猫じじいのブログ

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「わきまえる」や「尊敬語・謙譲語」は上下関係や身分制を前提

2021-03-10 23:05:46 | 社会時評


4日前、朝日新聞《耕論》に『考・わきまえる』というテーマで3人の論者の意見を聞いていた。この中で、宋文洲の意見が一番本質をとらえていると思う。

森喜朗がJOC臨時評議会で、女性へのステレオタイプ的な悪口をいったあとに、つぎのように言ったのである。

「私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、7人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。」

これは、明らかに上から目線で、自分の置かれている位置を考えて行動しなさいと森は暗に言っているのである。この「わきまえる」を宋は「秩序に従って」とか「階級に合わせて」行動することと言い換えている。日本語らしい表現にすると「上下関係に従って」とか「身分に合わせて」ということである。

宋は、「わきまえる」という言葉が日本人から出てくるのは、みずから社会の上下をひっくり返すような「革命」を経験していないからだと言う。

私は、森喜朗のように「わきまえろ」という日本人はもういないはずだと思いたい。森だけが頭がいかれていると思いたい。

日本はデモクラシーの社会であるはずである。ならば、アレクシ・トクヴィルや宇野重規の言うように、社会生活のあらゆる面で互いに平等であるはずである。そうでないなら、デモクラシーの社会ではない。

19世紀のフランス人貴族 トクヴィルがアメリカ視察旅行でびっくりしたのは、あらゆるところで平等が徹底していたことである。この「平等」は制度的なものをいうのではなく、人々が、心から互いに対等であるべきだと思い、対等でなければ怒りを覚えることをいう。すなわち、「わきまえない」ことにびっくりしたのである。

だから、外資系の会社に入り、マネージャー(管理者)になると、対等であると思っている自分のスタッフを、どうやって従わせるかの研修を受ける。すなわち、日本語では「上司」と「部下」というが、デモクラシーの社会では、「上下関係」はないのである。

したがって、平等の社会では、スタッフがマネージャーに従うのは、マネージャーに何かすぐれたところ(パワー)があり、従った方が得であるからである。

だから、中国で育った宋は、「上限関係」や「身分」に疑問を持たない日本社会がとても不思議に思えるのだろうと思う。まるで、反抗することを忘れた「家畜」のようにみえるのだろう。だから、日本人は革命を経験していないから、という考えにいたったのであろう。

日本人がそんなにバカだと思いたくない。バカなのは森喜朗だけだと思いたい。しかし、互いに平等だというデモクラシーに反する一連の言葉が日本語にいまだに残っている。

日本語に「敬語」がある。「敬語」には「尊敬語」と「謙譲語」と「丁寧語」とがある。現在の国語教育では、これらの敬語の使い方を教えている。しかし、「尊敬語」と「謙譲語」とは教えていけないと私は思う。この2つは、上下関係や身分制を前提としているからだ。

デモクラシーの社会では徹底的にすべてが平等であるべきである。社長も平社員も臨時社員も平等である。あるのは、「上下関係」ではなく、「よそよそしい関係」なのか「親しい関係」なのかの違いである。「よそよそしい関係」のときに「丁寧語」を使う。

ショッピングにおける買い手と売り手の関係も同じで、「上下関係」はない。知らない人間同士なのか、馴染みの関係なのかである。私は商店街の出だが、私の子ども時代には、「おもてなし」とか「手をそろえてお辞儀」とかは なかった。これらは、よそよそしい関係を表わし、下町の商店街にふさわしくないからだ。

もう一度言おう。日本の国語教育は、デモクラシーの社会に適応していないのである。国語教育から文学作品を追放するよりも、「尊敬語」と「謙譲語」を追放すべきである。


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