建築家はメディアにおいては総じて好意的に紹介されているが、家づくりについていろいろと調べていると、「建築家」と呼ばれる人達に対して、批判的な住宅業界人がそこここにいることに気づく。
工務店の社長だったり、現場監督だったり、ハウスメーカーの営業マンだったり、大工さんだったりが、出版物やネットの端々で施主に向かって「やめとけ」と言っている。
批判する理由はそれぞれで、中には参考になる意見もあるのだが、それはこの場ではおいておく。そうした人々の言葉から、「家(か)」って末尾につくのがえらそうで気に入らないというようなムードを感じることについて考えたいことがある。
施主サイドの言説では、逆に、建築家の「家(か)」にできるだけ威厳を持たせたいという意識を感じることがよくある。
このギャップが「建築家」という職業に対する評価のあやふやさを増幅している感がある。
世の中には「家(か)」のつく職業はいろいろあって、必ずしも「家(か)」のニュアンスは一様ではない。
例えば、
落語家(噺家)の「家(か)」には妙な権威付けはされていないように思う。
格闘家は、「格闘を見せることで客を呼べる人」くらいのイメージである。
「政治家」とか「評論家」なんて軽蔑されたりすることも多い。
決して、芸術家の「家(か)」のような、崇高さ漂う使い方だけではない。
これまで、建築家というと、いわゆる「大御所」のような人だったり、「新進気鋭」の人だったり、芸術家っぽさを強調する感じでとりあげられてきている。
だけど、最近はそんなシーンばかりではない。芸術的建築が施される場所だけでなく、一般人の住宅をテリトリーに活躍する建築家は増えている。
そろそろ「家(か)」のニュアンスを変化させていってもいいのではないだろうか。
もともと、芸術家的な「建築家」なんて、一般人との接点はほとんどないのだし、むしろ、接点の多い住宅設計のプロフェッショナルの方を、一般人が「建築家」という言葉とともに広げてしまえばいい、なんて思う。
私は割と気軽に「建築家」という言葉を使う。その一方、建築家を「先生」と呼んでいない。
芸術作品を作って欲しいと依頼したつもりはないし、「先生」と呼ばないと機嫌が悪くなるような芸術家肌の建築家は、最初から除外している。
私は、建築家を設計技術に秀でた頼もしいプロフェッショナルとして尊敬しているが、落語家や格闘家の「家(か)」のようなニュアンスで「建築家」という言葉を使っているかもしれない。
建築家という言葉に、良くも悪くも思い入れが強い人(結構いるのだ、これが)と話す時は、少し気を回す必要があるな、と思ってきている。
工務店の社長だったり、現場監督だったり、ハウスメーカーの営業マンだったり、大工さんだったりが、出版物やネットの端々で施主に向かって「やめとけ」と言っている。
批判する理由はそれぞれで、中には参考になる意見もあるのだが、それはこの場ではおいておく。そうした人々の言葉から、「家(か)」って末尾につくのがえらそうで気に入らないというようなムードを感じることについて考えたいことがある。
施主サイドの言説では、逆に、建築家の「家(か)」にできるだけ威厳を持たせたいという意識を感じることがよくある。
このギャップが「建築家」という職業に対する評価のあやふやさを増幅している感がある。
世の中には「家(か)」のつく職業はいろいろあって、必ずしも「家(か)」のニュアンスは一様ではない。
例えば、
落語家(噺家)の「家(か)」には妙な権威付けはされていないように思う。
格闘家は、「格闘を見せることで客を呼べる人」くらいのイメージである。
「政治家」とか「評論家」なんて軽蔑されたりすることも多い。
決して、芸術家の「家(か)」のような、崇高さ漂う使い方だけではない。
これまで、建築家というと、いわゆる「大御所」のような人だったり、「新進気鋭」の人だったり、芸術家っぽさを強調する感じでとりあげられてきている。
だけど、最近はそんなシーンばかりではない。芸術的建築が施される場所だけでなく、一般人の住宅をテリトリーに活躍する建築家は増えている。
そろそろ「家(か)」のニュアンスを変化させていってもいいのではないだろうか。
もともと、芸術家的な「建築家」なんて、一般人との接点はほとんどないのだし、むしろ、接点の多い住宅設計のプロフェッショナルの方を、一般人が「建築家」という言葉とともに広げてしまえばいい、なんて思う。
