――「障害者」を「障がい者」とか「しょうがい者」とする傾向に対して――
これも機関誌から転載である。筆者は牧口一二さんである。ゆめ本社が編集・発行している『ゆめ本社通信』(第20号、2008年10月15日付け)に掲載されている「連載エッセイ・このごろ想うこと」の今号のテーマとして<なんだかウサンクサイ「しょうがい者」「障がい者」という表現>と題されて掲載されている。牧口さんから転載することについて了解を取ったので、以下全文を紹介する。なお、同誌のプロフィールには1937年08月大阪市生まれ。満1才のころポリオ(脊髄性小児マヒ)にかかると記してある。長年松葉杖を使われていたが、最近は車いす生活に移られたという。NHK教育テレビ「きらっといきる」にレギュラー出演されているほか、多数の著書がある(ここには書ききれない)。ぜひ、本誌そのものを手にとって読んでほしい。以下は、牧口さんが書かれた全文である。ただし、中見出しは本人の許可なく私がつけたものである。
■ 漢字表現をひらがな混じりに変える例
このごろ、「障害者」という単語が「しょうがい者」だの「障がい者」とひらがな混じりで表現されている文章に出合うことが多くなった。それも障害者団体の機関誌などにもその傾向が顕著になってきて、あーぁという感じ。大阪府も橋下知事に(しかるべき部署が)お伺いを立てたようで、彼が「そりゃそうだ」(と言ったかどうか)府庁の関係書類がほとんど「障がい者」と書くようになったらしい。
「害」は「よくない」という意味があるから止めておこう、という趣旨は分からなくはないが、あまりにも安易にすぎないだろうか。そんな理屈なら「障」はどうだ。「さしさわり」「故障」「支障」の「障」である。「害」ほど露骨ではないが、「よくない」意味が込められた漢字である。「障」も「害」も使えないとなると、「しょうがい者」が正しい表記ということか。どうもスッキリしない。
■ 言葉だけを穏便にすます傾向が顕著
このごろ世の中全体で、内容は変わらないのに言葉だけを穏便で抵抗の少ない言葉に置き換える傾向があるように思えてしかたがない。というより、内容はより醜くなっているのに(それを誤魔化すかのように)言葉を当たり障りのないものに置き換えているのが気にかかる。たとえば、「後期高齢者」という表現があまりにも評判が悪かったため、福田首相は「長寿高齢者」と言い換えた。この制度の内容が醜すぎたため、それに伴って言葉の無神経さも批判されたのだが、福田さんは言葉が悪かったと思ったのだろうか(まさかね)。
ほかにもある。「障害者自立支援法」というけれど、障害者市民運動が40年ほどかかって築き上げてきた重度障害者も自立できる「自立」観から為政者たちは何ら学ぶこともしないで従来の自立観そのままに、障害者を「孤立」に追い込もうとしている法律なのだ。ボクは「孤立支援法」とか「自立強制法」と皮肉っている。
なんだか後ろめたさを感じるときに使われる丁寧語、たとえば「障害者の方々」など、ふつうなら「障害者たち」「障害がある人々」いいところを、わざわざ丁寧に言おうとする意図が働いている、とボクは思う。捻くれているのかな?考えすぎなのだろうか。そうであってほしいと願うけれど、どうもそうではないようだ。
■ 「障害者」の新しい呼び名を探す
さて、では「障害者」はどのように表記すればいいのだろう。以前、ボクは障害者の立場から「新しい呼び名をつくろう」と公募したことがある。だが、本音のところで障害をマイナスと認識している現代社会では画期的な言葉な生まれるわけもなく、「共生者」とか「協働者」という応募作が圧倒的だった。ただ1つ、ボクがつねに障害を「個性」や「クセ」みたいものと思っているから感じたのか、応募作の中に「クセモノ」というのがあって、ちょっといいなぁと思ったしだい。
ボクは誤魔化したり、臭いものに蓋をするのがイヤだから。いまも「障害者」と書いている。「障害」というのは本来、我ら自身のことではなく、外部の環境によって障害を被っている(邪魔されている)者、それを障害者と呼ぶ、と考えているからでもある。また、障害者といえば人間はすべてどこかに障害があるわけで、「健全者」「健常者」なんて実際には誰一人として存在しない、架空のものなのだ。
ということは対意語の「障害者」も地球上には誰一人存在しない、というわけだ。実際に存在しない者に対して、正しい、間違い、と騒ぐのはバカげている。まぁこの程度のことなので、それぞれが自分の考えに即して表現すればいいと思うけれど、誤魔化したり、臭いものに蓋はしないでほしい。
以上が、牧口さんの文章全体である。
■ 私の周りでも多く使われるようになった――大谷のコメント(1)
この文章を読んで、抵抗なく(かな?)嫌がらずに、こんなものだろうと深い考えもなく使ってきた私に反省を迫った。まぁ、最後に牧口さんが書かれているように「まぁこの程度のことなので」に、いつもながらホッとした。牧口さんの文章には、いつも救いがあるなぁ、と思った。
私の勤め先でも表現方法を「障害者」から「障がい者」に変えようという動きがでている。障害者本人に尋ねると、本質が変わっていないのに、表現だけを変える必要はないともいう。私が長く付き合っている障害者だから、こういってくれるのだろう。
また、私は、大阪府のいくつかの委員会にもかかわっている。大阪府の行政関係文書では、本文中にあるとおり、一挙に「障害者」から「障がい者」に変更された。これまでと同じように使用されている。つまり、本質はなにも変わっていないのだ。さらに、市町村行政文書や窓口表示も「障害者」から「障がい者」を使う場合が増えている。
さらには、NPOなども、それぞれの文章表現では「障害者」表記ではなく「障がい者」表記になってきた。この点では自治体行政にしたがっている。まぁ、べつにこだわらなくてもかまわないと考えたのだろうか?
