザラ感が同じ部分をコピーして罫線にかぶせることで、違和感がなくなるようにしている。
NPOにくる子どもたちの絵や工作の写真や詩やエッセイを集めて文芸誌を私は発行しているのだ。
私は集中して作業するのが好きなタイプだが、「発達障害」と呼ばれたくない。毎日、同じ時刻に同じ仕事をするのも、おかしなことではなく、脳の負担を軽くするためだ。興味ないことに脳を使う必要がない。これは、私だけでなく、ドイツの哲学者カントもそうだった。毎日、昼の同じ時間に起き、同じ時間に同じ道を散歩し、同じ時間に同じ物を食べたという。
番組では、発達障害のおもなものは、ADHD、自閉スペクトラム症、学習障害と言っていたが、これもおかしい。
じつは、大きなジャンル、知的能力障害を抜かしている。年齢相応な知的行動がとれないとき、知的能力障害を疑う。例えば、独りで食事ができない、排せつができない、道順が覚えられないことを言う。軽い症状では、買い物ができない、電車やバスが利用できないことをいう。
「知的能力障害」を「障害」と呼ぶのは、アメリカの知的能力障害者の親がそう望むからで、オバマ大統領の時代に法律で決まったことである。親が「障害」と呼ばれるのを選んだのは、社会が障害者を責任をもって支援しろ、という権利意識からである。
また、アメリカの精神医学会の診断マニュアルDMS-5では、コミュニケ―ション症があるが、これも、だいじなジャンルである。
たとえば、吃音も周りがはやし立てると、人と会うことが怖い社交不安症をひきおこす。吃音をとがめてはいけない。
耳やのどが正常で記憶力があっても、すなわち、オウム返しができても、話せない子どもたちもいる。しかし、支援していくうちに、その子が生きていくのに、最低限必要なことをいえるようになる。この場合は話したいことを意識化するように指導する。
私が言いたいのは、本当に支援がないと生きていけない人に「障害者」と呼び、支援していくことに賛成だが、じつは、社会の対応に問題があって、過度の競争社会になっていて、また、思い込みの規範を全員に押しつけ、精神科医のビジネス繁盛のために、あるいは、学校教育の効率の追求のために、障害者でない者まで「障害者」と呼ぶのは、やめて欲しいということだ。
いっぽう、支援でなくても、気遣いが必要なことはいくらでもある。
たとえば、読字障害(ディスレクシア)の人が読める文章を書くということは だいじなことである。
また、ひとに指示するときは、わかるように具体的にいうことも だいじである。
とにかく、健常者、健常者と いばるな。