私は割と気軽に「建築家」という言葉を使う。その一方、建築家を「先生」と呼んでいない。
芸術作品を作って欲しいと依頼したつもりはないし、「先生」と呼ばないと機嫌が悪くなるような芸術家肌の建築家は、最初から除外している。
私は、建築家を設計技術に秀でた頼もしいプロフェッショナルとして尊敬しているが、落語家や格闘家の「家(か)」のようなニュアンスで「建築家」という言葉を使っているかもしれない。
建築家という言葉に、良くも悪くも思い入れが強い人(結構いるのだ、これが)と話す時は、少し気を回す必要があるな、と思ってきている。
引っ越し前なので、読むだけ読むだけ...と思って覗いてましたが、この話題は、読み過ごし出来ませんでした( ̄▽ ̄)
私が建築家さんに依頼した当初、「建築家」という言葉の意味について質問したことがあります。その時のお話で、「~家」とつく職業にプライドを持って仕事されてるんだな、という感想を持ちました。
私的には「建築家」は、「音楽家」「芸術家」とイコールのイメージです。
家づくりをしていて、色々な職人さんが、「先生は難しい注文をつけるから...」「先生のやることは...」と(好意的に)ぼやきながらも、いい仕事が出来ることを喜んでおられる感じも受けました。「建築家の先生」というのは、我が儘さを揶揄した言葉ですね。
でも、良くも悪くも、作品を創り出すことが出来る人、という意味で「~家」という言葉があてはまる職業が「建築家」だと思います。(適切ではないが、あえて、「作品」という表現をしてもいいかと思っている)
ま、作品の出来、不出来はあると思いますが。
「建築家の作品」というと、マイナスのイメージが強いですが、私と主人は建築家さんに依頼した最初に、この人の「作品」にしてもらえばいいや、という思いでした。(最初から、作品をつくってほしくて依頼したということではない)
結果は、いい作品が出来上がったと思っています。
でも、私も「先生」とは呼んでいません。
新居の生活が始まろうとしていそがしいようですね。
そのいそがしい中、コメントつけざるを得ないような文章をアップしてしまってすいません(笑)。
言葉の問題はデリケートなので、ちと解説しますね。
まず、私は「建築家」と呼ばれる人、「建築家」という言葉に対し、非常に好意的心情を持っています。建築家とともに家を建てることになったからこそ、家づくりの楽しさをより満喫できているとも思っています。
そして、「芸術家」にも、「落語家」にも、「格闘家」にも好きな人がいっぱいいます。私の好きな彼らは皆、自分の職業にプライドを持って「仕事」をしているはずです。
ですから、堂々と「――家」と呼ばれていいと思っています。
ただ、「――家」周囲の雰囲気はさまざまで、それぞれの世界で言葉のニュアンスは微妙に違います。
私は「建築家」という言葉が、一般人が「芸術家」という言葉に感じるような、ある種、近寄りがたいというか、なかなかお近づきになれそうにないムードを漂わせないほうがいい、という問題意識を持っています。こうした家づくりがもっと広がった方がいいと思っているので・・・。そうした意識が今回のような文章であらわれました。
ちなみに、私は建築家が「作品」という言葉を使ってもそんなに気にしていません。それ以外に適切な言葉がないからです。
ただし、芸術家が自らの発想で自由に作る「作品」と違って、クライアントである私の意思、理念をくみ取ることが前提となっている「作品」ですから、その完成品の持つオリジナリティは建築家だけのものではありません。そういう意味では「作品」という言葉の使い方に「建築家」という言葉と同様の誤解の受けやすさを感じたりしています。
私の場合、少なくとも「芸術作品」ではないことだけは主張しておきたいという気持ちです。無論、そうはいっても芸術性は含まれていると思いますけど。
言葉って難しいです。
HPのノアノアさんの文章からは、建築家への好意が伝わってきます。
私は男ということもあって「愛情表現」が下手なのかな(笑)。
>こうした家づくりがもっと広がった方がいいと思っているので・・・。
私も、その思いから、自分のHPづくりをしてるつもり。
「建築家の作品」という言葉に関して、まだまだ語っていきたいところですが、また次回にします( ̄▽ ̄)
荷造り荷造り...。
>私は男ということもあって「愛情表現」が下手なのかな(笑)。
「愛情表現」に男女差はないですよ。
でも、私も得意ではないです、愛情表現。