■ 「障害者」表記を続けている実例――大谷のコメント(2)
私も、とあるNPOの団体に文章を書いたことがある。その編集者は「障害者」表記を「障がい者」と変えるように依頼してきた。なぜ?と思った。私には判断ができなかったので、ある人の文章を添付した。今なら、この牧口さんの文章を紹介したら、良かったはずだ。
その時に添付した文章は翻訳家の青海恵子さんの「訳語について」である。青海さんは「障害者」という表現を使い続けるといわれている。この文章は、障害児を普通学校へ・全国連絡会編『障害者権利条約――わかりやすい全訳でフル活用!!』(2007年、千書房)に収録されている。青海さんはポリオで車いす利用者と紹介されている。
たしかに「障害者」という表現にはギョッとする。言い換えたくなる。でも、牧口さんも言われるとおり「障害をマイナスと認識している現代社会では」多分無理だろう。私をなるほどと、思わせた表現は「<健全者><健常者>なんて実際には誰一人として存在しない、架空のものなのだ。」という文章である。
これも機関誌から転載である。筆者は牧口一二さんである。ゆめ本社が編集・発行している『ゆめ本社通信』(第20号、2008年10月15日付け)に掲載されている「連載エッセイ・このごろ想うこと」の今号のテーマとして<なんだかウサンクサイ「しょうがい者」「障がい者」という表現>と題されて掲載されている。牧口さんから転載することについて了解を取ったので、以下全文を紹介する。なお、同誌のプロフィールには1937年08月大阪市生まれ。満1才のころポリオ(脊髄性小児マヒ)にかかると記してある。長年松葉杖を使われていたが、最近は車いす生活に移られたという。NHK教育テレビ「きらっといきる」にレギュラー出演されているほか、多数の著書がある(ここには書ききれない)。ぜひ、本誌そのものを手にとって読んでほしい。以下は、牧口さんが書かれた全文である。ただし、中見出しは本人の許可なく私がつけたものである。
■ 漢字表現をひらがな混じりに変える例
このごろ、「障害者」という単語が「しょうがい者」だの「障がい者」とひらがな混じりで表現されている文章に出合うことが多くなった。それも障害者団体の機関誌などにもその傾向が顕著になってきて、あーぁという感じ。大阪府も橋下知事に(しかるべき部署が)お伺いを立てたようで、彼が「そりゃそうだ」(と言ったかどうか)府庁の関係書類がほとんど「障がい者」と書くようになったらしい。
「害」は「よくない」という意味があるから止めておこう、という趣旨は分からなくはないが、あまりにも安易にすぎないだろうか。そんな理屈なら「障」はどうだ。「さしさわり」「故障」「支障」の「障」である。「害」ほど露骨ではないが、「よくない」意味が込められた漢字である。「障」も「害」も使えないとなると、「しょうがい者」が正しい表記ということか。どうもスッキリしない。
■ 言葉だけを穏便にすます傾向が顕著
このごろ世の中全体で、内容は変わらないのに言葉だけを穏便で抵抗の少ない言葉に置き換える傾向があるように思えてしかたがない。というより、内容はより醜くなっているのに(それを誤魔化すかのように)言葉を当たり障りのないものに置き換えているのが気にかかる。たとえば、「後期高齢者」という表現があまりにも評判が悪かったため、福田首相は「長寿高齢者」と言い換えた。この制度の内容が醜すぎたため、それに伴って言葉の無神経さも批判されたのだが、福田さんは言葉が悪かったと思ったのだろうか(まさかね)。
ほかにもある。「障害者自立支援法」というけれど、障害者市民運動が40年ほどかかって築き上げてきた重度障害者も自立できる「自立」観から為政者たちは何ら学ぶこともしないで従来の自立観そのままに、障害者を「孤立」に追い込もうとしている法律なのだ。ボクは「孤立支援法」とか「自立強制法」と皮肉っている。
