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小津安二郎監督『東京物語』

2015年12月23日 | 映画

 
 去る9月に亡くなった原節子さんを偲んで、BSやCS放送で出演作品が多数放送されている。一通り録画を仕掛けたものの、すべてを観るわけにもいかず、NHKBSプレミアムで放送された『東京物語』を観る。
 本作は小津安二郎監督の代表作であると同時に、原節子さんの代表作ともいわれている。
 
 古い映画のお約束ともいえる冒頭シーン。タイトルに続いてスタッフ・キャストのテロップが流れ、イントロのメロディーが終わると画面は海になり、焼き玉エンジンのポンポンポンという音。実にいろいろな映画で使われているパターンだが、最初は誰が考えたのだろう。
 「東京物語」なのになぜ海と焼き玉エンジンの音なのかと不思議に思えば、最初のシーンは尾道だった。
 

(東京電力千住火力発電所の「おばけ煙突」。当時の映画には頻繁に登場した)
 
 尾道に住む周吉(笠智衆)とその妻のとみ(東山千栄子)が東京に住む子どもたちを訪ねてやって来る。
 シーンが東京に変わったことを示すのは、かつて北千住にあった東京電力千住火力発電所の「おばけ煙突」だ。この煙突、東京タワーができるまで東京の象徴だった。見る角度によって1本から4本に見えるので「おばけ煙突」と呼ばれた愛されたが、施設老朽化と豊洲に新東京火力発電所が建設されたことなどを理由に、1963年に稼働を停止し、翌年、東京オリンピックの年(1964年)に撤去された。
 

(左から東山千栄子、原節子、笠智衆)
 
 周吉ととみは、せっかく東京に来たものの子どもたちは多忙でなかなか相手にしてもらえない。その中で次男の嫁紀子(原節子)だけが、会社を休んで東京見物に連れて行く。美容院を営む長女志げ(杉村春子)は東京での両親の居場所を引き受けるものの、世話するのを面倒がり熱海旅行に出すが、熱海の旅館では若者たちが騒いでゆっくりと眠れず、とみは体調を崩してしまう。
 それでも東京旅行に満足して、尾道に帰った周吉ととみだが、間もなくとみは疲れがもとで亡くなる。
 長女志げは母の遺品をあれもこれもと欲しがり、葬式が終わるとさっさと東京に帰ってしまう。
 そうした中で、紀子の優しさに感動した周吉は、妻の形見だといって大切にしていた懐中時計を渡す。それを受け取った紀子は泣き崩れる。
 がらんとした部屋で、周吉がひとり静かに眺める尾道の、焼き玉エンジンの音が聞こえる海のシーンで映画は終わる。
 家族とはなにか、親子とはなにかを、小津安二郎監督が冷徹な視線で描いた名作である。
 
 公開は1953年、近頃の若者が見たら、なんでこれが東京なのかと思うだろう。コンビニもスーパーもないし、電話があるのは会社か事業をやっている家に限られる。電話がないから知り合いの家を訪ねるのにアポイントを取るという習慣がない。相手が留守をしていようが都合が悪かろうがおかまいなしだ。出かけていって留守だったらどうするのかといえば、すごすごと帰るだけ。急用を伝えるには電報だが、自分で直接行ったほうがたいてい早い。
 客は急に来るのがあたり前だから、あらかじめ来客の準備などしてあるはずもなく、もてなしの酒やつまみなどは近所で借りる。この映画でも、突然訪ねて来た周吉ととみのために、紀子はアパートの隣の部屋から酒を借りて来る。
 僕が子どものころには、調味料などがなくなると、母が近所の家に走っていって、醤油や砂糖を借りて来たものだ。当時としてこれは「お互い様」のことであり、かす側は嫌がることなく、借りる側も決して恥ずかしいことではなかった。それどころか、そんなやりとりが近所の絆になった。
 風呂だって、内湯がある家などほとんどないから、だれもが銭湯に行き、名実共に“裸の付き合い”があった。ラジオドラマ「君の名は」の放送時間中に女湯がガラガラになったという語りぐさは、そんな庶民の生活事情の裏付けがあってのことだ。
 そうした、昭和30年代の東京の風景、それも作り物でないリアルな風景を見ることができる。
 
 小津監督独特のローアングルと固定カメラは、パンもズームもない。やたらカメラを振り回す最近の映画とは対照的で、実に落ち着いて観られる。
 原節子さんは、現代の美人女優と比較すれば並の美人だろう。しかし、内面から自然ににじみ出てくる清潔感は、だれでもが真似できるというものではない。永遠の処女といわれる所以だ。
 笠智衆さんのおっとりとしたたたずまい、東山千栄子さんのふくよかな笑顔が実にいい。
 主要キャストのうち存命なのは香川京子さんのみ。非情な時の流れを感じざるを得ない。


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2 コメント

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そこはかとない孤独 (みどり)
2015-12-24 01:32:53
小津映画、大好きです。何度も観てしまいますね。落語と一緒で、ストーリーわかっていても見聞きしていての心地よさ。独特のアングルや所作や話し方に魅了され続けます。「東京物語」は特に。老いが身近になるにつれ、若い時にはあまり感じなかった親子の関係性の変化やら老親の寂しさが身にしみて。
それにしても小津監督、実は案外若かったことに改めて気づきびっくりです。今の人のほうが若さ引きずってしまうんでしょうかね。
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Unknown (ひまわり博士)
2015-12-24 02:15:36
みどりさん

小津安二郎が亡くなったのは60歳、まだまだ働ける年でした。あと20年生きていたらどんな映画を作ったでしょう。不思議なことに、実年齢には関係なく、若く見える人は長生きして老けている人は早死にするようです。見れば小津監督、老けてましたね。
 
 改めて「東京物語」を観ると、語り合っている場面では短いカットを交互に撮っているんですね。当時の映画でカメラを2台使うということはなかったので、どういう撮り方をしたのか興味があります。
 反対に黒澤明はカメラを固定せず、長いレールに乗せたカメラを移動させながら延々と追いかけたり。小津の「静」に対して黒沢の「動」ということでしょうか。
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