猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

新型コロナ騒動で 愚か者が「正義」を振りかざしていた

2020-05-26 22:14:20 | 新型コロナウイルス
 
新型コロナ緊急事態宣言が、昨日、5月25日に全国的に解除された。
この間、私たちは、愚か者のように扱われ、ホンモノの愚か者が声高に叫ぶ、愚かな時間が全国的に流れた。すなわち、お仕着せの行動が要請され、私たちは自分の気持ち、自分の考えを抑え込まれたのである。
 
5月8日の朝日新聞のインタビュー『社会を覆う「正しさ」』で、磯野真穂がその新型コロナ騒動に異議申し立てを行っていた。
 
そう、「正しい」とか「正義」とかいう言葉に嘘がある。「正しい」とか「正義」とかいうものはない。「お仕着せ」なのである。
 
自分にとって「快」か「不快」であるかは、ハッキリしている。これが、ハッキリしなくなったら、心を悩んでいる。うつが始まったのだ。
 
「正しい」とか「正義」とかは、個人の「快」とか「不快」とかを押しのけて、他人から強要されるか、他人に強要するものである。
 
古代ギリシア語に、すでに「正しい」を意味する“δίκαιος”(ディカイオス)という語があり、動詞形が“δικαιόω”(ディカイオオー)、名詞形が“δικαιοσύνη”(ディカイオシュング)である。「正義」は“δίκη”(ディケー)である。いずれも、「人を裁く」という状況のなかで使われるのが、本来の用法である。「平等」が担保されなければ、「正しさ」は抑圧でしかない。
 
人によって、それぞれ「快」「不快」が違い、人々の利害が一致しないとするなら、「正しい」とは誰にとって「正しい」のか、それは、他人に強要できるほどの「正しさ」なのかを、問われなければいけない。
 
磯野は言う。
 
「スーパーマーケットでの買い物のとき、人とどれくらいの距離をあけるか、店に入る人数は何人くらいまでか――。さらに、政府の専門家会議が4日に打ち出した『新しい生活様式』では、『食事は、体面ではなく横並び』『食事の際は料理に集中し、おしゃべりは控えめに』などと、私のささやかな生活にまで、行政がさらに入り込んできました。」
 
よけいなおせっかいである。私は妻と対面で食事をしているし、無言なら夫婦喧嘩になる。もうマスクは暑苦しいし、フェイスシールドは医療従事者以外に必要と思えない。
 
政府が個人の日常に細かい指示をだすのに、いっぽうで、緊急事態の解除にあたっても、満員電車の問題は解決されていない。政府は自分の無能さを責められないように、個人につぎつぎと細かい指示をだしているのだ。
 
磯野が言うように、さらに問題なのは、政府の責任逃れの「おせっかい」に不満をもらすのではなく、「行政はもっと基準をはっきりさせろ」という声が、政府関係者以外から上がってくることである。そして、「感染リスクを限りなくゼロに近づけることが、一人ひとりに課される至上命令になり」、それが「社会的正義」として、「差別、中傷、バッシング」を生む。
 
磯野は言う。
 
「自治体が『自粛要請』に従わないパチンコ店を公表すると、抗議や強迫が殺到する事態になりました。」
「他県ナンバーの車に対して石を投げたり、いたずらしたり、といったことも出てきます」
「陽性患者が出た病院の医療機関での受診を断られたり、子どもが保育園への通園が拒否されたりする」
 
感染流行を抑えるためには、集団免疫ができるしかない。感染者はべつに犯罪人ではない。集団免疫ができるために、貢献しているのである。すなわち、感染から回復することこそが、社会にとってだいじなのである。
 
「正しい」とか「正義」とかは、社会が民主的で平等であるときにだけ、それが誰にとって、どの程度、良いことなのか、誰に嫌な思いをさせるのか、嫌な思いをさせるだけの必要性がどうしてあるのだろうか、おおやけに議論され、合意が導かれるときにのみ、意味のある概念である。政府が、自治体が、「正しさ」を決めるのではない。