なんだか後ろめたさを感じるときに使われる丁寧語、たとえば「障害者の方々」など、ふつうなら「障害者たち」「障害がある人々」いいところを、わざわざ丁寧に言おうとする意図が働いている、とボクは思う。捻くれているのかな?考えすぎなのだろうか。そうであってほしいと願うけれど、どうもそうではないようだ。
■ 「障害者」の新しい呼び名を探す
さて、では「障害者」はどのように表記すればいいのだろう。以前、ボクは障害者の立場から「新しい呼び名をつくろう」と公募したことがある。だが、本音のところで障害をマイナスと認識している現代社会では画期的な言葉な生まれるわけもなく、「共生者」とか「協働者」という応募作が圧倒的だった。ただ1つ、ボクがつねに障害を「個性」や「クセ」みたいものと思っているから感じたのか、応募作の中に「クセモノ」というのがあって、ちょっといいなぁと思ったしだい。
ボクは誤魔化したり、臭いものに蓋をするのがイヤだから。いまも「障害者」と書いている。「障害」というのは本来、我ら自身のことではなく、外部の環境によって障害を被っている(邪魔されている)者、それを障害者と呼ぶ、と考えているからでもある。また、障害者といえば人間はすべてどこかに障害があるわけで、「健全者」「健常者」なんて実際には誰一人として存在しない、架空のものなのだ。
ということは対意語の「障害者」も地球上には誰一人存在しない、というわけだ。実際に存在しない者に対して、正しい、間違い、と騒ぐのはバカげている。まぁこの程度のことなので、それぞれが自分の考えに即して表現すればいいと思うけれど、誤魔化したり、臭いものに蓋はしないでほしい。
以上が、牧口さんの文章全体である。
■ 私の周りでも多く使われるようになった――大谷のコメント(1)
この文章を読んで、抵抗なく(かな?)嫌がらずに、こんなものだろうと深い考えもなく使ってきた私に反省を迫った。まぁ、最後に牧口さんが書かれているように「まぁこの程度のことなので」に、いつもながらホッとした。牧口さんの文章には、いつも救いがあるなぁ、と思った。
私の勤め先でも表現方法を「障害者」から「障がい者」に変えようという動きがでている。障害者本人に尋ねると、本質が変わっていないのに、表現だけを変える必要はないともいう。私が長く付き合っている障害者だから、こういってくれるのだろう。
また、私は、大阪府のいくつかの委員会にもかかわっている。大阪府の行政関係文書では、本文中にあるとおり、一挙に「障害者」から「障がい者」に変更された。これまでと同じように使用されている。つまり、本質はなにも変わっていないのだ。さらに、市町村行政文書や窓口表示も「障害者」から「障がい者」を使う場合が増えている。
さらには、NPOなども、それぞれの文章表現では「障害者」表記ではなく「障がい者」表記になってきた。この点では自治体行政にしたがっている。まぁ、べつにこだわらなくてもかまわないと考えたのだろうか?
■ 「障害者」表記を続けている実例――大谷のコメント(2)
私も、とあるNPOの団体に文章を書いたことがある。その編集者は「障害者」表記を「障がい者」と変えるように依頼してきた。なぜ?と思った。私には判断ができなかったので、ある人の文章を添付した。今なら、この牧口さんの文章を紹介したら、良かったはずだ。
その時に添付した文章は翻訳家の青海恵子さんの「訳語について」である。青海さんは「障害者」という表現を使い続けるといわれている。この文章は、障害児を普通学校へ・全国連絡会編『障害者権利条約――わかりやすい全訳でフル活用!!』(2007年、千書房)に収録されている。青海さんはポリオで車いす利用者と紹介されている。
たしかに「障害者」という表現にはギョッとする。言い換えたくなる。でも、牧口さんも言われるとおり「障害をマイナスと認識している現代社会では」多分無理だろう。私をなるほどと、思わせた表現は「<健全者><健常者>なんて実際には誰一人として存在しない、架空のものなのだ。」という文章である。
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