世の中はAI、AIというが、コンピューターと脳とは動作原理がまったく異なる。
コンピューターは 0か1かのビットが並んだ列で制御される。脳の神経細胞(ニューロン)は、興奮を伝えるだけで、0というものがない。
数学が好きで、物理学科で学び、コンピューターの会社で働いたデジタル人間の私にとって、生体系の制御は、長らく、とても不思議なものだった。
L. R. スクワイアとE. R. カンデルの『記憶のしくみ』(ブルーバックス)を読んでも、謎が深まるばかりだった。
最近、あやつり人形を考えることで、ようやく、生体系の制御システムに納得がいった。あやつり人形の糸を引っ張れば、糸の結ばれている手、または、足が上がる。
糸が運動神経細胞である。
人間や動物の各筋肉にそれぞれ別の運動神経細胞が届いている。運動神経細胞の軸索の終端に電気パルスがいけば、化学物質アセチルコリンが放出され、筋肉が収縮する。
生体系では、制御に0を送る必要がないのだ。
関節を動かすのにいくつもの筋肉が骨についており、それぞれに、異なる運動神経細胞が届いているから、反対向きに動かしたければ、反対側の筋肉に届く運動神経細胞に信号を送れば良い。
糸を引っ張るのが感覚神経細胞だ。感覚神経細胞と運動神経細胞の結びつきが変わらなければ、生物は学習ができない。記憶ができないことになる。
しかし、操り人形の糸が、もし絡まったらどうなるだろうか。1つの糸を引っ張れば、手と足の両方が上がるかもしれない。
感覚神経細胞と運動神経細胞とを結びつける介在神経細胞が狭い領域に詰め込まれていれば、絡んだりして、同じ外界の刺激に対して異なる反応をするかもしれない。
実際、スペインの神経解剖学者ラモン・イ・カハールが、神経細胞を感覚細胞と運動神経細胞と介在神経細胞とにわけ、そのつながり(神経回路)が、外界に対する反応を産むとの仮説を提案し、111年前、1906年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
その60年後、エリック・R・カンデルは、海に住む軟体動物のアメフラシを使い、学習によって介在神経細胞のつけかえ(シナプス結合の可塑性)が起きることをはじめて実証した。アメフラシの神経細胞は大きくて、1 mmに達するモノもあり、観察しやすかったからである。
学習とは記憶したということである。記憶は神経細胞間のつけかえで起きるのである。私はつい最近までカンデルの業績を知らなかった。
その頃、私の物理学科の友人たちは、イカの巨大神経の軸索ばかりを研究していた。物理屋にはシステムという考え方が欠落していた。
生体系の記憶とは、神経細胞がおりなす興奮の伝達回路が変わることである。
脊髄動物の場合は、アメフラシより、はるかに多数の神経細胞が集まって脳をなしている。
脳科学総合研究センター編の『つながる脳科学 「心のしくみ」に迫る脳研究の最前線』 (ブルーバックス)などを読むと、神経細胞と神経細胞の興奮伝達効率は、変わるだけでなく、確率的であることがわかってきた。さらに、モノアミン作動性神経細胞は、他の神経細胞に同期信号を送っていることがわかってきた。
脳の情報統合の問題も、これらの事実で理解できそうである。私の学生時代とくらべ、人間の脳の生物的学的理解もずいぶん進んだと思う。
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