出かける時の忘れ物や、人や物の名前が想い出せないのが日常になってしまった。生活の中で物理的な物はいつまでも消えないでいるが、目に見えない思い出や知識、記憶が消えてしまうのは悲しい。
とりわけ、自分の中で創り出したキャラクターの顔も名前も想い出せないのには愕然とする。もともとモノを見ないで絵を描く事が出来るのが自慢なのだが、顔を忘れてしまってはどうする事も出来ない。
仕方がないから過去に描いたモノを見ながら描いてみる。絵のこの二人もそうだ。名前は梅木市乃進とお咲だが、時間が経ったせいか画風も変わる。頭の中のモノは自然と断舎利されるのか。
記憶も意識も消滅して行くのが歳を重ねるということか。しかもデジタルで描いているから、紙も筆記道具も必要ないのだ。頭の中もそうであるから、目に見えるモノも断舎利しなければならないのか。
さみしくて、もがいている。
Macを始めた時、アドビのイラストレーターやフォトショップには勿論の事興味を引かれたが何といっても3Dソフトシェードには驚いた。画面の中でプラモデルが作れる。この興奮は今も消えない。
二十数年前、当時勤めていた会社からあてがわれたコンピューターはMacのパフォーマーであった。クリーム色の小型機は今からみればオモチャであったが、それでも充分な機能は持っていた。
パフォーマーで最初にサイコロを造り、画面上でクルクルと回転させた感動は今も忘れない。現在はコンピューターの液晶画面に電子ペンでペタペタと絵を描いている。今回は風景。想像で描いてみた。
去年の夏に原付きバイクで石狩の海岸線を走った。その眼に焼きついた風景を思い返してみた。今なんで風景画というと、映画「スズメの戸締り」を観たからだ。新海誠のアニメは空が雲が草原が美しい。絵はまだ途中である。
ちなみに、これはウィンドウズのヴィスタで作業。所有しているMacは余りにも昔の物の物なので、最近のお絵描きソフトやハードを呑み込んではくれない。もっぱら2Dの加工処理に使っている。
左手の薬指に指のささくれができた。もう何十年もできていないような気がする。思い返すと子供の頃によくできていたような気がする。あと独身時代。
身体は正直なのかもしれない。食生活のバランスが悪いとも思えないが、この数カ月いろいろと大変な事が多い。今週はごみ収集場所の当番だ。
絵はフォトショップに持ってゆき少し加工した。