猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋

2023-07-31 17:09:52 | こころの病(やまい)

おととい、図書館でタイトルが面白そうな本を見つけ借りてきた。斎藤環と与那覇潤の『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』(新潮選書)である。

しかし、「心が病んだらいけないの」というキャッチなタイトルにもかかわらず、本書は日本社会の広範囲にわたる表層的おしゃべり(対談)にとどまって、私には不満が残った。いまだに、日本人はダイアローグ(対話)ができないのだろうか。インテリの偉そうな態度だけが目立った。

それでも、いくつかの収穫があった。

斎藤環は、日本の「発達障害」は流行であって、その妥当性に疑問を呈していた。私もこの12年間NPOで6歳から40歳近くまでの子どもたちを相手にしてきたが、同感である。

じっさいの「発達障害」児に接していると、その多くはただの不登校、ひきこもりか、知的能力に軽い問題を抱えている子どもたちで、重い知的障害とかASDとかAD/HDの子どもは非常に少ない。文科省の調査結果は、手間のかかる子どもたちを「発達障害」とカウントしているのではないか、と私は疑ってしまう。

問題は、日本の多くのケア施設では、みんなを知的障害かASDかのように扱い、社会に適応させようと、プログラムと称して、集団行動の訓練を行っている。たとえば、指導員が指さした方向に目を向けるように訓練する。

「発達障害」の烙印を個々の人間に押しつけるが、何が「発達障害」かはその国の「文化」によって規定される。親がそのことを認識し、「発達障害」だと思わず、社会から子どもを守れば、ただの発達の個人差ですむことが多い。

理想的には、障害の重い子に支援が多く向けられるようにし、軽い子には社会のほうが変わって受け入れるようにした方が良いと思う。たとえば、社会の側が「発達障害」と ののしらず、省略のない分かりやすい日本語で話せば、多くの場合、コミュニケーションは成り立つ。

不登校やひきこもりの場合は、塾や学校や職場など社会の側に根深い問題があることが多い。いじめがあると、いじめを受けた側が精神科の治療対象で、いじめをした側は精神科の治療対象にならないのは、与那覇はオカシイと言う。そういう意味で、本書の副題のとおり、病的な社会側に「処方箋」が必要なのだが、残念ながら斎藤環も与那覇も「処方箋」を与えていない。難しくて処方箋が書けないのか、処方箋は当事者が書くべきものと考えているのか、理由が明らかでない。

私も就労支援という立場から、「社会」を変える必要性を強く感じる。政府の現在の制度では、「精神障害」「発達障害」という烙印を本人が受け入れないと、就労支援を受けられない。就労支援の内容も問題がある。すべてをあきらめるよう指導する。また就労支援の結果、就労先は、能力に応じたというより、「無能」だという烙印を押されたような仕事しか与えられない。国の福祉政策の素案作りに、精神障害や発達障害の公務員が当事者として参加するのが筋であろう。

社会としては、障害があろうがなかろうが、すべての人に能力を高める支援をして、能力に応じた仕事を与えたほうが、得なはずだが、そのような合理的な考えが日本政府にない。与那覇や斎藤は、これを市場競争主義の「理想の計画」の欠如と呼ぶ。

私は、精神分析の方法論の有用性も部分的に認めるが、「迷信」の部分のほうが多いと考えている。とくに、フロイトのエディプス・コンプレクス仮説は、私の納得しかねるところである。そんなもの、育った家庭がどんな文化を引きづっているかによって異なるだろう。エディプス・コンプレックス仮説は、幼児から大人への成長の過程で「去勢」が必要だとするものだ。

本書で、与那覇も斎藤も、この「去勢」を「あきらめ」(自分の無力の是認)と解釈し、必要だとする。そして、戦後民主主義教育が「去勢」を禁止したことを誤りとする。私はこの議論に承諾できない。別に、あきらめないから不登校になる、ひきこもりになる、うつ病になる、わけではない。「あきらめ」させるは、興奮する子どもに向精神薬を飲ませておとなしくさせれば良いという暴論と同質である。あきらめないで一生夢を追い続けたっていいではないか。社会はそういう強さを育てたって良いと考える。

精神分析よりも脳科学の方が実践的にも有用である。



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