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ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

人に優しい音声案内装置を 日本メディテックス 全国300ヵ所以上で活躍

2017年01月16日 00時48分03秒 | 障害者の自立

 駅などで行き先を教える音声案内装置、ボタンを押したり、人が近づいたりすると曲が流れ出す歌碑。これらの装置を総合的にプロデュースする全国でもめずらしい企業が和歌山市にある。同市塩屋の日本メディテックスだ。創業から30年近くで手掛けた装置は、全国に300以上。山口昭昌代表は「コンセプトの〝音声で人の役に立つ〟は今後も守り続けたい」と力を込める。

 「和歌山市へようこそ。この音声案内装置はバス乗り場と市内観光のご案内をいたします」。市の玄関口、JR和歌山駅前のバスターミナルで観光客らを出迎える装置。このほか、般若心経が流れる高野山の慰霊碑、熊野本宮大社の多言語音声案内板も日本メディテックスが手掛けた機械だ。

 かつてテレビ局で音声を担当していた山口代表は1989年に同社を創業した。2008年には災害時にコミュニティFMの役割を担うNPO法人エフエム和歌山を立ち上げ、理事長を務める。

 製造した装置は「北海道江別市から沖縄・石垣島まで300は超えますね」。南海本線と高野線の急行停車各駅では点字音声案内装置が活躍。JR東日本のほとんどの駅で使われているエスカレーターの音声装置は、地方出身だからこそ思いついたアイデアが生きた。一般的には「ベルトにつかまってください」といったアナウンスが流れるが、「私の装置はそのエスカレーターに乗れば、どこ行きの電車が出るホームに行けるのかを案内します。都会の大きな駅でエスカレーターに乗り間違えると、戻るのに時間が掛かってしまいますから」。独特の提案で大手電機メーカーを抑えて採用された。

 観光地などの歌碑も数々手掛ける。ぶらくり丁の『和歌山ブルース』もその1つ。近づくと曲が自動的に流れ出す。歌碑プロジェクト代表の川崎博史さんは「この歌碑をきっかけに県外から来られた人と会話に花が咲くことも少なくありません。ヒットしたころを知らない年代の方々の耳にもメロディーが残っていると思います」。

 同様の歌碑は昨年も全国3ヵ所に設置した。直近では12月3日、福島県小野町に完成した舟木一夫さんのヒット曲『高校三年生』。作詞者、丘灯至夫(おか・としお)さんの故郷で、今年、生誕100周年を迎えるのを前に建てられた。毎日夕方5時に町内放送でメロディーが流れるほど地元では愛着のある曲。丘灯至夫顕彰事業実行委員の籠田まき子さんは「歌碑はこの曲と共に偉大な作詞家がいたことを知ってもらう機会になる」と喜ぶ。

 30年近くこの仕事に携わってきた山口代表が印象深いと語るのが、ビッグ愛の各階エレベーター前に点字音声案内装置を設置した際、視覚障害者からもらった言葉だ。「機械から流れる『ここに点字案内板があります』との言葉が、『点字での案内を必要としている人が社会にいるということをPRしてくれているのがうれしい』と言ってもらえたんです」とにっこり。「緊急時に災害放送局にもなるエフエム和歌山を始めたのもそうですが、音声で役に立ちたいとの思いだけです。これからも人に優しい音声を提供していきたい」と意気込んでいる。

写真=先月完成した『高校三年生』の歌碑の前で

(ニュース和歌山2017年1月14日号掲載)

 


阪神大震災22年/上 恩返し、亡き友の分も 宮城に移住、復興応援

2017年01月16日 00時36分28秒 | 障害者の自立

 昨日まで一緒にいた仲良しの友達の手は、冷たかった。1995年の阪神大震災直後、神戸市長田区で遺体安置所になっていた薄暗い体育館。「触ったってくれ」。女子生徒の父親に促された。眠っているように見えたが、すぐに死の感触だと気付いた。

  中学2年の忘れられない記憶。「遺体は私だったかもしれない」。同区の自宅は全焼し、生と死は隣り合わせだと思った。「あの子のためにも、恥じないように生きていきたい」。そう誓った藤原奈央子さん(36)は22年後の今、東日本大震災(2011年)の被災地・宮城県に住む。

 阪神大震災の翌年。避難所で出会ったボランティアを沖縄県に訪ね、伝統芸能「エイサー」に魅せられた。やさしい響きの方言や伝統を大切にする風土も気に入り、02年に移住。糸満市の「道の駅」で働き、特産物を使った土産品を開発した。充実した日々だった。

 だが、11年3月の東日本大震災で気持ちが揺れた。テレビの映像が、見慣れた風景を焼き尽くした阪神大震災の記憶と重なった。1週間後、道の駅でチャリティーコンサートを開いた。「阪神大震災で被災した女の子が主催しました」と紹介され、鳴りやまない拍手に涙があふれた。「被災地のことを思う人がこんなにもいる」。あの時、各地から避難所に来てくれた人たちの顔がよみがえった。

 翌月にはボランティアで宮城県気仙沼市や岩手県陸前高田市を訪れた。あまりにも大きな被害。自分ができることが見えてこなかった。13年、農業や漁業とサービス産業を組み合わせる6次産業の創出を目指す経営コンサルタント会社の姿勢に共感した。「産業がなければ復興はしない」。沖縄を離れて、宮城に移った。

 その会社で魚の干物加工や販路の確保に奔走し、地域の人たちの身の上話にもひざをつきあわせた。「元気でやってっか」「おかず持ってけ」。地域になじんだと実感できた。

 藤原さんのボランティアの原点は高校生の時。長田の障害者らによるパン工房「くららべーかりー」で作業を手伝った。そして今、藤原さんは宮城県名取市でパン作りに取り組む。気仙沼に揚がったマグロをツナに加工し、地元の野菜や果物を挟む。地元のものを地元の人に食べてもらうことが復興につながると信じている。

 昨年末、くららべーかりーの石倉泰三さん(64)夫妻の元に、小包が届いた。藤原さんが作っている食パンだった。石倉さんは言う。「僕らは震災の時に、いろんな人にお世話になった。その時の恩返しを、なおちゃん(藤原さん)がやってくれてるんだ。私たちの分も」

 6434人の命を奪った阪神大震災から間もなく22年。最愛の人を失った悲しみの中で人々が助け合い、寄り添った被災地での記憶と教訓は、当時子どもだった世代の胸にも刻まれ、引き継がれている。行動する人たちを追った。

毎日新聞   2017年1月14日 

ボッチャ代表と意見交換 経団連、競技支援へ意欲

2017年01月16日 00時26分03秒 | 障害者の自立

 経団連のオリンピック・パラリンピック等推進委員会の長栄周作委員長(パナソニック会長)が13日、大阪市で合宿中のパラリンピック競技ボッチャの日本代表選手らを訪問し、意見交換した。長栄氏は「アスリートやスタッフの支援を経済界としても進めたい」と述べ、今後のサポート体制の充実に向け意欲を示した。

 長栄氏や同行した社会人野球・パナソニック野球部の選手らが2チームに分かれ、競技を体験。赤と青の球を投げ合い、コート上の白い目標球に近づけるかを競った。

 ボッチャは脳性まひなど重度障害者向けに考案されたスポーツ。

ボッチャの日本代表選手と意見交換する、経団連の長栄周作オリンピック・パラリンピック等推進委員会委員長(中央)

東京新聞     2017年1月14日