執筆中の原稿の参考資料を探して書棚を漁っていたら、『小熊秀雄詩集』と『小熊秀雄全詩集』が目にとまり、ついページを開いてしまった。
『小熊秀雄詩集』は数年前に神田の古書店で入手したレプリカで、『小熊秀雄全詩集』は父親の遺産である。生前の父が小熊秀雄について熱く語っていたのを覚えているが、内容は失念した。たしか、非常に苦労したプロレタリア詩人であると紹介されたと思う。
小熊秀雄は戦前の詩人で、小説や漫画、絵画などにも多彩な才能を著した。
生まれ(1901年)は北海道小樽市。家庭環境は複雑で北海道内や樺太など、転々と住居を移し、あまり恵まれた幼少時代とはいえない。少年時代からほとんど独立生活状態にあり、高等小学校を卒業後、生活のために養鶏場の番人、炭焼手伝い、漁場での重労働、農夫など、さまざまな職業に就いた。
21歳のときから旭川新聞社の新聞記者になり、そのころから詩を書きはじめる。
27歳のとき上京。親友の遠地輝武が池袋に近い長崎町に居を移したのを機に、遠地の近所に転居する。
遠地がマルクス主義に傾き「プロレタリア詩人会」を結成し入会を勧められたが意見が合わず、28歳のときに袂を分かった。
その後、夫人が病に倒れ、生活的にいためつくされた30歳のとき、新宿紀伊国屋画廊で開催されたプロレタリア詩人会主催の「詩画展」で遠地と再開する。あらためてプロレタリア詩人会への入会を勧められ入会を決める。
「俺も女房に永いこと病気され、惨々医者に搾取されて人生観が変わったよ」と遠地に語っている。
入会後は雑誌『プロレタリア詩』をはじめ、複数の雑誌などに作品を発表するようになる。
1935年、34歳のときに最初の詩集『小熊秀雄詩集』(写真)を出版、続けて『飛ぶ橇』を出版する。
1940年11月、肺結核のため39歳の若さで死去。(以上『小熊秀雄全詩集』年譜を参考)
「池袋モンパルナス」とは、パリのセーヌ川沿い、モンパルナス駅近くに芸術家の集落があったことになぞらえ、池袋周辺の農地あたりに貸アトリエが集中していたことから名付けられた。この名は小熊秀雄が言い出したとされる。
池袋モンパルナスに関わった芸術家は、小熊秀雄をはじめ、『小熊秀雄詩集』の装幀(写真)に携わった寺田政明、他に、丸木位里・丸木俊夫妻、長沢節、古沢岩美など、後に高名なアーチストとして評価される人々が多数いた。
小熊秀雄は次のような詩を書いている。
池袋モンパルナスに夜が来た
学生、無頼漢、芸術家が
街に出てくる
彼女のために
神経をつかえ
あまり、太くもなく
細くもない
あり合わせの神経を――
「池袋風景」(小熊秀雄全詩集より)