

硫黄島(上)と沖縄(下)で発見された万年筆。いずれも従軍兵士の遺品と見られる。
アジア太平洋戦争中における兵士の日記や手紙のほとんどは、万年筆、あるいはペン書きである。
それらは、戦場における出来事をリアルタイムで記録しており、現代に生きるわれわれに、貴重な戦争体験、証言として残されている。
日本軍の従軍兵士や軍属は戦後65年を経て高齢化し、記憶も表現力も曖昧で、インタビュー取材だけでは十分な情報が得られないことが多い。筆者が取材した中国帰還兵のS氏も、80歳を超えていわゆる「まだらぼけ」であり、話が同じところをぐるぐると回ったり、ある時期の記憶がすっぽりと抜けていたりする。
その曖昧な部分や抜け落ちた箇所を補填してくれたのは、彼が誰にも見せることなく保管してあった従軍日記である。その内容は断片的な彼の記憶とも一致し、本来なら貴重な記録として出版されるはずであった。
ある理由から出版の許可が下りず、日の目を見ることはなかったが、取材そのものは大変貴重な体験であった。
さて、その日記も万年筆のインキで書かれている。従軍日記のほとんどはインキが使われ、遺品の万年筆は各地の平和祈念資料館に、また、靖国神社の遊就館にも展示されている。したがって、戦地で兵士が日記や手紙などを書くにあたっては、基本的に万年筆で書かれていたことがわかる。
ところが、ある人からこのブログの「南京事件論争史」についての記事に書き込み(未公開)があり、「兵士が戦場でペンで日記を書いたと言うなら、それ自体、あり得ない」と言ってきた。であるから、ペン書きの日記は「ニセモノ」であると決めつける。
このブログにはときどき右翼から反論や脅しの書き込みがあり、それらと戦うのは面倒だし時間の無駄なので無視することにしていて、この書き込みもあまりにもばかばかしい内容なのでほっておいた。
しかし、この書き込みの主はネット上で持論を展開し、信奉者もいてそれなりの影響力を持っているようなのである。近現代史についてあまり知識のない人間が読んだら鵜呑みにしてしまいそうな危険をはらんでいる。
私はこれまで戦場の記録が万年筆で書かれていたことに何の疑問も持たなかったが、インクの補充はどのようにしていたのかまで具体的に調べたことはなかったし、どのような場所で書いていたのか漠然としか理解していなかった。これでは突っ込まれたときに反論できない。
そこで、ペン書き以外の日記は存在していたのか、またインキの補充はどうしていたのか、どのような環境のもとで兵士は日記を付けていたのか調べてみることにした。
ところが、手元の蔵書をひも解く限り、具体的に戦場の筆記具に言及した書物は見つからなかった。ネット上にも見当たらない。それほど当たり前のことであって、論議の俎上に載せるほどのことでもない、ということなのであろうが、そこが歴史改竄派の狙い所でもあったのだろう。
このブログに書き込んだ主も、自ら足を使って多数の元兵士から取材したという形跡はない。つまりは、南京事件を「なかったことにする」ことを前提に持論を展開しているに過ぎず、最初から「事実」を見極めようとする立場にない。
彼の理論はきわめて稚拙な創作ではあるが、その稚拙な創作を何の疑問も持たずに信じてしまう人間は少なくない。無視を決め込めば、悪意ある理論を野放しにすることになる。笠原十九司教授も、「歴史改竄派に対する反論はしなければいけない」と語る。
そこで、膨大な人数の元兵士からの証言をとり、『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』や『戦場の街 南京』などの優れた著作を出版している松岡環氏に、自らの浅学をさらしつつメールで質問し、丁寧な回答を得ることができた。
ここに、松岡氏からのその回答を掲載させていただく。
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このメール(ブログへの書き込み記事)を読ませていただきますと、歴史を改竄したい意欲満々の皆さんと共通する部分がたくさんありますね。
まず疑問に思ったら自分で足を運んで調べればいいのですが、思い込んだら、または思いこもうとしたら「頭の中で一途」の感があり、真偽はさておき、自論(持論)を言いたくて仕方がない様に見えますね。「嘘も百回言えばほんと!」を狙っているのでしょうか。
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まずご質問にお答えします。
1、私が250名の南京攻略戦の日本兵の取材から入手した日記原本3冊とコピー7冊、南京戦を含む2人の手紙50数通はすべてペン(万年筆)書きです。鉛筆書きは一人もおりません。同時期に南京以外の華北の戦線にいた元兵士2名(実際取材したら)の日記も拝見しましたがペン書きでした。かといって鉛筆書きは無とはいえません。
2、万年筆について。1940年には日本は世界の万年筆生産の半分は担っていたと「ウキペディア」に書いています。スポイド式万年筆は入手しやすかったのと、昭和の十年前後に書かれた日記を見ますと、市販の手帳や企業が配ったと思われる手帳など、実にバラエティーに富んでいます。書くことが多く、書く人も当然多かったと言うことですね。
私が行った兵士の聞き取りでは、ほぼ全員に日記やメモ、写真の有無を聞きました。そして数十人の兵士が日記をつけていました。ただし、(帰還兵士は)敗戦と同時に戦犯になるという噂(があり、それ)を恐れて(従軍日記などの記録を)焼却した人がたくさんいました。
画数の多い字(旧字体)を当時は使っていましたが、(筆記具は)それしかなかったので、書くことに(ことさら)不便(を感じることは)なかったでしょう。もっとも日記の中には崩し字がたくさん見られます。早く書くためですね。
3、インクの入手についてーーー手紙も日記もインク書きが常識でしたが、どこで買ったかは実際に聞いていませんのでよく分かりません。軍隊に入って酒保(営舎内の売店)での入手はできました。
日本兵の聞き取りから考えられるのは、南京戦当時、占領地が都会なら街の中で徴発という略奪がほぼ自由にできました。また少ないながら憲兵、補助憲兵なども配置され、傀儡政権を樹立すると、文具店などから買うこともできたでしょう。もちろん金を払わない日本兵も多くいたようです。
4、日記の記入ーーー兵たちはたとえば無錫飛行場攻略中の何日間や、南京城攻略の数日など、弾が飛んでくる中では書けません。しかしいつも戦闘しているのでなく行軍が終わると「その日の出来事を数行小さい字で書く」と言っていた兵士も多くいました。戦闘中負傷をして、運び込まれた病院で(戦闘記録の)続きを書いた日記もあり、また(後日)日記を詳しく加筆して書きつづった人も、10人中2名おりました。
5、ペン先も軍に供出?ーーー日中戦争(満州事変、支那事変)当時は金属供出はありません。
拙著『南京戦 引き裂かれた記憶を尋ねて』を誹謗中傷する人も、中国人集団虐殺のあと油(ガソリン)をかけて焼いたとの証言はあり得ない。なぜなら「ガソリンの一滴は血の一滴」だと言われた時代だから、ガソリンを使用するはずがないのでこの本は嘘だらけとネット上に書いていました。ガソリンも金属の供出も(1941年12月以降の)太平洋戦争の時代であって、1937年には事実上ありませんでした。
調べもしないでうのみをして誹謗中傷文をまき散らすなんて、非常識な人たちだと思いました。
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どんな対応をされるにせよ、作話や虚言に対抗するにはまず検証が必要です。真面目に考えなければならない私たちはこつこつと資料を集めたり書いたりする時間を取られます。ちょっとばからしい気もしますね。
こんな程度ですがお読みいただければいいかなあと思います。
南京からの手紙に関しては、昨年出版の拙著『戦場の街南京 松村伍長の手紙と程瑞芳日記』社会評論社をご参考に。
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松岡環
*文中( )内は、筆者加筆。読みやすくするために、接続助詞や読点を加えた。
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